八月十三日
本書の中に頻繁に登場するキーワード「ダイバーダウン」とは、一般に明晰夢と言われている夢の世界のことを示している。明晰夢とは夢の中で夢を見ていると自覚している夢のことであり、適切な訓練によって誰しもが体験することができる身近な不思議現象である。その夢の世界は、どんなことでも実現でき、どんな小さなことにでも感動できるすばらしい世界である。瞼の裏に見る景色は現実にはないほど色鮮やかで鮮烈な印象を与えてくれるし、意識の下に直接響く楽器の旋律は、現実世界での空気というフィルターを通した音とは比べ物にならないほど感動する音楽を聴かせてくれる。この明晰夢の世界のすばらしさは、体感した者でしかわからない。どうだろう、興味が湧いてきただろうか。
ようこそ! 『ダイバーダウン』の世界へ!
僕は今、病院のベッドの上に台を置いて、その上で日記を書いている。今日がはじめて書く日。なぜ日記を書くことになったのかよく覚えていないんだけど、とにかく書くことにしたんだ。そういえば、なぜ入院しているのかもよく覚えていない。
病室は四人部屋で、今入院しているのは自分だけ。入って左側の奥だから、窓際だ。一人だけだとずいぶん静かだ。そう、できるだけ周りのことを日記に書かないと。
病室は三階だから見晴らしはいい。窓の外には駐車場と、その向こうには小高い山が見える。今は真夏だから日差しが黄色く見えるし、影も短い。外はきっとすごく暑いんだろうな。でも、病室はエアコンが効いて快適。アブラセミのうるさい泣き声もどこか遠くの出来事のようにか細く聞こえるだけだ。
正直、暇だ。ベッドの周りを見回しても何もない。本もない。テレビもない。テレビはありそうなんだけど、ない。パソコンもスマホも禁止とかいう張り紙もある。そういえば、枕元の台の上には時計はあったな。じっと見つめていると気が滅入るよ。全然時間が進まない。もう一時間くらい過ぎたかなと思って時計を見直しても、十分も進んでいない。なんだか時の流れが遅くなっているんじゃないか?
そういう意味では日記を書くのはいい暇つぶしになるね。頭に浮かんだこと、周りに見えたことを、ただ細かく記録しておくだけ。
「こんにちは」
不意に、あけっぴろげの扉から先生が入ってきた。一応白衣を着ているけど、先生? 本当は先生なのか良くわからないけど、この人のことは嫌いじゃない。
「だいぶ退屈しているようですね」
「はい、退屈です。三世先生」
先生は、三世留男という名前だ。そう名札に書いてある。
「ずっとベッドの上なのは退屈です。いつ退院できるんでしょうか?」
先生はそれには答えない。
「日記、書いていますか。見たもの、思ったことをできるだけ細かく書くのがいいですよ」
ニコニコとした顔で日記をのぞきこんで言った。先生は、なんというかとらえどころのない人で、あまり印象に残らないイケメンといった感じ。先生の容姿を日記に書こうとしても、今は良く思い出せない。メガネはかけてない。いつもニコニコしている。髪は短めで清潔な感じ。中肉中背で、すらっとしているけど、身長は普通かな。とにかく全く嫌味を感じさせない中性的な人。
「僕は何で入院しているんでしょうか? 良く思い出せないんです」
「君は記憶が混乱していて、入院前のことを忘れてしまっているんです。それを思い出すためにも日記を書くのは重要なんですよ」
そうか日記を書くのを勧めたのは先生だったか。それにしても、自分が何で入院しているのか思い出せないのは、何か事故にでも会ったのかな。体は充分ピンピンしてる気がするから、頭がやられたのかな。
「あまり悲観していないみたいですね」
先生はこちらの考えを見透かしたかのように話しかけてきた。そうなんだ。自分のことを全然心配していないのが不思議。入院しているのに妙に落ち着いている。夏休みが終わったら受験なのに。宿題ってあったっけ?
「日記を書いていればそのうち思い出しますよ。ところで、退屈しているのでしたら本でも読みますか?」
先生はどこからか三冊の本を取り出して、時計の前の台に重ねて置いた。
『ダイバーダウン』『タイムリープ』『ザ・ワールドライン』。なんか、タイトルはあまり面白くなさそうだけど、一応借りておくか……