【短編】椎名と夢路
波が砕ける音がして潮の匂いが強くなった。そこら中に水たまりがある。倉庫の立ち並ぶエリアに連れてこられた夢路は唐突に一際、広い水たまりの中に突き飛ばされて地面に転がった。一気に下着までぐっしょりと濡れた。受け身が取れなくて、「痛っ」という短い言葉が漏れる。複数の嘲笑が上から降ってきた。「だせえ」「調子づいてこのざまとかウケる」。無様ということは夢路自身が一番よくわかっている。
検査のために妹を学園に送り届けてから駅に向かう途中で女子高生が男子五人組に絡まれているのを夢路道永は見つけた。最初は同級生かと思ったが、ワイシャツを着た男子一人を除けばデザインが違う制服が入り混じっている。
女子高生は本気で嫌がっているように見えた。ほっておけなくて口をついた「やめろよ。嫌がってる」の一言で、空気が変わったのがわかる。関心が反れたのを察知した女子高生はそそくさと立ち去ってしまった。無情とは思わなかった。夢路は感謝されたくてやったわけではない。
夢路は高校一年生にしては背が高い。たいていの相手を見下ろせる。今回の五人組にも誰も夢路より大きい奴はいない。唯一、ワイシャツを着た茶髪の男子が夢路の前に立つ。身長差があるとはいえ、茶髪の男子に睨みつけられた夢路は全身の筋肉がこわばるのを感じた。負けじと睨み返すが、それは虚勢だった。
茶髪の男子が短いリーチで右手を突き出す。殴られるかと思い、夢路の体は跳ねた。四人組の誰かが言った「びびってる」という的を射た小さな声が、はっきり耳についた。からかわれていると思うと耳の先が熱くなった。「緒方、やめろよ」と笑い交じりに坊主頭の男子が言う。ワイシャツの男子、緒方が夢路の肩を掴む。
「お前、代わりに付き合えよ」
船のエンジン音が遠くから聞こえた。
ワイシャツの袖を緒方がまくる。隆起する筋肉を見せつけて威圧しているようだ。
「お前に似たやつがうちのクラスにいるけどさ、ほんと目障りなんだよな」
夢路は立ち上がる。海が近いからか、地面は湿っていて倒れたときに濡れたズボンのすそが肌に張り付いて気持ちが悪い。
緒方が歩み寄る。喧嘩慣れしているのだろう、自信が見て取れた。
「お前も言わなくていいこと言ったり、関係ないのに首突っ込んできて嫌われてる口? やめた方が良いよ。人を不快にさせるだけだからさ」
頬が熱くなる。殴られたとわかったのは、倒れこそしなかったけれど体ががくんと崩れて、遅れて痛みが襲ってきてからだった。夢路はとさかに来て、緒方の胸倉を掴んだ。ボタンが千切れる音がした直後に緒方が一気に距離を詰めてきて、夢路の鳩尾に拳がめり込んだ。立っていられない。痛みで体をくの字に曲げて夢路はのたうち回る。
「弱いのにさ、女の前だからってカッコつけるとかほんと頭悪いって思うわ。もしかして助けたら、お近づきになれると思ったわけ?」
取り巻きの四人組が示し合わせたように笑う。痛みと悔しさで違うという声も出ない。
緒方が坊主頭に「あのバケツ」と言って倉庫の壁際にある、なんの変哲もないバケツを顎で指した。バケツの水には緑色の泡が浮いている。坊主頭は倒れている夢路に向かってそれをひっくり返した。「きたねえ」。俺もそう思うと夢路はひどい臭いに嗅ぎながら、みじめに横たわる自分の姿を思い描いた。背が大きくても俺はだめだなあ。痛いけれど、笑えてきた。夢路は笑わないと熱くなる目頭に溜まる涙を堪えられなかった。
スポットライトのような街灯の下に舞台の主人公のように緒方は立っている。
「ちょっとくらい良いだろう」
緒方、ほどほどにしろよ。ヤジとも歓声ともつかない合いの手が入った。
頬に張り付いた前髪から滴る水の勢いが増したような気がした。
何かやばいことが起きようとしていることは夢路にも分かった。腹の痛みが引き、ジェットコースターが急降下する直前のように内臓がきゅっと持ち上がったような不快な感じがした。警鐘みたいに、やばいやばいやばいという言葉で思考が埋め尽くされる。
能力が来る。
「起きろ、シェイドウォーカー」
思わず、夢路の口をついた「影」という言葉。そのあとが続かなかった。
緒方の影が沸き上がるように隆起し、瞬く間に緒方の背を、そして夢路の身長を追い抜く。黒いローブを纏ったような人型を形作る。
「そう、影だ。影を操って実体化させるアルターポーテンス、『シャドームーア』。こいつはその操作形態の一つさ」
夢路はなりふり構わず、逃げ出した。「追え、シェイドウォーカー」。背中で緒方の声がする。直後、目端に黒いローブが見えた。早い、そう思った直後に『人型の影』が大きく腕を振った。夢路の体は倉庫のシャッターに叩きつけられる。大きな音を立ててシャッターは波打った。
「ばか。緒方、あんま大きな音立てんなよ。人が来たらどうする」
「国道沿いだから、車の音で聞こえねえって」
夢路は尚も立ち上がる。能力者に敵うわけがない。殺されることが脳裏を過ぎる。濡れた体が怖気で震えた。ははは、と湿ったような笑い声がする。緒方が「本気でビビってるよ」と心底楽しそうにしていた。愚痴るように「今日、ガッコで嫌なことあってさ」と緒方。
「椎名っつー奴がいるんだがよ。こいつがやたら俺のことを目の敵にして、つっかかってくんのよ。今日もクラスの奴とコメディの練習してたらさ、横槍入れて来やがったわけ。陰キャ同士、助け合って生きてるのかね」
「お前ほんと椎名のこと嫌いだよな」
あれ好きになる奴いんの。違いねえ。そんな緒方たちのやりとりを後目に夢路は考えていた。きっと緒方たちのいう、椎名という人は緒方にからかわれていたクラスメイトを助けに入ったのだろう、と。現状を鑑みると緒方は弱い奴をなぶるタイプだ。そんな奴が夢路を相手にストレスを解消しているということは、きっと椎名は強くて緒方も易々と手を出せない相手なのだろうと結論付けた。そのとばっちりを受けているという発想は夢路にはない。ただ、会ったこともない椎名に対し、かっこいいなあという感嘆だけがあった。「おい、聞いてっか」。緒方の言葉が夢路を現実に引き戻す。シェイドウォーカーは緒方の背後に控えるように立っている。緒方が腹に蹴り入れる。思わず夢路はうめき声をあげた。
「あと何回か、軽く蹴って海に落とそう」
「それよくニュースになる殺しちゃうパターンじゃん」と坊主頭と同じ制服のピアスの男子が茶化すように言う。
「シェイドウォーカーですぐ助けてやるからよ」
とりあえず、まず一発。緒方が振り子を持ち上げるように脚を引いて勢いを付けた。そのとき衝撃が走って、片足立ちのような状態になっていた緒方の体をやすやすと吹っ飛ばした。緒方が仲間の方に向かってボーリング玉のように軽快に転がる。すぐに緒方は立ち上がって、血の混じった唾を吐き捨てる。夢路と五人組の間に小柄な人が立っていた。いつ割って入ったか、全くわからなかった。
緒方の濁った叫び声はまともに聴きとれるようなものではないはずなのに、確かに「てめえ椎名」と言っているのがわかった。
「自分の名前くらい、そんなに情熱的に叫ばれんでもわかるわ阿呆め」
椎名は夢路を振り返り、立てるかと尋ねた。だが夢路には椎名の背後に迫るシェイドウォーカーの姿が見えていて、危ないと叫んだ。しかし夢路のそれは杞憂に終わる。シェイドウォーカーの進行は大きく横に反れ、椎名を避けて通り過ぎると音を立てて地面を擦って溶けるように消えた。夢路にはわからないことばかりだった。
「立てるか、と聞いたんだが」
夢路は差し出された手を取る。小さな体躯に似合わない力強さにアシストされて夢路は立ち上がった。夢路は、坊主頭と椎名が同じ制服であることに目が行く。「さて」と椎名は一息吐いて「逃げるか」と続けた。
「ふざけてんのか椎名」
「ふざけてなどいないよ緒方。俺自身は真面目だ。ただ、大真面目にお前をおちょくっている」
「ぶっ殺す」という発言と同時に、緒方の足元の影が隆起し、再びシェイドウォーカーが現れる。最初に顕現させたときよりずっとまがまがしく夢路には映った。先ほどよりサイズが大きくなり、そして台風の日に提げ忘れられた旗のように絶えず黒いローブが落ち着きなくはためいている。
「走れ」という椎名の言葉に背中を押され、向かう先も考えず夢路は無我夢中で駆け出した。「『流転回廊』。彼のスピードを強化せよ」という椎名の言葉は届いていなかったが、夢路はいつもよりずっと早く走れていることに気が付いていた。
緒方たちには椎名は消えたように見えていた。「島田」と緒方に呼ばれて坊主頭が少しおびえたように「なんだよ」と返事をした。
「お前の能力であいつら探知しろ。坂本は椎名を倉庫の地帯から出ねえよう網張れ。絶対見つけろ」
シェイドウォーカーは島田達でさえ、かつて見たことがないほど膨れ上がっていた。いつはじけ飛ぶかわかったもんじゃねえ。緒方の様相に四人組の背は冷や水を浴びたように冷たい汗で湿っていく。本当に殺しちまうんじゃねえの? という発想がにわかに冗談じゃなくなってきたと感じた。
倉庫に椎名と夢路は足を踏み入れた。夢路は入口のすぐわきの影になっているところいへたり込んだ。倉庫内を見渡すと生け簀なのか、面積は広いが浅く水が張られた容器が置かれている。奥には扉が二つある。椎名が赴いて手前のアルミの扉を開けて様子を見ている。それと比べると白く厚みがあって横向きにノブが付いた奥の扉は冷凍室ではないかと夢路はあたりを付けた。椎名がアルミの扉を開けたまま、夢路のもとに戻ってくる。
椎名に尋ねられ、夢路は名乗る。
すると畏まって椎名は言った。
「夢路君。君に謝らねばならん」
椎名が申し訳なさそうに言う。
「君が女子高生を助けたあたりからずっと見ていた」
「一部始終じゃねえか」
夢路は苦笑した。腹部の痛みに響いて、ついむせた。
「てっきり深鏡神の近くだから能力者で腕に自信があるかと思ったんだ。まったくそんなことなかった。ケンカさえあんましたことないだろ。胸倉なんか掴んだら腕一本分のアドバンテージが無くなるし、がら空きの腹にショートレンジのパンチ入れられるに決まっている。少なくとも俺はやらん」
夢路は力なく笑う。
「君が緒方たちが言ってた椎名君?」と夢路が尋ねると、そうだと答えた。夢路は落ち着いて椎名を上から下まで見る。髪は柔らかそうな黒髪で前髪の分け目が右側にあり、触角のような一際長い二本の髪が前後に跳ねている。大きいけれど目つきは悪く、薄っすらとクマがあった。体は華奢で、背もあまり高くない。中学生くらいに見えた。
「イメージしてたのと全然違う。緒方がうかつに手を出せないくらいだからもっとこう」
「いかついかと?」
「まさにそう」
「うかつに手を出せない、か。まあ入学式四日後に能力抜きとは言え、一方的にボコボコにしたからなあ」
「見かけによらず強いんだな」
「元々いじめられっ子だから鍛えてた。意外とやれるもんだよ。プロ対アマチュアってわけじゃないし。俺の同級生で俺よか小さくて、体重が三十キロ台の奴が空手の有段者相手に四時間殴り合ってる。やってみたら案外わからないもんだよ」
「俺にはとてもそんな勇気はないよ」
「困ってる奴を見捨てないことも勇気だよ。分野が違うだけだ。住み分けとか専門性の違いとかだよ」
「変なフォローだ。それより逃げなくて良いもんかな」
「島田が探知系の能力で、坂本がこのエリア一体を見張ってるだろうから無理かな。そういう能力だった筈だ」
「どんな能力かわからないのか」
「先生たちは把握してるかもしれないけど、あんまり能力の内容とか、その類の話は生徒にはしないからな。卒業後、マスターピースになったとき、犯罪者に対策されたりするしさ。生徒が見せてる分に関してならまだしも詳細は基本は伏せてるよ。緒方の影を実体化するアルターポーテンスってふれこみも実際怪しい。影って半透明だろ。あそこまで黒々としてるとコミック的で出来過ぎてる。それに決め手に欠けるが、影を変換して作ったというのにシェイドウォーカーに影があるのも不自然だ。ならシェイドウォーカーの影からまた実体化させて無限増殖すればいい。他のことに容量を使っているのか、または自分の影の形を自由に変える能力と影に合わせてほかの物質の形を変化させる能力の併用とかかも知れない。いやそれなら何かを消費するはず。目立った痕跡はなかったが」
緒方たちは五人組だ。ほか二人は? と問うと、椎名は「わからない。うちの学生かも怪しい」と答えた。
「例えばさ、五人が同じ制服で一人だけ他校の制服だと浮くだろ。でも違う制服が混じってると進学でバラバラになったけど、同じ中学で仲良かった知り合いかも知れないってなるんだよ。そういう手なんだ」
「そして助けを呼べないと拉致られてボコボコにされると。椎名君が来てくれて助かった」
「助けてくれなんて言われてないぞ。俺はただ、日ごろの鬱憤を緒方たちに晴らすチャンスかと思っただけだ」
「君って、だいぶひねくれてる」
「よく言われるよ。ただな、人は誰かのためになんて生きられないと俺は思ってる。自分に一切メリットがないことを人は基本的にしないよ。これは俺のためでもあるんだ、きっと」
立ち並ぶ倉庫に靴音が反響する。「走れるか」という椎名の問いに夢路は頷いた。
椎名が開けておいたアルミのおいたドアの間近で緒方たちが倉庫の入口に到着した。取り巻きが何か抱えている。白熱灯と延長コードだった。
「お前らの居場所は分かっていたからな。ちょっと探し物してて遅くなっちまった」
「夢路君、止まれ」
椎名が夢路を呼び止めたところで白熱灯に明かりが点り、緒方を背後から照らした。声に応じて振り返った夢路はまばゆさに目を背ける。緒方の影がアルミのドアのすぐ横の壁まで伸びていた。そこから具現化したシェイドウォーカーが夢路の前にゆらりと立ちはだかった。
襲い来るシェイドウォーカーを前に夢路は頭を腕で庇って目を閉じた。外で固いものに何かがぶつかったような音がした。しかし夢路には一向に何も起きない。
しばらくして苛立つ緒方の声が聞こえてきた。
「相変わらず、てめえの『流転回廊』はわけがわかんねえな」
「ありがとう。ほめ言葉だ」
目を開けるとハイドウォーカーの姿がどこにもなかった。椎名が夢路の肩を叩く。「ほれ、キビキビ逃げぬか」。我に帰って夢路も走り出す。
椎名が立ち止まって、緒方たちを振り返る。緒方の怒号が聞こえてきた。待ちやがれなど所々聞き取れるが、ほぼ「おい」とか威嚇するような呼びかけと、うなり声だった。怒号に混じって黒い弾が緒方から撃ち放たれるが、ことごとく椎名たちには届かない。不自然な軌道で逸れて壁や床を穿っていく。
風を操っているのか? 夢路は、からくりのわからない攻防を後目にアルミの扉を飛び出した。遅れて出て来た椎名は外にあったドラム缶を覗き込んだ。さび付いて、下の方は破けて水が滴り、黄土色の水たまりが出来ている。
「早く逃げないと」
「いや、ちょっとな」
腑に落ちないという様子だった。夢路はドラム缶がどうしたのか見当も付かない。
倉庫内から、落ち着けって緒方となだめる言葉が聞こえたあと、ストローで最後の一滴まで飲み物を啜るような音がした。
二人は最初に夢路が連れてこられた場所に戻った。乾いた枯れ葉を踏んだ際、かさりと音を立てる。地面を舐めるように眺める椎名に「さっきから何を調べてるんだ」と夢路が問う。
「さっき言ったように何かを材料に影を実体化させてるなら痕跡があるんじゃないかと思ったんだ。まあ地面をや金属を取り込んでるなら、どこか大きく抉れてるだろうからわかりやすいんだろうが。当てが外れた」
立ち上がり、パンパンと打ち合わせて手に付いた砂利を椎名ははらった。
「ただまあ、概ねシャドームーアの能力は把握した」
「当てが外れたって」
「想像していたのと違ったということだよ」
椎名が地面を蹴る。靴と細かな砂利が擦れ合う、渇いた音がした。
「ときに夢路君は、やられたらやられっぱなしで引き下がれる質かい」
夢路は間が抜けたように、え? と聞き返した。椎名が、夢路を見やる。
「俺の能力を説明するから、それを聞いた上で判断して欲しい」
分野が違う勇気を振るうつもりはあるか。
そう言って椎名は不適に笑った。
生け簀があった倉庫に椎名たちは戻った。五人組とシェイドウォーカーが待ち構えている。天井付近まで伸びたシェイドウォーカーは頭を前に屈ませている。このサイズの相手に見下ろされるのは夢路も初めてだった。
「お前らは手ェ出すなよ」
緒方が他の面子を牽制する。
「お前はよく逃げるよな。演習でもそうだ。いなくなったかと思えば、隠れて汚ェ策を張って戻ってくる」
卑怯者が卑怯者が卑怯者が。緒方は繰り返し罵る。
椎名は鼻で笑った。
「普段は卑怯な方法で勝つから後味が悪くってな、正面から殴り合って勝ったときは痛快だったよ」
煽ってくれるなよと夢路は内心、気が気ではない。アルミのドアがひしゃげて吹き飛んだ。シェイドウォーカーが腕を振るった結果だった。改めて夢路は体が震え上がった。あんなもの食らったら一溜まりもないと。
「逃げ道、作ってやったぞ」
椎名は風が吹き込む倉庫の出入口を立てた親指でクイッと指した。
「堂々とここから帰るよ。お前を完膚なきまでに堕としてから」
「吠え面かきやがれ」
シェイドウォーカーが薙払うように腕を振るう。椎名の挙げた左手に風が収束する。
「風よ巡れ、『流転回廊』」
俺の能力についてだが、と椎名は切り出した。すかさず夢路は「風を操って、相手を吹っ飛ばしたり、攻撃を反らすんだろ」と持論で遮る。
椎名は、短く、くくっと笑った。
「周囲にはそう言っているが、それは虚偽だ。空気の流れの操作は副次的なもので、俺の『流転回廊』は『入った物質の流れや軌道を操作する道』を作り出すアルターポーテンスだ。攻撃を受け流したり、別の能力との併用だが取り込んだ風を強化して撃ち放てる。回廊自体も光の軌道を操作して不可視にしてある」
「レーザーとかも出来るのか」
夢路は少しわくわくした。
「俺も光を殺人光線に変換しようとしたが、それは光属性のアルターポーテンスの分野らしくてな。せいぜい出来て見えなくしたり、別の地点の光景を回廊を通して映すくらいだった」
椎名の右手の指がパソコンのキーボードを叩くような動きをする。「癖なんだ。考えごとをするときの」と気付いた椎名が夢路に配慮する。「気に障るようならやめるよ」
「いや、大丈夫。気にならないよ。俺だって何で人を不快にさせてるかわからないし」
「そうか、ありがとう。それで作戦なのだが、まず君には確かめてもらいたいことがある。君は背が高いから覗き込めるんじゃないかなって」
シェイドウォーカーの腕が流転回廊の風の弾を受けてはじける。肥大化した本体にも何発か被弾した。それを見て夢路は走り出す。椎名は打ち合わせで言っていた。『合図は近付いたところで腕を振り上げること、だ」
「おい、あいつ、こっちに来るぞ」と島田が向かってきた夢路を見て言う。
「手を出すなって言われたのは椎名のことでだ。あいつは俺らがやっていいだろう」
坂本が愉快そうに笑った。夢路が腕を振り上げる。「さっきの仕返しかな」と坂本も走り寄って腕を振りかぶった。そのとき、流転回廊の風の弾が明らかに四人組を狙って放たれた。「椎名の野郎、調子に乗りやがって」と坂本。「あいつ、いなくなったぞ」。島田が周りを見渡して夢路を探す。「知るかよ」と坂本は吐き捨てる。白熱灯を持った男子が「緒方は手を出すなって言ったがよ。アシストくらい良くね。椎名が俺たち狙ってきたわけだし」。
椎名の攻撃を受けてシェイドウォーカーが幾分か、小さくなる。すると緒方の影が湧き立ち、黒い球体が現れた。それは椎名めがけて放たれる。椎名は緒方の方へ手を伸ばす。
黒い球体は流転回廊を通って外に受け流されていくのだが、緒方には知る由もない。緒方は椎名と距離を詰める。その時、緒方の背から光が放たれて椎名のいる壁際に影が届く。便乗して緒方はシェイドウォーカーを椎名の背後に顕現させて、距離を詰めるべく駆け寄った。だが、今度は椎名の背後から強い光が差し、形成中のシェイドウォーカーを伴い、視界から消えた。呆気にとられたところを逆に椎名が駆け寄り、緒方の頬を殴りつけた。緒方は濁った声で「くそが」と言った。光は椎名が白熱灯から発せられたものを流転回廊を通して軌道を操作して運んできたものだ。
シェイドウォーカーを戻して防御しなければと緒方は考えた。影の性質をオフにして自分の近くに顕現させねばと思っていたところで椎名の言葉に頭が白紙になった。
「シェイドウォーカーは戻っては来ぬよ。あれ、影の操作じゃねえんだろ」
「シャドームーアは影をゲートにして取り込んだ水の支配権を獲得し、黒く染めた水を操作する能力だ」
最初に夢路が連れてこられた倉庫前で椎名はそう言った。
「君は倒れとき、裾が濡れたんだよな。俺自身、確認しているが水たまりが渇くには異様に早すぎる。さっき君を狙って壁から出てきたシェイドウォーカーを流転回廊に乗せて外のドラム缶に突っ込ませたんだ。何を変化させて作ったものか見極めるのにな。ドラム缶は空だった。考えてみれば、錆びて穴が空いていたからな、流転回廊で支配権を上書きした際に水に戻って漏れ出したんだ。おそらく攻撃するたびに水を消費するようだから、きっと先ほどの水槽で補給する筈だ。だから先ず君は水槽を見て、水量が減っていたら走り出してほしい。俺はそれを見てから、作戦に移る」
ばか、早く白熱灯を消せよ。緒方は歯ぎしりする。
「どうやらシェイドウォーカーは、頭の影の位置を起点に発現するようだな」
緒方が立ち上がるとすかさず椎名がわきを絞めて、相手と自分の胸の間を腕の曲げ延ばしと引きだけで往復するパンチを二連撃で繰り出し、三発目に大きく振りかぶったテレフォンパンチで緒方の顔面をとらえる。鼻血をぬぐい、緒方が駆け寄って椎名を突き飛ばし、倒れたところに蹴り込むが椎名は食らう前に蹴りを避けて立ち上がり、懐に飛び込む形で脇に拳を叩き込んだ。復帰が異様に早いんだよと緒方は内心で毒づく。
よろめきながら緒方は立ち上がる。
「シェイドウォーカーが吹っ飛んだ先は業務用冷凍庫だよ。夢路君に扉を開けてもらったんだ」
「いつだ」
「さっき四人の方に駆け出したように見えたろ、あれ、本当は業務用冷凍庫に向かって走って行った姿を流転回廊で投射したものなんだ。冷凍庫に近寄ったところで腕を振り上げるという合図を決めてな。そのタイミングで四人を俺が攻撃して気を反らせた。今頃、水の出入り口になっているゲートごと凍ってるんじゃないか」
「影の性質を水に付加する能力。その性質をオフにすれば、ため込んでいた水がどう処理されるかわからないが、水を再び集めて自分の影の上ならどこでも出現させられるといったところか」
緒方は足元の水分や、水槽のわずかな残りを必死で吸い上げていた。
「ちなみにとっくに白熱灯は切れているよ。この光はまあ、流転回廊の中にとどめていたものをこまごまと放出してるだけだ」
椎名が歩み寄っていく。緒方は早く水を溜めなければ、と躍起になり、「来るな」と実現するわけがない願望を呟いた。なんでこんな根暗野郎に追い詰められてる、どうしてこんな小さい奴が偉そうに俺にものを言う。友達もいない、休み時間は本に目を落とすか、動画サイトで動物の生態を追う番組を見てる陰キャがなんで強いんだよ。うつむいて生きてる奴は、それらしく生きていけばいいのに。緒方の焦りはピークに達した。
「うつむいて生きている奴が弱いと誰が決めた。読書好きの根暗が弱いと誰が決めた。友達作りの下手な奴が弱いと誰が決めた。背の低い者が弱いと誰が決めた」
椎名の殴打が緒方の腹に入る。「これは俺の分だ」。次に両肩を抑えられて前に倒されたところに椎名の膝が入る。「これも俺の分だな」。呻く緒方の左頬を撃ち、「さらに俺の分」。早く溜まれ、まだなのかと思っていたところで緒方は脇腹を打たれた。「今のも俺の分だ」。くそが、くそが、くそが、と思うたびに椎名の殴打と蹴りが緒方を捕らえる。
その都度、「これも」「これも」「これも」と椎名がつぶやく。
「あいつ、強すぎる。一方的だ」と島田がたじろいだ。
しかし、緒方は唐突に笑った。ようやく水が溜まったからだ。緒方の背後に不穏な揺らめきとともに人型が形成されていく。椎名の能力は遠距離では効果が薄いが、近距離ならば、幾分か態勢を崩すことにはなるが、一撃を入れやすいことを緒方は演習で知っていた。生身なら椎名も一たまりがない。この一手で逆転できると緒方は勝ち誇った。
「起きろ、シェイドウォーカー。椎名をぶち殺」
シェイドウォーカーが前触れもなく弾け飛んだ。「何で」と緒方は狼狽える。
「言ったろ、完膚なきまでに堕とすって」
椎名は緒方の胸倉を掴んで、椎名が右の頬を今までにないくらい強く殴りつけた。「これも俺の分だが」。すかさず緒方は無防備になった椎名の腹に拳を叩き込んだ。固ェ、と椎名の腹筋の弾力が緒方の拳に伝わった直後に椎名が右を指さした。とっさに緒方は指の先を見た。「この一発は夢路君からだ」
流転回廊、解除。
緒方の左側に今まで回廊内で姿を消していた夢路が現れる。夢路は椎名の言葉を振り返る。『俺が胸倉を掴んだら、何が何でも逃がさないから、一発返してやれ。とびっきりの一発をな。ただ、俺がいなきゃ返せなかった一発だ。だから俺に免じてその一発で許してやってくれ』。
緒方は濁った声で何か叫んで、夢路の拳を受けてその場に崩れ落ちた。
潮気を含んだ、生ぬるい風が吹いている。
緒方をしり目に椎名は『用がないようなら、俺は帰る』と坂本達に宣言した。誰も何も言わなかった。
血がつながっていないことは伏せて話したが、夢路の妹が能力検査を怖がってついてきたことを聞いて椎名は苦笑した。
「あれ怖いよ。精神世界に五感をフルダイブさせて、自分が何の属性を支配する能力者か推察するってやつだろ。昔はあれ、催眠術でやってたって嘘みたいな話があるよ。催眠状態にして『何が見えるか』って問うたんだと」
「それは状況も相まって確かに怖いな」
「仙人や魔法使いと呼ばれた頃も相当だったろうがな」
分かれ道にたどり着く。片方は学園で、もう片方は駅に向かう道。たった一つの孤立した電灯の下に二人はいる。さっき緒方を見て、スポットライトみたいだと考えたことを思い出す。「では、気を付けてな」と椎名が立ち去ろうとする。
「住み分けとかさ、分野が違うかもしれないけど、また会えるかな」
今生の別れみたいに言うなよ、と椎名はシニカルに笑う。
「縁があったら、また会おう」