空雛
地平線の彼方まで続いているかのような広大な草原だった。トレッキングシューズが踏み敷く草葉は柔らかく、降りしきる日差しを受けて青々とつややかだった。温かな風が優しく背中を押してくれる。しかし、歩けども歩けども、絶えなく同じ景色が広がっているのだ。日の届かないじめっとした密林や、積雪の下に大きな裂け目を隠した冬山を往くときとは別の、比べようのない苦痛がこの草原にはあった。
バックパックのショルダーベルトに吊るしたカラビナ時計を手に取り、時刻と方角を確かめる。もう何度目だろうか。進む方向は間違っていないはずだ。背後を振りければ自分の踏み倒してきた跡が真っ直ぐに伸びている。見渡すばかりの三六〇度の草原に、高く空に昇っている太陽もずっと同じところにいるような錯覚を覚えてしまう。
事前の調べでは半日の旅程であったはずだが。
食料も飲み水もともに余裕がある。野営の覚悟もしている。しかし、私の精神が耐えられるかどうか。
その後、時計を五回確認して、私はシューズの爪先に視線を固定した。周りを見れば見るほど意識が内側に落ち込んで心が削られる。保心のために私は日没までの時間や進行方向のブレを考えるのをやめた。確実に進む脚だけがあればいい。
時間も方角も確認しないまま、左右の脚を交互に出して黙々と進んで何時間か。足下に花が咲いた。恐る恐る顔を上げると、数多の小さな花が草葉から顔を出して色とりどりに咲き誇っていて、さらには空色を静謐な水面に映した湖が、その向こうには枝いっぱいに常磐色の葉をたくわえた樹が悠然とそびえていた。距離感が狂ってしまっているが、湖も樹も、ただ途方もなく巨大であるということは確かだった。
湖の淵を足早に、大樹の根本を目指す。風は止んでいて、波のない湖は光の届く限り底まで見通すことができた。樹に近づくにつれ、その雄大な実体にしっかりと焦点が合わされていった。枝葉の下から見上げて全体を視界に収めるには、頭をバックパックの上の出っ張っているところに押し付けなくてはならなくて、そうでなかったらそのまま後ろに倒れなければならなかった。
私がその規格外のスケールに呆気にとられていると、何者かの細い声がした。即座に身構えたが、十二分に時間をおいてもその何者かが動く様子はなかった。ホルスターから抜いた九ミリ拳銃は即座に撃てるよう銃爪に指を掛けて両手で構え、指先までの神経を緊張させたまま、まず一歩を踏み出した。
ここらの草花には伏せたとしても人が隠れられるほどの背丈はない。樹の幹に背を預け、慎重に地表に露出している根を回り込む。巨体を支える根は相当に太く逞しく、見えている一部でさえ家屋ひとつを優に越すほど巨大だった。
結果から言うと、そこにいたのは一人の女の子だった。
十歳くらいだろうか。金髪碧眼の、綺麗な造形の顔立ちをしている可愛らしい女の子で、その容姿にそぐわない年季の入ったマントを身に纏っていた。
「一人の女の子」というのは警戒を解く要因にはならない。賊がさらった娘を囮に使っている可能性も、彼女自身が賊である可能性も切り捨てられない。実際、これまでの旅路で「その程度のこと」と言ってしまえるほど、多くのくだらないものを見てきた。
しかしまあ、今回は違うか。
気の狂うほど殺風景な草原で、しかもこんな人通りの見込めない場所で賊が待ち伏せをするとは到底考えられない。もっと適した場所があるだろう。
賊ではないにしても、こんなところに女の子が一人でいるというのは全く不自然であることに変わりないが。
拳銃の安全装置を掛け、ホルスターに仕舞った。
「あなた、名前は?」
「ダイダイと言います」
彼女は声を掛けられても私の方を見ようとしなかった。湖の畔に座って、じいっとその水面を覗き込んでいた。問い掛けには答えてくれるらしい。
「私はアカリ。一応、旅をしてるわ」
「旅人ですか」
「行く先々では流れ者とか、ふらつきなんて呼ばれることが多いけどね。ダイダイはここで何をしているの?」
「ここを訪れた人に、この先には荒れた大地しかないと、そう教えるように言われています」
「随分と親切な人ね。あなたも、その人も。どんな御方なのかしら」
「わかりません。忘れさせられました」
「忘れさせられたことは覚えているのね」
「させられていることまで忘れたら、本来の目的が果たせないからでしょう」
「それもそうね」
疑問は残るが、とりあえず、彼女が何者であるかははっきりした。
「改めて申し上げます」
彼女は体勢も声の抑揚も変えずに告げる。
「この先には荒れた大地しかありません」
「そんなことより、湖の水、もらっていいかな。この泥だらけの靴を洗ってやりたいんだ」
バックパックを背中から下ろすと反動で体が軽くなったような気がする。解けないように縛っていたため、靴紐の結び目はとても頑固だった。脱いだ靴は一旦左右揃えて置いておいて、ソックスを脱ぎ、ズボンの裾を膝上までまくり、両脚を湖に投げ出して座った。長時間の歩き通しで疲労した脚に、湖の水は冷たく気持ちがよかった。しばらく湖水の心地よさを堪能してから、私は靴を洗い始めた。
「靴なのに、まるで生き物のように扱われるのですね」
靴から目を外しダイダイの方にやると、やはり彼女は湖を覗いていた。
「まあ、ずっと一緒だからね」
「ずっと一緒だと、そういうふうに扱われるのですか?」
「自然と愛着が湧くもんだよ」
「自然と。そういうものでしょうか」
「そういうものだよ。きっと」
しばらく時間を置いて、ダイダイは再び話し出す。
「どうしてここには私だけなのでしょうか」
「今は私もいるけど、そういう問題じゃあないんだね?」
「はい。私はたくさんのことを教えられ、させられてきました。コーヒーに砂糖は入れないこと、ミルクは入れること。机は円を描くように拭かないこと。書籍は著者名順、次いで書名順に並べること。言われていないことはしないこと。夜は、目を閉じること」
「几帳面な人でもあったみたいね」
「これほど多くの生活に関わることをさせられているのなら、私はその人と長期に渡って同伴していたのではないでしょうか」
「かもしれないね」
「どうして私だけここに残されたのでしょうか」
「ダイダイがここに来てどれくらい経つの?」
「日数を数えるように言われたことがないので計測していませんが、ここに来たとき、その大樹は小さな苗木でした」
「そう。残念ね」
私は本当に残念に思った。ダイダイが誰かと共に過ごした時間はともかく、彼女がここにいる時間は十年そこらだと思っていたからだ。
「残念?」
「ええ。是非ともその御仁に御目に掛かりたかったわ。もうお亡くなりになっているのね」
「お亡くなりに。それはどういうことですか」
「あなた……ああ、そうね。ここには生き物がいないものね。生きているものはいつか死ぬのよ」
「死ぬとはどういうことですか」
私は湖から抜いた脚をタオルで拭い、ソックスを履いてズボンを直し、泥を落としたての靴を履いた。それから、ダイダイの背後に回った。ダイダイは微動だにしなかった。眼球以外は。湖面に映る私の姿を目だけで追っていた。
「こういうことよ」
私はダイダイの背中を蹴った。軽く蹴ったつもりだったが、予想以上に彼女の身体は軽く、いや、脆かった。マントを残してダイダイは湖に落っこちていく。その四肢は錆だらけで、関節のいたるところから何かコードがはみ出していた。ダイダイの身体はやがて湖底で土煙を上げた。土煙がやんだとき、ダイダイの目はもう死んでいた。
「安心して、ダイダイ。博士はちゃんと、この先の大地を緑豊かな国へ蘇らせたわ」
私はカラビナ時計を手にし、時間と方角を確認した。
旅は続く。