何処へ
生臭いような、独特の篭ったにおいがした。それで、わたしはエマが現れたことを知った。エマはひんやりと粘つく手を背後から伸ばし、わたしの顎を愛撫した。わたしはそれを無視して靴紐を結び終えると、安ベッドのスプリングを軋ませて立ち上がり、窓を開けた。
煤煙まじりの風が吹き込む。わたしは今にも崩れそうなバルコニーの、赤く錆びついた手摺にもたれかかり、痰の絡む咳をしながら煙草を二本吸った。つめたい風はわたしの肺を洗わない。わたしは吸殻を通りへと投げ捨てた。階下の怒号が早朝の静寂を叩き割る。
わたしの一日はこのようにしてはじまる。
この町の空は、いつも曇ったように灰がかって見える。おそらくは町外れの工場が吐き出す煤煙のせいで。花屋に並ぶカーネーションの束も、背中を丸めて石畳を歩く人々の群れも、この町ではひどく煤けて色褪せている。
「レネ、ひとりじゃあ、たいへんだろうね」
アパートメントの階段を咳き込みながら降りるわたしを見て、一階の老婆が痛ましげに言った。この老婆はわたしに同情を寄せている。頭がいかれているらしく、明け方になると別人のような金切り声を上げるのが常だが、このあたりの住人はわたしを含めてもうとっくに慣れているのだった。わたしは弁当箱を揺らし、答えた。
「トリイ、わたしはひとりじゃありませんよ」
「そうだったかい」
老婆が穏やかに返すのに頷きかえして、わたしはハンチング帽を目深に被りなおした。
わたしは薄汚い身なりをした労働者たちの流れに加わり、トラムの発着所に並ぶ。トラムはがたごと言いながら、わたしたちを町の反対側にある煉瓦工場へと運ぶ。耐火煉瓦から耐火煉瓦を作るのだ。シャモットに耐火粘土だのアルミナだの有機バインダーだの、そういったもろもろを混ぜ込んで混錬し、プレス成形し、焼成する。工程は単純だった。この仕事をするわたしたちはシリカ粉塵をたっぷり吸い込んで、みな珪肺を患っている。ニューモノウルトラマイクロスコーピックシリコヴォルケーノコニオシス。わたしも、ヤルミルも。
「レネ」
作業服姿のヤルミルが声を掛けてきた。
「今日、チェニェクは休みだ。つまり、おれたちはそのぶん働かにゃならない」
「ああ」
「大丈夫か?」
ヤルミルは気遣わしげに尋ねた。今朝のわたしの顔色を見て心配したのかもしれないが、ヤルミルもさっきから咳ばかりしている。わたしは控えめに頷いた。
「チェニェクは結核かな」
「かもしれない。あいつの袖はいつも血が付いてた」
ヤルミルが肩を竦めた。彼は独身でわたしより歳下だが、わたしよりずっとよく働いている。弁当を用意してくれる家族がいないので、いつも弁当箱の代わりに近くのパン屋で分けてもらった売れ残りのパンの袋をぶら下げているのだった。
「なあ、レネ」
わたしは目で合図した。工場長がこちらを見ている。工場長はわたしたちのことを心底憎んでおり、わたしたちも同じくらいに工場長を憎んでいた。わたしとヤルミルは並んで手を動かすことに専念した。
工場長が近づいてくるのが分かった。わたしは気づかないふりをしようとしたが、通り過ぎざまに突然頭の横を殴り飛ばされた。瞬間平衡感覚を失い、わたしは大きくたたらを踏んだ。ヤルミルがわたしを抱き止めた。肺にとって有害な粉塵が舞い上がり、わたしたちはまたそれをしこたま吸い込んだ。わたしは口を手のひらで押さえ、けたたましい咳をした。
「レネ、お喋りとは」
工場長が嫌味なふうに片眉を吊り上げた。
「昼休憩はいらないみたいだな」
「工場長」
ヤルミルが声を上げかけたが、工場長が一瞥するとすぐに黙った。侮蔑をこめた視線を再びわたしに向け、工場長は低く呟いた。
「人殺し、なあ、レネ、働かせてもらえるだけありがたいと思え」
そう言い捨てて、工場長は歩き去った。それだけだった。周りの労働者たちはわたしたちのほうをちらりと見て、作業に戻った。とばっちりを食らってはかなわないからだ。わたしは咳をなんとか抑え、自分の力で立った。ヤルミルに礼を言い、首を振ってみせる。手のひらに、赤褐色の染みがついていた。
「レネ」
ヤルミルが作業に戻りながら、此方に顔を向けないままで、また声を掛けた。唇を動かさないようにしていた。わたしはまだ眩暈が治まっていなかった。
「ヤルミル、工場長は頭がいかれてる」
「ああ」
ヤルミルは躊躇いがちに言った。
「今日の仕事が終わったら、一杯どこかで引っかけないか。安酒でも。少し、話したいことが……」
「ヤルミル」
わたしは申し訳なく思いながら答えた。
「家でエマが待ってるんだ」
ヤルミルは悲しげに頷いて、その日はもうわたしに声を掛けなかった。彼が同性愛者だという噂は本当なのかもしれない、とわたしは思った。どうでもよかった。
その夜、バルコニーで煙草を吸っていたわたしは、手摺の上に醜く不気味な芋虫を見つけた。なにか——おそらくは蝶の——幼虫らしいことは分かった。体色はどす黒く、おぞましい疣状の突起に覆われていて、これまでに見たどんな幼虫とも違っていた。こんなところで何を食べて生きているのか、皆目見当もつかなかったが、ともかくそれは手摺を這い、薄汚く煤煙の付着したモルタル壁へと辿り着いた。
幼虫が長い時間をかけてモルタル壁をよじ登るあいだ、わたしはそれを凝と見つめていた。貴重な煙草はわたしの指の間でどんどん短くなった。そして、その火がわたしの指に届こうかという頃になって、ようやくわたしは幼虫がそこで蛹になろうとしていることに気づいた。わたしは思わず笑い声を上げ、続けざまに三回咳き込んだ。
ゴホン、ゴホン、ゴホン!
愉快な気持ちになったわたしはこの醜い幼虫に名前をつけて飼うことにした。飼うといっても、ここで見守るだけだ。蛹になって動かないのだから、籠に入れる必要はない。
「エマ」
わたしは短くなった煙草を手摺に押しつけながら、呟いた。名前をつけるならエマがいい。美しい蝶になるだろう。
名前を呼んだせいか、部屋の暗がりからどろどろしたものが此方に這いずってくるのが分かった。わたしは振り向いて、思い切り空き壜を投げつけた。壜はキッチンの壁へとぶつかり、けたたましい音を立てて無数の破片を散らした。どろどろはそれ以上這い寄ってはこなかった。隣人が壁を蹴る音がした。わたしは大声で笑った。
工場が休みのとき、わたしはいつも市場を歩いた。一週間の食べ物をこの日にまとめて調達しなくてはならないからだ。買い出しは、もうずっとわたしの分担だった。わたしは羊肉やトマトや馬鈴薯や、他にもエマの好きそうなものを両手一杯買い込んだ。最近は、荷物を抱えて市場を端から端まで歩くと、息切れがしてくたくたになってしまう。
市場の外れで、初老の男が古本を広げていた。わたしはふと足を止めた。古本の中に、興味を惹くものを見つけたからだ。わたしは近寄って腰を折り、それをしげしげと眺めた。立派な装丁ではあるが、すっかり日焼けして染みだらけになった虫の図鑑だった。
「これをくれ」
わたしは露店の主人に話しかけた。男は声を掛けられるとは思ってもみなかったというように、驚いてわたしを見た。男はすぐに抜け目のない顔になると、「こいつは高いよ。いい本だからね」と言った。そうして男が提示した金額は、本当に高かった。わたしは言われただけの金を、昨日手に入れたばかりのわずかな給金から払い、その図鑑を買った。
ジャコウアゲハ。このあたりでは珍しい蝶らしい。
わたしは家の窓際に座り込み、図鑑と蛹のエマとを見比べた。図鑑の中の蝶は美しかった。赤と黒の胴体からのびる黒々とした翅は天鵞絨のように上品な光沢を持ち、芸術品めいて悠然と広げられている。生きて羽搏いたなら、さぞ優美だろうと思われた。
図鑑を熱心に覗き込むわたしに、エマが後ろから声を掛けた。
「レネ、多分生きていけないわ」
「そうかな」
「この町に、他に蝶はいないもの」
エマは小さな子どもに言い聞かせるような口調で言った。
「煤煙が、翅を重くするのよ。飛べないわ」
「分からないよ、エマ。羽化してみなくては」
わたしは振り向き、エマへと口づけた。白くべたつく手がわたしの背をぞろぞろと撫ぜた。わたしは行為に陶酔しながら、視界の端でモルタル壁にへばりついたジャコウアゲハの蛹を見ていた。わたしはまた小さく咳き込んだ。蛹化を終えたばかりのこの黄褐色のかたまりから、あの濡れたように艶めく美しい漆黒の蝶が生まれるのだ。
そういうわけで、冬のあいだは、仕事のない日は日がな一日蛹を眺めて過ごした。この町に訪れる冬は厳しいが、灰色の雪がどんなにはげしく吹きつけても、蛹を縛りつける帯糸はびくともしなかった。わたしは朝ごはんに市場で買った一番安いパンを切り、残り物の薄いオートミールを啜りながら、エマに話しかけた。
「今度はきっとうまくいくよ。エマ」
「そうかしら。でも、動かないわ」
「蛹は動かないよ」
動かない以上、死んでいるのか生きているのか分からない。蛹はあの黄褐色から、死者のベールを思わせる黒へと変色していた。生理的な変化なのだと、図鑑には書いてあった。
「春までに鳥に食べられるかもしれないし」
「でも、毒があるんだ。ジャコウアゲハには。食べたら鳥も死ぬ」
「それも図鑑に書いてあったの?」
「そうだよ、エマ」
「そんな虫にわたしの名前をつけるなんて」
エマがくすくすと笑った。わたしも一緒になって笑ったが、わたしの笑いがやまないうちに、彼女は再び暗い声を出した。
「鳥より、心配なことがあるわ」
「心配なこと?」
わたしは首を傾げた。
「下の階の、トリイばあさん」
「彼女がどうかした?」
「蛹を狙っているのよ」
わたしは「まさか」と言い、もう一度笑った。
「珍しい蝶だから?」
あの頭のいかれてしまった、瘦せぎすのかわいそうな老婆が蝶を欲しがっているとは考えられなかった。彼女は今も毎晩叫び声をあげている。雪はほんの少し彼女の絶叫を吸収して、わたしたちがもう一度眠りに就くのを助けてくれる。
「本当よ、レネ。あなたが仕事に行っているあいだ、あのおばあさん、家のドアにへばりついて、覗き穴に目をくっつけているのよ」
わたしはぞっとして、もう一度「まさか」と言った。返事はなかった。わたしは立ち上がり、自分のぶんの皿を痺れるように冷たい水で洗った。皿をタオルで拭っていると、あかぎれから滲み出した血が白い布地を汚した。わたしはもう一度窓の前に戻ってきて、外を眺めながら、手に嫌なにおいのする薬をすりこんだ。そして、背中を丸めて咳き込んだ。
「チェニェクは死んだ。もう随分、悪かったらしい」
わたしは頷いた。みすぼらしい労働者の集まる湿気たバルで、わたしとヤルミルは薄いウイスキーを飲んでいた。ヤルミルは友を喪った悲しみのためばかりでなく、青白い顔をしていた。多分、わたしも同じような顔色をしていただろう。
「ヤルミル、彼の見舞いに?」
「いいや。花を買う金もなかった」
そうだろうと思った。隣町で暮らすヤルミルの妹が、心臓を患って入院したことをわたしは知っていた。彼が仕事の合間を縫って何度も彼女の病室に通っていることも。深刻らしい。ヤルミルの話し振りや、沈んだ表情からそれは分かった。
それでも、もしもわたしが肺の病で入院したならば、ヤルミルは花を買ってくるだろうか。
わたしはかぶりを振った。くだらないことだった。ヤルミルはウイスキーを舐めながら、そんなわたしをじっと見つめていた。ヤルミルは言いにくそうにした。
「なあ、レネ。結婚はしないのか」
「結婚?」
わたしは首を傾げた。
「ああ、ひとりでいるのは……よくないよ。おまえにとって」
「でも、まだ稼ぎは少ないし……。もう少し給金が増えたら、結婚しようと思っているよ」
「レネ……」
「ヤルミル、わかるよ。でも、エマは病気なんだ。前話しただろう? あまり、気に病ませたくないんだ。色々なことを」
やはり躊躇いながら、ヤルミルはなにか言いかけた。彼は質のよくない分厚いグラスの中身を勢いよく煽り、それを汚いカウンターに置いた。湿った輪が増えた。
「レネ、いつまでそうしているんだ。あそこから戻ってきてから、おまえは変わってしまった」
わたしは困惑した。ヤルミルがなにを言っているのかわからなかったからだ。突然、履き潰した靴の中の濡れた靴下の感触が気になった。雪が融けて、今日はあたたかかった。蛹のエマはどうしたろう。
「おまえは悪くない。おれは分かってる……」
ヤルミルは労りに満ちた声音でそう呟いたが、わたしにはその労りの中のスプーン一杯の憐れみが、舌の上の不快なざらつきとして感ぜられた。
「ああ、わたしは悪くない。わたしは蛹を育てているだけだ」
「蛹?」
「エマというんだ。ヤルミル。じきに、工場の吐き出す煤煙よりも黒い、美しい翅の蝶になる」
「レネ、この町に蝶はいないよ」
「でも、蝶だ」
「なあ、おれはおまえのことが好きだ。おまえはどんどん肺を悪くしているし、そのうえ……」
「ああ、おまえはわたしが好きだ。そのうえわたしを愛している」
ヤルミルの眉と目のあたりを緊張のしるしが駆け抜けた。彼は周囲に素早く目を走らせた。バルはアルコールの気だるく息詰まるような臭気に満ちて、誰もわたしたちの会話を聞いてはいなかった。わたしはヤルミルの濁った白目を見つめながら、彼が警察に連れていかれてしまってもかまわないと思った。
「エマが待っている。待っているんだ。ヤルミル」
帰り道は灰色の霙でぐずぐずだった。わたしは途中でしゃがみこんで湿った咳をし、コーヒーの搾りかすのような血を霙のうえに少しばかり散らした。
女が月に一度子宮から経血を流すように、わたしの肺も定期的に血を絞り出す。ヤルミルの言う通り、体調がどんどん悪くなっていた。今では、わたしの体は結核のために常にぼんやりとした熱を帯びていた。体内にわだかまる微熱は、ただでさえ愚鈍なわたしの動作を余計ににぶらせ、ことあるごとに工場長を激昂させた。
わたしは水の染み込んだ革靴の、グシュグシュ言う音を響かせながら、アパートメントの階段を上った。郵便受けは確認しなかった。階上から、誰かが降りてくる。一階に住んでいるはずのトリイだった。
わたしは「いい夜ですね」と声を掛けたが、老婆は返事をせず、小さな目を光らせた。
「蝶を飼っているだろう」
トリイがつめたい嗄れ声で言った。
「蝶なんか、飼っていませんよ。この町に蝶はいませんから」
「あたしを誤魔化せると思っているのかい。レネ。バルコニーの蛹だよ」
「トリイ。あなたがなぜ、知っている」
「殺すんだよ。蛹はだめだ」
「なぜ上から降りてきた。エマになにかしたのか」
老婆がわたしに摑みかかった。骨と皮ばかりの手が、おそろしい力でわたしの手首へと食い込んだ。伸び放題の爪がわたしの肌を傷つけ、寒さに感覚を失った手に僅かな血が滲んだ。霙に濡れた階段の上で体が不安定に傾ぐ。
「知ってるよ。あんただって本当は羽化なんかしなきゃいいと思ってるんだ。あんたはきっとあの蛹を殺す。きっとだ。あんたはそういう男なのさ——」
わたしは力任せにトリイを振り払った。小柄な老婆の体が勢いよく階段を転がり落ち、鈍い音を立てて頭が地面へとぶつかった。わたしは階段を駆け上がった。靴底が滑り、転びそうになる。
「エマ」
わたしは彼女の名前を呼びながら、自分の部屋のドアを開けた。部屋は真っ暗で、冷蔵庫のようにつめたく、誰の気配もなかった。
「エマ」
わたしは暗がりの中ですばやく眼球を左右に動かした。怯えた薄ぎたない鼠のように。わたしは床に落ちていた図鑑を踏みにじりながら部屋を横断し、窓を開け放した。しめった外気が部屋の中の空気と混じり合い、視えないマーブル模様を作った。窓の外は平穏そのものだった。きっと、トリイは死んだろう。まだ、誰も気がついていないだけだ。
わたしはバルコニーに出て、ジャコウアゲハの蛹を見た。それは濡れていた。融けた雪に塗れてぬらぬらと光っていた。わたしは吸い寄せられるように手を伸ばし、蛹に触った。蛹は硬く、ひやりとして、死の感触を伝えた。
わたしは帯糸を千切り、蛹をモルタル壁から引き剥がした。そして、指に力を籠め、蛹を押しつぶした。蛹の中には白っぽくどろどろとしたものが一杯に詰まっていた。幼虫だった、そして成虫になろうとしていた、生命であったそのどろどろがわたしの指をべっとりと汚し、胸の悪くなるようなにおいが漂った。わたしは指についた蛹のかけらを払いおとしたあとで、汚れた指を口に入れ、べたつく粘液を味わった。吐き気を催す味がした。胸中にひどい後悔と生ぬるい安堵が広がり、わたしはコートのポケットから、ライターと煙草とを取り出した。そして、あたらしい煙草に火を点けたところで、 その場に嘔吐した。手摺を握りしめ、何度も。手摺からぱらぱらと散った赤錆と、灰色の霙と、蝶の毒を含んだ吐瀉物とがきたなく混じり合った。胃液ばかりの吐瀉物の中に、一条の血液が赤いリボンのように混じっていた。
目を覚ますと、暗がりの中で、わたしとエマはふたりきりだった。わたしはベッドに横たわっており、エマは部屋の隅で蠢いていた。わたしはベッドの中からやさしくエマを呼んだ。しばらくあって、エマがわたしのベッドへと滑り込むのが分かった。
ひどく生臭いにおいがして、わたしは噎せかえり、聞くに耐えない咳を繰り返した。エマの指が薄い寝衣を通り抜け、ぬたぬたとわたしの膚に触れた。途端に、わたしは自分自身の体の奥に深い疼きを覚えた。咳の合間に熱っぽい息を吐き出しながら、わたしはエマを抱きしめようとした。今、エマは女の姿でわたしに跨り、わたしの頬にぼたぼたと気味の悪い粘液を垂らしかけていた。その一滴一滴さえも、意思を持ったエマの一部だった。エマの腕はわたしの伸ばした手をはんたいに搦めとり、わたしの身体を抱きすくめ、べたべたに汚した。粘つく手がわたしの頸椎を、そして喉仏をなぞり、恍惚をもたらした。エマは耳元で囁いた。
「レネ、愛してる」
わたしはエマに同じ言葉を返そうとした。その瞬間、エマはわたしの身体の下にあり、エマに跨るのはわたしであった。エマは巨大な蛹となって、わたしの膝の間に横たわっていた。わたしは手の中のナイフを蛹の背中へと勢いよく突き立てた。そして、両手で柄をしっかり掴むと、そのまままっすぐに切り裂いた。ちょうど、羽化しようとする成虫が蛹につくる切れ込みと同じように。ぎっしりと詰まっていたどろどろが溢れ、ナイフの柄を握る手まで汚した。白くかすかに黄味がかったそのどろどろは、膿や、わたしの吐き出す痰に似ていた。凍てつくような、あるいは煮えたぎるような後悔と絶望、そして狂おしいほどの愛が私の身の裡を灼いた。わたしはすべてを思い出した。
「許してくれ」
わたしは愛の言葉を囁く代わりに許しを乞い願った。切り開かれた蛹の中に両手を突っ込み、粘液を掬い上げる。触れたところがひどくかぶれ、皮膚に灼熱感をもたらしたが、わたしは気に留めなかった。わたしは俯きながら、涙をぼたぼたと零した。そして、汚れたナイフを自らの胸に突き立てようとした。
「エマ、エマ、許して……」
そのとき、耳元で「許すわ」と聞こえた。わたしはナイフを取り落とし、振り返った。老婆の甲高い声が、窓の外に響き渡った。
わたしは立ち尽くしていた。
真夜中だった。
カーテンを引き開ける音で、わたしは再び目を覚ました。黄ばんだ天井には見覚えがなかった。わたしは朝の陽射しの眩しさに顔を顰めながら、なんとか身を起こした。気だるい微熱はまだ体の中に充満していたが、頭も胸も痛まなかった。
カーテンを開けたのはヤルミルだった。ヤルミルは起き上がったわたしに目を遣ると、窓際から歩いてきて、木の椅子に腰かけた。ここがどうやらヤルミルの部屋らしいということがわかった。
わたしは両の手のひらで顔を覆い、そして自分の頰がひどく濡れていることに気がついた。わたしが袖で頰を拭うあいだ、ヤルミルは一言も口をきかなかった。
「ありがとう」
気持ちが落ち着いたあとで、わたしはぽつりと言った。ヤルミルは溜息を吐き、重たげに口を開いた。
「おまえは突然倒れた。覚えてるか」
「覚えてるよ」
わたしは答えた。
「覚えてる、ヤルミル。ありがとう」
わたしは自分の身体を見下ろし、外れていたシャツの釦を留めた。シャツはすっかりくしゃくしゃになっていた。ヤルミルは立ち上がってから少し躊躇い、わたしの上に屈み込むと、瞼に口づけた。病にかさついた、やさしい唇だった。わたしは抵抗せずにただそれを受け入れ、呟いた。
「帰るよ」
「何処へ、レネ」
「わたしたちの家に」
ヤルミルは困ったように言った。
「エマはいない」
「そうかもしれない」
わたしは立ち上がり、いつもの煤けたコートを着た。コートは乾いていた。
「レネ」
ヤルミルがもう一度椅子へと腰を下ろしながら、わたしを呼び止めた。わたしは振り返った。
「蛹の中身はどんな味がする」
ヤルミルは淋しげにほほえんでいた。
「苦いのか」
一拍おいて、わたしもほほえみかえした。
「いいや。チョコレートみたいに甘い」
アパートメントの階段を上ろうとしたところで、トリイが「おはよう、レネ」と声を掛けてきた。夜中にどんな金切り声を上げたとしても、トリイはそれを覚えていない。わたしは礼儀正しく「おはよう、トリイ」と応えた。わたしは滑りやすい階段を慎重に上り、自室の鍵を開けて中へと入った。部屋に電気は点いていなかったが、朝の光が、カーテンの隙間から聖なる帯となって床を走っていた。
わたしは導かれるようにカーテンを引き開け、窓を開くと、バルコニーへと出た。いつもの煤煙は西からの風に洗われ、ほんのひととき姿を消していた。十年に一度の、晴れ晴れとした青空だった。わたしは手摺へと手をかけた。視界の端に、わたしは飛び去るジャコウアゲハの影を見た。灰色の町と青の空のあわいで、それはくっきりと切り抜かれたように黒く、ただひたすらに黒く、うつくしかった。
わたしは煙草をくわえた。部屋のほうから、エマの声が聞こえた。これが最後の声だった。
「何処へ、レネ」
わたしは笑った。
「ここに、エマ」
了