八月十六日
また病院の日常が始まった。ベッド脇においてあるデジタル時計に目をやるとちょうど十時を表示していた。昨日の日記を読み返してみると、結局先生はダイバーダウンのやり方は教えてくれなかった。
朝食後、日記を書きながら、ふと今日の朝食はなんだったろうと気になった。つい一時間前に食べたばかりなのに思い出せない。確かに食べた記憶はあるけど……と思い巡らせる。定番のごはんと味噌汁はあったな。……あったか? 窓の外を見ながら、頭の中は今朝の朝食のことで一杯になってきた。ごはんの味を思い出しながら、そういえば焼き魚があった気がするぞ。卵焼きのほのかな甘さも思い出してきた。ただ、なかなか細部まで思い出せない。箸の色はなんだった? 茶碗の色は?
「日記を書くのは、全ての事象に思い巡らせ、心にとどめることが目的なんですよ」
朝食のことで頭が一杯だった僕は、先生がそばに来て話しかけてくるまで気がつかなかった。
「今朝の朝食のおかずは焼き鮭と目玉焼き、たくあんの漬物がありました。思い出しましたか?」
そうだった。そう言われれば。
「目玉焼きの黄身は固焼きで、少しさめていて、少量の塩コショウで味付けされていました。茶色のプラスチックの箸は滑らかな表面で、指にぺたっとくっつく感じがします。茶碗は白のプラスチック――メラミンですね。箸が当たると低いカチャカチャという音がでる」
「えーと、そんなに細かく思い出して日記に書く必要があるんですか?」
「思い出すのではありません。その瞬間に感じるのです。心に刻むのです。日記に書くのは、あとからその感覚を思い出すためだけのものです。最初は難しいかもしれませんが、意識的に感じてください。これが日記を書く目的です。無意識に感じることができれば、もう日記を書く必要はありません。そのときには君はもう、ダイバーダウンの入り口に立っているんです」
唐突にダイバーダウンの話になったのでびっくりした。
「カルロス・カスタネダはその著作で、気がついたら手のひらをじっとみることと言っています。そして、これは夢か現実かと問いかける癖をつけることで、夢の中で手のひらを見ているときに夢と気づけるようになると。ただ手を見ているだけでは夢と気づけません。観察することが重要なのです。夢は現実とそっくりですが、うつろいやすいですから、いつもと少し違うところが出てきます。そこを見逃さないようにするのです。この方法をリアリティチェックといいます」
「わかりました。観察するんですね。手のひらもちょくちょく見てみます」
「あとは、いつもどんな夢を見たか思い出して記憶にとどめていきましょう」