6 謎の男と剛胆な魔女
シェラーサはあわててその手に爪を立て、落ちないようにしがみついた。しかし、その手は爪の痛みなど何と言うこともないように、広い手のひらでシェラーサの小さな身体を支え、空洞の外に移動した。
聖樹から離れると、彼女は素早く飛び降り、少し距離を取ってその人物と向かい合う。
ガウンを着た、長身の男のようだった。聖樹の周りに灯りはなく、王宮の灯りは遠く、顔はよく見えない。
「ここには登るな」
低い、何の感情も表さない声が、淡々と告げた。
誰だろう、といぶかしみながらも、シェラーサはあることを思いついた。
(ちょっと試してみようかしら?)
ここにいるということは、王族か、魔法の研究者である。しばらく一緒にいて、シェラーサの正体に気づくかどうか。
「にゃあん」と鳴いて彼に近づき、ガウンの裾に身体をすり寄せてみた。もしこの人物が猫好きなら、もう一度抱き上げるかもしれない。
かくして、男は片膝をついた。
「この木に近づく動物など、見たことがない」
彼はつぶやくように言って、シェラーサの方に手を伸ばす。
(あらそうなの? 動物たちは恐れをなして、木に近づかないってこと? 私も近づいたらまずかったかしら)
シェラーサは思いながらも、じっと彼の顔のあたりを見つめ、抱き上げられるのを待った。
……しかし、男は結局その手を止めて立ち上がった。あら、と拍子抜けするシェラーサに、声が届く。
「こんな場所に入り込むとは、剛胆な猫だ」
ふっ、と、わずかに、ほんのわずかに声が柔らかくなった。
「賢そうな猫だ、私の言うことがわかるだろう。怖いもの知らずは結構だが、ここには近づくな。良いな」
そしてすぐにくるりと踵を返し、水晶の建物を出ていった。
しばらくその場から動けなかったシェラーサは、我に返ると男の後を追った。
宮殿へと続く石壁の通路の突き当たりに、両開きの扉がある。男はそこを開け、出ていくところだった。扉の向こうからわずかな光が入り、暗色の髪が透けてたなびくのがちらりと見えた。
途中で立ち止まって見送るシェラーサの視界で、扉はゆっくりと閉まる。がちゃん、と鍵のかかる音。
あたりは静まり返った。
(……今の人、結局何をしに、ここに来たのかしら?)
シェラーサは少し考えていたが、軽く肩をすくめると、王宮を出るべく外壁へと向かった。
リアンテが森にシェラーサを訪ねてきてから、丸二日経った夕方。
ワント公ファミアの離宮、夕食前に一度自室に戻ったリアンテは、扉を開けたとたん書き物机の椅子の上に灰青色の猫がいるのに気づいて驚いた。しかし、約束のことをずっと気にしていたので、すぐにそれがシェラーサではないかと思い当たる。
リアンテが扉を急いで閉め、振り向いた時には、椅子にシェラーサが腰かけていた。
「シェラーサ!」
「約束通り来たわ、リアンテ」
「猫に変身できるのね。何となく、魔女の猫って黒猫かと……」
「真昼間には目立つじゃない? 黒猫って。目立ちたくないときは、景色に溶け込む色の方がいいと思って」
さばさばとそう言うシェラーサに、リアンテは
(いつも草色のドレスを着ているのは、森の中で目立ちたくないからかしら?)
と面白く思いながら、口を開いた。
「それで……あの……」
「どうにかなりそうよ」
いきなり本題をシェラーサが話しだすと、リアンテの頬に木漏れ日が射すように、微かな希望の紅が差した。
「本当……?」
「ええ。やっぱり私に相談に来たのは正解だったわね、リアンテ。私にしかできない、いい方法があるの」
シェラーサは軽く胸を反らし、片手を胸に当てて得意気に言った。
「この私が、あなたの身代わりをやってあげるわ」
リアンテは戸惑う。
「身代わりって?」
「見ててごらんなさい」
シェラーサは、すっ、と立ち上がると、右手の人差し指を軽く振ってからその場でくるりと一回転した。草色のドレスがふわりと広がる。
『黄昏の光、惑乱の瞳、現の夢』
そしてリアンテの方に向き直った時……そこには、リアンテがもう一人、立っていた。
「きゃっ……わ、私!?」
リアンテは思わず一歩後ずさる。
「変身魔法は得意なのよ。ふふ」
『リアンテ』は得意気に、腰に手を当てて微笑んだ。
「私があなたの代わりに、王太子妃になってあげる」
リアンテは目を見開いたまま、しばらく固まっていたが、
「……そ、それはどういげほっげほっ」
と、急くあまりせきこんだ。
「ああ、驚かせちゃったわね、言っとくけどイダートを寝取ろうっていうんじゃないわよ! 他の人のものには興味ないの」
シェラーサはリアンテの姿のままリアンテに駆け寄り、背中をさすりながら説明する。
「つまり、とにかくリアンテを王太子妃にって風に事態は動いちゃってるんだから、とりあえずリアンテに化けた私とイダートで王太子夫妻として振る舞う。あなたはどこか近くで暮らして、そこでイダートと会えばいいわ。今までみたいにね。もしあなたの母上のことがバレて、あなたに化けた私が処刑されそうになったら、私は魔法で死んだ振りして逃げる。簡単なことよ」
「そ、そんな……ことが……? いいえ、ダメよシェラーサ、だってそんなことしたらあなたが」
リアンテは焦った。
「ずっと森で静かに暮らしていたのに、王太子妃として何年も王宮で暮らさなくてはならなくなるのよ?」
「ああ、ちょっとのぞいて来たけど、確かに独特の雰囲気よねーあそこ」
軽くうなずくシェラーサに、リアンテは驚く。
「のぞ……! い、行ったの!? 王宮に」
「昨夜ね。もし、王宮に私と同等以上の力を持つ魔法使いがいたら身代わりがバレてしまうから、いるかどうか見に。まあ、私ほどすごい人なんていないわよねフフン。あとはまあ、他にもいくつか確認を」
「じゃあ、危ないことはなかったのね」
胸をなでおろすリアンテ。シェラーサは聖樹での危機と謎の男に助けられたことはおくびにも出さず、
「……ねえ、リアンテ」
と今度は逆回りに回転した。シェラーサ本人の姿が現れる。
「私ね、森で一人で暮らし始めて、もう百年以上経つの」
「百年……そんなに?」
息を呑むリアンテに、シェラーサは笑顔を見せた。
「だから、幼いあなたが森に迷い込んできたとき、とても嬉しかった。何度も来てくれて、どんなに慰められたか知れないわ。この子が困った時は、森を出ることになってもきっと助けてあげようって、そう思ってた」
「シェラーサ……」
「それに、森での暮らしもそろそろ飽きたし、二十年や三十年王宮で暮らすのもいい気分転換だわ。途中で嫌になったら、それこそ死んだ振りでもして逃げちゃえばいいんだもの。あ、でもそうしたらイダートは他の女と再婚しないといけないのか。まぁいいわ、ね、とりあえずできるところまでやらせてよ。面白そう!」
楽しげに言うシェラーサを、リアンテは両手をあげて押しとどめようとする。
「待って、でも、王宮よ? しきたりとか色々、面倒なことがたくさん……」
「あら、魔女を舐めないで欲しいわね。そのくらい、ちょちょいのちょいよ」
「シ、シェラーサったら……でも……私一人では決められないわ、イダート様にも伺ってみないと」
動揺するリアンテだったが、シェラーサはもう心を決めていた。
「イダートに会わせてちょうだい。私が実演つきで説明してあげるわ」
「そ、そうね、わかったわ。近いうちに、また離宮においでになるから、その時に。……ねぇシェラーサ」
リアンテはシェラーサの顔を伺うように、尋ねる。
「百年って……百年前には、シェラーサはこの姿だったのよね……それからずっと、若いままなの? それとも、年を取ったけど若返ったの?」
「百年ちょっと前に、私の中の時間がとまったの」
「じゃあ、シェラーサは、これからもずっと年を取らないの……?」
すると、シェラーサは珍しく目を逸らしてから微笑んだ。
「さあ。私にもわからないわ」