8 魔女の秘密と謎の男の正体
国王謁見のため、リアンテに化けたシェラーサがイダートとともに王宮に行くことになった、前夜。
前女王ファミアの離宮にリアンテを迎えに行き、翌日に共に王宮に向かう……という体裁で一晩滞在することになったイダートは、客用寝室のソファにもたれてテーブルのランプの炎を見つめ、考えごとをしていた。
「何か、不安?」
声がした。振り向くと、バルコニーの手すりにシェラーサが腰掛けている。
「何だ、いきなり。そなたは本当に遠慮がないな」
姿勢を変えないまま、イダートが少々呆れたようにため息をつくと、シェラーサは手すりから滑り降りながら決まり悪そうな顔をした。
「あ、ごめんなさい。ここ百年、どうしても必要な買い出しの時以外はほとんど人と話してないから、距離の取り方がわからないのよ。大目に見て」
そして彼女は部屋に入ってくると、イダートの腰掛けているソファの反対側の肘掛けにもたれた。
「それよりあなた、何か私に話があるんじゃない?」
「なぜ、そう思う」
イダートが尋ねると、
「さっきリアンテと三人で打ち合わせしてから別れるとき、もの言いたげな目をしていたから」
とだけシェラーサは言って、後はイダートの言葉を待つように黙り込んだ。
「……ひとつ、聞きたいことがある」
イダートは自分の両膝に両肘をかけると手を組み、シェラーサを横目で見上げた。
「リアンテに聞いたのだが、事前に王宮に潜入調査に行ったそうだな。夜中に密かに王宮を調べて回ったとか」
「そうよ。ちゃんと調べて準備してからじゃなきゃ、可愛いリアンテを守れないでしょ」
シェラーサはうなずく。イダートは続けた。
「よく、一晩で済んだな」
「え?」
シェラーサが瞬きをする。
「猫の姿で行ったのだろう? 猫の足で、あの広大な主宮殿を一晩で。よほど、内部に詳しいのだな。でなければ、そのような短時間で必要な場所を回れるとは思えない」
イダートは、じっとシェラーサを見つめる。
今はシェラーサ自身の姿をしているが、リアンテに変身したときのシェラーサは、本当にリアンテそっくりだ。姿形もそうなのだが声もそっくり、そして話し方や所作などもかなり似ている。
というのも、この国の王族・貴族としての礼儀作法を、シェラーサは知っているのみならず、十分身につけていたようなのだ。
リアンテに化けることが決まってから訓練して、ここまでこなせるものだろうかと、不思議そうにリアンテが聞くと、
「まあ、そこは年の功よね」
などと答えていたシェラーサ。
しかし、もしも、「元々身についていた」としたら。
イダートは静かに尋ねた。
「そなた、元は、王族か貴族だったのではないか?」
シェラーサは表情を変えずにイダートを見つめ返したが、その「間」が何よりも雄弁に、真実を語っていた。
「……さすがは王太子様ね。そうよ、一応、王宮に出入りできる身分だったわ」
シェラーサは足を組む。
「だから、聖堂や魔法研究所の場所はわかってた。そこに私並の力を持つ魔法使いがいないかどうか、様子を見に行ったのよ」
「なぜ、黙っていた」
「私にだって、人並みに羞恥心はあるわ。それなりの身分の女がたった一人、森の奥で自給自足生活。もう、察してよね」
さすがにイダートも、リアンテの身代わりになってくれるシェラーサをこれ以上問いつめることは、ためらわざるを得なかった。魔女であり、年をとらない彼女が、何か不当な扱いを受けたのではないか……という程度の予想は、彼にもできたからだ。
「……なるほどな。とにかく、それなりの身分だったからこそ、礼儀作法が身についていたのか」
イダートは話を変える。
「そなたは本当に、うまくリアンテに化ける。もしリアンテとそなたを見分けられるかどうかなどと試されたら、私は困ったことになっていただろう」
「あら」
シェラーサは顔をほころばせる。
「もしかして、まずい、とか思った? 初めて私を見た時、リアンテと区別がつかなくて」
「……まあ……な」
「道理で、変身を解いたらホッとしたように話しかけてきたわけね。後ろめたかったから、私のことをすぐに認めたんでしょ。ふふ……そこで怒ったり威張ったりしないところが、あなたのいいところね」
くすくすと笑ったシェラーサは、すぐに表情を引き締める。
「見分けられるかどうか試すなんて、そんな意味のないことはしないわ。あなたとリアンテには、二人だけが持っている思い出がある。会話をすれば、簡単に見分けられるはずよ。もしも見分けられなかったとしても、それは私が完璧だからであって、あなたのせいじゃない」
シェラーサの話し方は、決して虚勢を張っている風ではなく、堂々とした自信に満ち溢れている。
「愛する男が自分を見分けられなかったからとリアンテが不安になるような、そんな意地悪な質問はしないわ。他の人にバレなければいいんだもの。そして私には、その自信がある」
「……大した自信だな」
イダートはそれだけ口にする。不思議と、文句をつける気が起きない。
「自信がなければ、大切なリアンテの身代わりなんて引き受けないわ」
少し軽い口調になったシェラーサは、肘掛けから身体を離した。そしてイダートの前に立つと、右手の人差し指を彼につきつけた。
「リアンテはあなたのためを思って行動してるみたいだけど、私は全てリアンテの幸せのためにやってるの。あなたの幸せは、ただの、お・ま・け」
イダートは思わず笑い出した。そして立ち上がると、片手を出した。貴婦人の手を取る仕草ではなく、握手を求める仕草だ。
「今の話で、吹っ切れたような気分だ。同志よ、共にリアンテを守ろう」
シェラーサは微笑むと、彼の手を握り返した。生活の全てを自分で取り仕切っている、しっかりとした手だった。
(……もしかして)
その時ふと、イダートは思った。
(シェラーサも不安だったのかもしれないな。私との連携がうまくいかなければ、リアンテを守れない、と。その連携を強固にするため、今夜ここに来たのだとしたら)
「……感謝する、シェラーサ」
イダートが言うと、シェラーサは手を離していたずらっぽく笑いながら後ろに下がった。
「あら、惚れちゃダメよ。あなたからの愛より、リアンテからの信頼がほしいの、私」
そしてさらに後ろに下がり、バルコニーに出ると、「じゃ、明日ね」と夜の闇に溶けるように姿を消した。
イダートはまた笑いながら、つぶやいた。
「……本当に、同志、という感じがするな」
王太子イダートは赤い絨毯の廊下を歩きながら、隣を歩く女性を横目でちらりと見た。視線に気づいた彼女が、おずおずとした動きでイダートにそっと身体を寄せ、何事かささやく。イダートは苦笑し、視線を前に向けた。
彼女は、イダートが永遠の愛を誓ったリアンテ……ではない。リアンテの姿に化けた魔女、シェラーサだ。
淡い緑に金糸の刺繍の入ったドレスをまとったシェラーサは、神にも等しい国王との謁見に向かうというのに余裕の態度だ。先ほどのやりとりも、案内の侍女から見れば、リアンテが緊張のあまり何事かイダートに話しかけてイダートが笑った、という程度に見えるだろうが、彼女は一言「あなたの上着の飾り紐、誰が選んだのよ。趣味悪い」と言っただけである。魔女とは恐ろしい生き物だな、とイダートは舌を巻く。
「王太子殿下イダート様、ナージュ連爵令嬢リアンテ様、おいでになりました」
先触れの従僕が伝え、二人は開かれた扉の奥へと足を進めた。
金細工の施された壁や柱、美しい天井画、モザイクの床には複雑な文様の絨毯。幾重にもひだをとったカーテンは窓の両脇に寄せられ、柔らかな光が空間を照らしている。
二人は作法にのっとり、軽く頭を下げたまま謁見の間の中央まで進み、立ち止まった。一段高くなったところに豪奢な椅子が置かれ、そこに座っている人物の足が見える。
「ここへ」
もっと前へ出るよう、促す声がした。
その瞬間、シェラーサは息を飲んだ。
声に、聞き覚えがある。夜の闇の中、シェラーサに諭すように言葉を紡いだ、あの声の響き──
イダートが前に進み出たので、数歩遅れてシェラーサも前に進んだ。胸が心地よく、とくとくと鳴っている。早く顔を上げたいが、絨毯の模様を見つめたまま、待った。
「表を上げよ」
促され、シェラーサはゆっくりと顔を上げた。
背もたれの高い椅子に、冠を頂いた人物が座っていた。国王エヴィルソンだ。
深い青の瞳が、玉座からシェラーサを見ている。灰色の髪は肩にかかる程度の長さで、やや鰓の張った、昔ながらの戦士のような顔を縁取って波打っている。座っているので背の高さはよくわからないが、かなり大柄に見えた。
シェラーサが観察している間に、エヴィルソンはイダートに変わりないかと尋ね、イダートの方も父の健康を喜ぶ言葉を返す。
そしていよいよ、エヴィルソンがシェラーサに話しかけた。
「母の、侍女をしているそうだな」
「はい。誉れあるお役目をいただき、光栄です」
「母が、そなたのことを誉めていた。気の利く、心も美しい令嬢であると。我が子イダートにも、よく仕えるように」
やっぱり、あの人だ、とシェラーサは確信した。
城に忍び込んだ夜、聖樹の焼け跡でシェラーサを助けてくれたあの男は、国王エヴィルソンだ、と。
シェラーサは自分をすくい上げた大きな手を見つめながら、
「身に余るお言葉、ありがとうございます。……心から、お仕え申し上げます」
と再び膝を折り、頭を深く下げた。
「父上、婚姻のお許しをいただき、ありがとうございます。リアンテと共に、今後も王族としての責を果たすことに力を尽くします」
イダートも立ったまま頭を下げ、エヴィルソンはそれにうなずきかける。
ふたことみこと交わしただけで、「ご苦労だった」という言葉があり、短い謁見は終わりを告げる。イダートとシェラーサは連れだって謁見の間を出ようとした。
「リアンテ嬢」
エヴィルソンが呼び止めた。二人ははっとして振り返る。
「少し、話したい。イダート、控えの間で待て」
エヴィルソンは立ち上がり、ゆっくりと窓の方に向かった。察した侍女が窓を開けると、エヴィルソンは外のバルコニーに出ていった。
イダートがシェラーサを見る。表情は何ということもないが、目が緊張を物語っていた。
シェラーサは彼を安心させるように微笑んでうなずき、エヴィルソンの方へ向き直ると歩きだした。
少しも、恐ろしくなどなかった。