マリエンヌ様は、お怒りでしたので
ライネルの様子がおかしい。
社交界を嫌うライネルを、彼の両親と協力して無理矢理引っ張り出したというのに、ライネルはどんなご令嬢から話しかけられても返事のひとつも返さなかった。
いや、それだけならばいつものライネルであって、様子がおかしいと言えるような状況じゃない。彼の両親には言えないが正直、僕の想定内だ。
しかしどこかイライラしたように、僕を置いてどこかへ行ってしまったライネルはつい先程、ひとりでフラフラと戻ってきてからは、まるで魂でも抜け落ちてしまったかのように焦点の合わない目を僕に向けている。
「もう帰りたい……」
ぼそり、と震える声でライネルが呟く。なんだかよくわからないが、どうやら限界のようだ。失態を晒してしまう前にと、ライネルの腕を引き会場を後にした。
「へえ、あのマリエンヌがねえ……」
事の次第を聞いた僕は、ゆっくりとため息をついた。話を聞けば聞くほど、なんとも彼女らしくない振る舞いだけれど、よくよく思い出せば今日の彼女はどことなく虫の居所が悪かったような気がする。僕のところへ挨拶に来る事もなかったし。
……まあ、それもこの男がいたせいだったということになるのだろうが。
「リオン。私は、マリエンヌの言うようにこどもみたいなのだろうか……」
「ああ、うん。まあね」
即答する僕に、ライネルは目をまん丸く見開いた。
「え……」
「いや、え、じゃないよ。まあ、家柄や立場の事は僕も気持ちがわからないわけじゃないし、マリエンヌみたいになれとは言えないけどさ。きみのマリエンヌへの接し方はお子ちゃまそのものだよね」
「お子、ちゃま……!?」
「だってきみ、昔からマリエンヌを追っかけまわしてちょっかい出して……」
「ぐ……ご、誤解を招くような言い方をしないでくれ……」
「なーにが、誤解なのさ。……まあ、気持ちはわかるよ。マリエンヌは憧れだからね、僕らの」
「え……?」
「あれ、きみ知らないの?マリエンヌって社交界ですごく人気あるんだよ」
「ええ!?」
「だって昔から完璧じゃないか、彼女。彼女を奥さんに出来れば箔がつく」
箔だけじゃない。彼女の存在自体に魅せられてしまう人間も少なくないのだ。その美貌と、家柄、それを抜きにしても、余りあるほどの魅力を彼女は持っている。
それが、彼女のたゆまぬ努力の結果だと気付いたのは僕自身、心に少し余裕が出来てからだったけれど。
「まあそれでも多分……彼女の結婚相手は、きみになるんだろうけどね」
彼女が珍しく不機嫌を表に出したという事を考えると、恐らく彼女自身それを予想していて、その予想が現実味を帯びてきたという事なのだろう。
「結婚……?マリエンヌが、私、と?」
「きみのご両親はそのつもりだと思うよ。嫌なの?」
「嫌……で、っ」
ライネルは言葉を詰まらせると、ガシガシと頭を掻いた。
「嫌では、ない。でも、その……」
何かを言おうと開いた口が戸惑うように閉じられて、目線がうろうろと彷徨った後、再び口がゆっくりと開かれる。
「こ、こ、こわ、い……」
「はあ?」
「こ、こわかったんだ本当に!多分、もう一度あいつの前に立ったら私は……」
なにかに怯えるようにぎゅっと目を瞑り、そっと開く。
「私はきっと、泣いてしま……っ」
マリエンヌに言われたことでも思い出したのだろうか目にじわじわと涙が溜まって今にもこぼれ落ちそうだ。
「あいつに格好悪いところは……見せたく、な、い」
「いや、どう考えても、もう手遅れだと思うけど」
僕の言葉にひっ、と後ずさるライネルを見ながら、かつてライネルに嫌味を言われていた時のマリエンヌを思い出す。ああいうのを死んだ魚のような目、というのだと思う。
なにを言われても、なにも言わずただただライネルを眺めていた彼女を思い出すと、ライネルが馬鹿で良かったんじゃないかと思うのだ。
あんな目で見られたら普通なら心が折れてしまうだろう。
実際、昔マリエンヌにちょっかいをかけていたのはライネルだけじゃなかったはずだ。彼女は幼い頃から、良くも悪くもよく目立つから。
嫉妬や羨望、嫌悪、そういうものをあの小柄な身体で今までどれだけ受け止めてきたのだろうかと考えると、僕は憧れを通り越して少しぞっとしてしまう。
「まあ、きみが一言、嫌だと言えば、きみの両親は諦めるだろうさ。マリエンヌのほうから、きみとの結婚を望むことはないだろうから」
「マリエンヌは、私との結婚を望ま、ない…?」
「え……いやいや、いやいやいや、なんで疑問形なの。きみの頭の中に詰まってるのは綿飴かなにかなの」
「……私は、マリエンヌに嫌われているのか?」
不安そうにライネルの瞳が揺れた。難儀な男だと思う。
けれど、この子供みたいな男をたまに羨ましく思ってしまう僕のほうが、ずっと愚かで滑稽だと思った。そんな僕の事をマリエンヌが知ったなら、きっと軽蔑するのだろう。
「……ねえ、ライネル。きみがいらないなら、僕にマリエンヌをちょうだいよ」
「なっ、あいつはものじゃないだろう。あげるとかあげないとか、そういう問題じゃ……」
「ものじゃないってわかってるなら、どうして彼女に酷いことを言えたの?」
「え?」
虚を突かれたように目を瞬かせる。
「きみさ、さっきマリエンヌに色々言われて怖かったって言ったけど、年上の男にさ、酷いことを沢山言われて幼い彼女は怖くなかったと思う?」
「っ、あ……」
「きみは嫌いだと言ったんでしょう?マリエンヌに、何度も。ライネル、一度言ってしまった言葉はなかった事にはならないんだよ」
「それ、は……」
知ってるよ。昔から、きみはそれしかマリエンヌの気を引ける手段を知らなかったんだよね。……知ってるよ。
幼かったかつてのきみが、せめて彼女の瞳に写りたいと、無意識に、無関心でいられるよりも彼女に嫌われるような道をその小さな手で選んだ事。きみが知らなくても、マリエンヌが知らなくても、僕だけは知っている。
昔のきみは、マリエンヌと出逢う前のきみは、今よりもずっと聡明な男だったと思う。でも、きっと本質はあの頃も今も変わっていない。真っ直ぐに目の前だけを見つめている。
そんなきみを、きっといつか、マリエンヌは自分のパートナーとして認めるのだろう。
悔しい、な。悔しい。僕は、きみになりたかった。マリエンヌになりたかった。憧れて、嫉妬して、だけれど、どうやったって、きみたちのようにはなれなかった。
マリエンヌなら、こんな僕を見てなんと言うのだろう。叱咤してくれるだろうか、ライネルにそうしたように。
……否、きっと彼女はただただ綺麗に微笑むのだろう。その美しい眉を少しも歪めることなく、綺麗に綺麗に微笑むのだろう。
「……きみはさ、結局どうしたいのライネル」
「私、は……」
僕は、きっと。
「私は……マリエンヌと同じ場所に、立ちたい」
僕は、きっと、どんなに願ってもライネルのようにはなれない。
「……きみは、マリエンヌと戦う事をやめないんだね」
僕がぽつりと呟くと、ライネルは目を瞬かせてから、どこか愛おしげに笑みをこぼした。
「マリエンヌは、私から逃げた事はない。だから、私がマリエンヌから逃げるわけにはいかない」
あの気高き少女の隣で、この男がぴんと背筋を伸ばし、彼女と同じものを見ることができる日が来るのは、そう遠い未来のことではないかもしれない。
悔しくて、悔しくて。そして少し、寂しいけれど。
「でも……やっぱりこわいどうしようリオン…」
嗚呼、けれどやっぱり僕は、ライネルのようにはなれなくてもいいかもしれないな、なんて考えてから、小さく笑った。