八月十八日
ピッピッピッ……
すぐにベッド脇の台においてある時計に手を伸ばし、アラームを消した。実は少し前にはぼんやりと目が覚めていたから、布団の中から時計を何度か見ていた記憶がある。目がまだ霞んでよく見えないな。僕は寝たまま瞬きすると、徐々に病室の天井がはっきりと形作られてきた。暗い。時計の文字盤と、ナースコールのスイッチの豆球がほのかに光っているだけで、病室は真っ暗だ。
この病院は昼間も静かだけど、今は物音ひとつしない。自分ひとりだととても物寂しい雰囲気。グレーのカーテンは閉まっているけど、外も光はなくまだ暗い。四時だ。
僕は、昨日先生に言われたように明け方二度寝をするために起きてみた。先生に言われただけでなく、自分なりに少し工夫も入れてみた。レム睡眠は六時間後くらいから活発になると借りた本に書いてあったから、十時就寝から六時間後の四時に起きてみた。少し前から目が覚めてしまったのはダイバーダウンに対する期待なのかな。
「うーん」
体を横にしまま、腕を上げて伸びをしようとしたけど、うまく上がらないのは腕がしびれているから? かなりしっかり目が覚めてしまったけど、眠れるだろうか? 目がぱっちり開いてきたので、目だけ動かして周りを見渡したけど誰もいない。当たり前か。そういえば、先生はそこの丸椅子に座ってたな。
――夢に身を任せてみることです。
「えっ?!」
急に先生の言葉が頭に浮かんできて、僕は小さな声をあげてしまった。
それを合図にしたように、突然、病室の壁がぐにゃりと曲がり始めた!
真っ暗な中で部屋が異世界のように歪み始め、自分のベッドにまで歪みは襲ってきた。
壁の歪みに合わせて、天井もいますぐ落ちてこんとばかりに回転している!?
あまりのことに、僕は咄嗟にベッドから逃げ出そうとした。
でも手も足もピクリとも動かない!
あぁ布団が鉄のように硬く重くなってきた。
呼吸も自由にできない……押しつぶされそうだ……
「うーんん……」
僕はいつの間にか布団の中で目をつぶっていた。
ピッピッピッ……
――はっ!
すぐにベッド脇の棚においてある時計に手を伸ばし、アラームを消した。先ほどの病室の静かな喧騒がうそのような、いつもの病室だった。僕は何が起こったのか理解できず、布団を鼻の上までかぶって周りの様子を伺っていた。
「偽りの目覚めですね」
いつの間にか朝になっていた。先生がいつもの丸椅子に座ってニコニコ話しかけてきた。
「起きたと思ったら、寝てたんです。自分でも何なのかよくわからないんですが、先生の言葉を思い出したら急に歪んだ壁が迫ってきて……」
僕は独り言のように、下を向いてぼそぼそ話した。
「金縛りと同じです。自分は目を覚ましていると思っていますが実は眠っている。ただ、見ている夢は目が覚めた夢。現実と全く変わらないように見える夢です。自分は起きたつもりで現実と同じことをしようとしますが、思うように体が動かないことに気がつくかもしれません。そのうち違和感とともに恐怖が襲ってくると、恐ろしい夢に変貌します。ただ見ている本人は現実と区別が出来ないため、なおさら恐ろしい現象を体感した気がするのです」
「ものすごく怖かったです。この世の終わりかと……」
「恐怖に囚われると、毎回恐ろしい夢に変化してダイバーダウンに入れなくなります」
先生は、ポケットから手鏡を取り出した。四角い折りたたみ式の鏡だ。
「自分に暗示をかけます。鏡で自分の顔を見ながら、金縛りは楽しい、と何度も話しかけましょう。実際、楽しいですよ。金縛りはダイバーダウンへの最短距離なのですから。もう金縛りになったら、これは夢だ! と思ってください。そうすれば、金縛りも解けて自由な世界に飛び出せるはずです」
僕は先生から鏡を受け取って自分の顔を覗き込んだ。なんだかとても白い顔をしている。本当に自分の顔かどうか俄かには信じられない。
先生は最後に付け加えるように言った。
「周囲が暗いと怖い感覚が襲ってくることもありますから、慣れるまでは明け方や昼間の明るいときにダイバーダウンにチャレンジするのがいいでしょう」