7 王太子、初めて魔女に会う
初めてシェラーサと会ったときのことは、イダートにとって忘れられない出来事として記憶されることになった。
リアンテから、シェラーサの話は聞いていた。幼い頃、まるで姉のように支えてくれたという、森に住む『魔女』。
愛するリアンテを疑うわけではなかったが、いざその魔女に会ってほしいとなってくると話は別である。鵜呑みにするわけにもいかないと考えたイダートは、王太子妃に内定したリアンテの身辺調査という名目で、ナージュ家の別邸付近に急いで配下を派遣した。しかし、リアンテが昔「魔女に会った」と言ったことを覚えていた人物こそいたものの、たとえば身元不明の女が一人で森に住んでいるらしいとか、怪しい技を使う女がいるとか、そういった噂はかけらもつかめなかった。
悪い噂があれば会うのはやめようと思っていたイダートだったが、本当にシェラーサという女性──魔女かどうかは別として──が存在し、どういうわけか隠れ住んではいるものの犯罪者でもない善良な人物だというなら、拒否する理由はない。リアンテの恩人で、しかも自分たちを助ける術を持っているというのだから。
ファミアの離宮を訪れたイダートは、祖母との時間を過ごしながら黄昏時を待った。午後のお茶の後、夕食時の前に侍女には休憩時間があるため、庭に来てほしいとリアンテに言われている。
約束の時間、イダートは庭に出ると、木々が陰を落とす装飾的な建物に向かった。
「イダート様」
小さく呼ぶ声に、さらに近づく。すると──
小さな建物の陰に、リアンテが二人、立っていた。
表情には出さなかったが、イダートはその瞬間、焦燥と戸惑いと恐怖
で混乱した。
(見分けがつかない! 愛するリアンテと、それ以外の女なのに)
しかし、すぐに片方のリアンテがひょいとその場で身を翻したかと思うと、草色のドレスの知らない女の姿になった。
「初めまして、イダート殿下。私はシェラーサ」
シェラーサはドレスをつまんで微笑み、軽く膝を曲げる。王太子と相対しているにしては、ずいぶん軽い挨拶である。
イダートは、目の当たりにした変身と、初対面の相手が王太子を前にして一切緊張していない、ということに驚きながら、彼女の不躾を責めるのも忘れて話しかけた。
「リアンテから話は聞いている。お前が魔女か……これは、信じざるをえないな」
「良かったわ。じゃ、悪いけど私と結婚してちょうだいね」
「ま、待ってシェラーサ、そんないきなり」
「……何だと?」
まだ詳しい話を聞いていなかったイダートは眉を潜めたが、リアンテに促されて三人で建物内のベンチに腰掛けた。離宮の使用人たちの目が気になったが、シェラーサの姿はリアンテとイダートにしか見えないようにしてあるという。
シェラーサの話は、簡潔で分かりやすかった。処刑される危険を避けるため、リアンテの身代わりとしてシェラーサが王太子妃になる。イダートとリアンテはこれまで通り、王宮の外で会う。
『ファミアの侍女リアンテ』は王太子妃になるのだから、ファミアの元でこのまま働くわけにはいかない。身元を隠し、どこかイダートが会いに行きやすい場所で暮らさなければならない。王太子であるイダート自身も公領を持っているので、そこの館ということになるだろう。
リアンテの出自が露見し、処刑されそうになったら、シェラーサは死んだふりをして逃げる。もちろん、そうなってしまったらもはやリアンテは死者ということになってしまうので、公の場に出ることは二度と叶わなくなるが、実際に死んでしまうよりはまだ希望が持てる。
「ふむ……」
腕を組むイダートに、シェラーサは続けて言った。
「でもね。これはとりあえずの策、ってことになるわ」
「えっ?」
聞いていない話だったのか、リアンテが不思議そうにシェラーサを見上げた。シェラーサは、リアンテをまるで妹のように、優しく見つめて話す。
「だって、何年も経つうちに状況は変わるでしょ。国王が改心するかもしれないし、先に死ぬかもしれないし。ああ、それと、あなたに子ができる可能性も考えた方がいいかしら」
「あ」
リアンテはイダートの顔を見ると、頬を染めてうつむいた。
「まあ、状況次第では、何度か私とリアンテが入れ替わる必要があるかもしれないわね。そのあたりは臨機応変に行きましょう」
ぽん、と両手を打ち合わせるシェラーサ。すっかり彼女主導で話が進んでいく。
「待て」
イダートは片手を上げてシェラーサを止めると、リアンテを見た。
「リアンテ。いくらお前がこの魔女を信頼していようと、本当にそれでいいのか?」
「え……?」
戸惑うリアンテ。シェラーサは、あら、という表情になったが、彼の言葉を待つように口をつぐんで微笑んだ。
イダートは軽く眉をひそめ、続ける。
「お前は私を愛していると言ってくれた。その私の隣に、他の女が妃として立つのだぞ。お前といるよりはるかに長い時間を、私とこの魔女が過ごすことになるのだ。良いのか?」
「わ、私はイダート様を疑ったりなどいたしません!」
リアンテが驚いたように声を上げる。
「私がいつかイダート様の目の前で殺され、イダート様を傷つけてしまうよりは、この方法の方がずっと」
「確かに、本物のお前が殺されるよりいい。父を本気で恨まずに済むと思うと、それも正直、ほっとする気持ちだ。国のためにもな。父は妃については、全く私の意見を容れては下さらないから……」
軽くため息をつくイダートは、さらに続けた。
「しかし、お前の感情はどうなのだ。こういったことは、理屈ではないはずだ。お前を不安にさせ、心を壊してまで決行するような計画ではない」
リアンテは黙り込んだ。そして、シェラーサの顔とイダートの顔を交互に見ながら、改めて口を開いた。
「私がシェラーサをどのくらい信用しているか、お見せできないのが残念なのですが……嫉妬とか、そういったことは考えたこともありません。けれど、別のことで、不安に思っておりました。自分だけ安全な場所にいて、シェラーサがどうしているのかわからないのは……」
そして彼女は、表情を引き締めた。
「やはり、私も、参ります。王宮に」
「私『も』、とは……?」
イダートは尋ね、シェラーサは面白そうに眉を上げた。リアンテは微笑んだ。
「物語によくあるではないですか、お姫様と侍女が入れ替わるお話が。王丘で数年暮らした私なら、シェラーサが無事に王太子妃の身代わりができるように助けられるかもしれませんし。私、シェラーサの侍女として王宮に参ります」
「何!? しかし」
「いいかもね」
イダートと同時に、シェラーサが口を開く。
「イダートの言うことも、もっともだと思うの。イダートとリアンテは、なるべく近くにいた方がいい。……その代わり、ひとつリアンテに契約の魔法をかけさせてもらうわ」
シェラーサは右手の人差し指を出して言った。
「私が処刑されそうになっても、決して自分の正体を現さないこと。あなたがバラしてしまったら、全てが水の泡になってしまうんだから。そうね、イダートを『鍵』にしましょうか。イダートの許可なしに、リアンテは自分の正体を人に話すことはできない。そういう契約魔法をあなたにかけるわ」
優しいリアンテのことだ、もし目の前でシェラーサが自分の身代わりに殺されそうになったら、たとえ魔法で逃げられるとわかっていても止めに入ってしまうかもしれない。それをシェラーサは危惧したのだ。
契約魔法は、関わった者の「死」以外にもう一つ、それが解除される条件を決めなくてはかけることができない。この世に、神々のわざ以外の「永遠」と「絶対」はあり得ないとされているからだ。
リアンテを守るためなら、イダートが『鍵』を外すことはないだろうし、彼が外すと決めた時は、もう契約は必要ない状況のはずだと、シェラーサは考えた。
「魔法をかけていいなら、侍女になる計画を実行しましょう。どう?」
シェラーサがイダートを見て首を傾げる。
「よろしいでしょうか?」
リアンテもイダートを見た。
イダートは重々しくうなずく。
「……いいだろう。魔女よ、契約の魔法、かけるがいい」
するとシェラーサは、あっさりと言った。
「明日の朝にしましょ」
がくっ、と拍子抜けするイダートの横で、リアンテが尋ねる。
「なぜ?」
「契約魔法は、暁の女神ドイリの力をお借りするから、明け方じゃないとかけられないの」
「時間が関係あるの……? あっ、そういえば、シェラーサが変身するときも、時刻によって呪文が違ったような気がするわ」
「変身は幻覚の魔法だから、黄昏の女神シャンピか夜と星の神ニュイスどちらかの力をお借りすることが多いわ。他の時間にもできないことはないけど、太陽のさんさんと降り注ぐ場所で変身するのだけはちょっと難しいかな。あ、そうそう」
シェラーサは付け加えた。
「夜明けと言えば、夜と朝が入れ替わる時間でしょ。何かを入れ替える魔法が使える時間でもあるの。私とリアンテ、二人の髪と目の色を交換しましょう。リアンテも王宮に入るなら、髪と目の色をどうにかしないといけないでしょ?」
「あなた、いくつかの魔法を同時に使うことができるの? 契約魔法もかけるのでしょ?」
「入れ替えの魔法は一度入れ替えたら固定することもできるし、契約の魔法は契約に関わることが起きない限り発動しないから、その間に他の魔法を使えるの」
シェラーサは指を一本立て、得意そうに説明する。
「私、不器用だから、同時に魔法を使わないでもいいように色々と研究したのよね。固定しておけば手の掛からない魔法は、薬の形にしておいて必要な時に飲む、なんていう手もあるわ」
「……何となくわかったような……とにかく大丈夫なのね。すごいわ」
感心しながら聞き入るリアンテ。イダートも興味深そうに尋ねる。
「どうせリアンテとシェラーサが入れ替わるのなら、姿を入れ替えてしまえば良いのではないか?」
シェラーサは少々呆れたように言う。
「それだと、リアンテの方が好きなときに解除できないわ。あなた、私の姿のリアンテにキスできる?」
そうか、と、何かおかしなものを飲み込んだような顔になったイダートは、咳払いをした。
「……では、髪と目の色だけ入れ替えて、変身するのはシェラーサだけということか。……他の細かいところを詰めよう。まず、リアンテが侍女として王太子妃に仕える以上、きちんとした手続きを踏まねばならない」
「正式な紹介状が必要ね。魔法で誰か操って、書かせちゃう?」
シェラーサが言うと、リアンテは「そんなこともできるの」と感心しつつも答えた。
「一時的に操っても、今後のこともあるわ。ちゃんとした紹介状を用意してもらいましょう」
「え、誰に?」
「私の父に」
リアンテは微笑んだ。
「これから秘密を抱えて王宮に入る娘のわがままを、ひとつだけ聞いてもらうわ。別邸に住んでいた頃に仲良くなったシェラーサという人に、侍女として側にいてもらわないと、辛くて耐えられない。でも彼女にはちゃんとした身元がない、と言って、父に身元を保証してもらいます。これは全て本当のことだし、後は父がどうにかしてくれるでしょう」
イダートは軽く目を見開いた。
「……リアンテ、ずいぶん、肝が据わった様子だな」
「私たち、心強い味方を得たのですもの」
リアンテは微笑んだ。
「ただ秘密を隠すだけの日々を送るのではない、ということが、心を軽くしてくれたのです」
「何かが解決したわけじゃ、全然ないんだけどね」
シェラーサは肩をすくめたが、リアンテは彼女にも微笑みかけた。
「イダート様が傷つかずに済む、それだけで嬉しいわ」
三人は何度か会い、細かい打ち合わせを行った。
そうこうするうちに、リアンテがイダートと連れだって国王に挨拶に出向く日が近づいてきた。
「いよいよ、私の出番ね」
その日こそ、シェラーサが初の身代わりをつとめる日である。