5 魔女といえば猫
「お父上には、相談したの? いえ、もちろん言いにくいだろうとは思うけれど、お父上だってリアンテが処刑される可能性があるようなことは望まないはずよ」
シェラーサの質問に、リアンテはしゃくりあげるような声を上げて笑った。
「ふふ、お父様は、何もかもご存じだったわ」
「え? ……それって、血がつながっていないことも?」
「そう。それに、イダート様と出会うように私をファミア様の元に送り込んだのも、イダート様と私の仲を陛下に教えたのも、お父様だった。お父様はこうおっしゃったわ。『死にたくなければ、隠し通せ』と」
リアンテは自分の身体を抱きしめる。シェラーサは呆れたように言った。
「王太子と結婚すれば、ますます秘密をしゃべれなくなるだろう、ってこと?」
「そうね。でも、私はイダート様に打ち明けた。それでナージュ家はおしまいだと、そう思ったのに……」
リアンテは弱々しく、首を横に振る。
「こんなの不敬だわ。きっと、父は母に復讐したいのよ。私という『嘘』を神聖な王家の一員にして、母に罪深さを知らしめたいのだわ」
「リアンテ」
「結局イダート様まで秘密を一緒に抱えることになってしまったんだもの、黙っているしかない。でも、怖い。いつ罪を知られて処刑されるかと、怯えながら王太子妃をつとめるなんて。それだけじゃないわ、殺されてしまえば私は終わりだけど、残されたイダート様は? 誠実に私を愛して下さっているのだもの、妃をお父上に殺されたとき、何もなかったようになんてできないはず」
「国王と王太子が争えば、国もめちゃくちゃね」
シェラーサはつぶやく。
「聖樹を失ってから、王家はその代わりを……国民は王家を、心の拠り所にしてきたはずよ。その王家が乱れてしまったら……」
「どうしたらいいの? シェラーサ、お願い、知恵を貸して」
しかし、シェラーサはリアンテのその問いかけに気づかないように、宙に視線を投げて何事か考えていた。リアンテの方もすでに独り言に近い風に、はらはらと涙をこぼしながら続ける。
「そんなことになるくらいなら、最初から私などいない方がいい。そうよ、イダート様から身を引く覚悟はしていたんだもの。どこか、川岸に靴でも残しておけば、死んだことにならないかしら? シェラーサ、私をここに置いてください」
「嫌」
急に、シェラーサが意外なほど強い調子でリアンテの申し出をはねのけた。リアンテは思わず、びくりと顔を上げる。
シェラーサはリアンテと視線を合わせると、左手を上げ、指先でリアンテの涙を拭った。
「正直、私は会ったこともない王太子よりリアンテの方が大事だから、あなたが処刑されるのを防ぐためなら、身を引くのは大賛成なのよね。でも、ダメ」
不思議な色の瞳が、リアンテを見つめる。
「毎日、彼を思って泣くあなたの顔なんて、見たくないわ。愛する人と離れちゃダメ。一度手を離してしまったらおしまいよ。魔女と違って人間の命は短いわ、すぐに病気とか事故とかで死んじゃうんだから」
「でも……!」
言い募ろうとするリアンテの唇を、シェラーサは右手の人差し指で押さえて言った。
「あなた、私に相談しに来たんでしょ? 自分だけで結論を出すことないわ。……そうね、二日、待てる?」
「二日……?」
「ええと、長いかしら。ごめんなさい、こんな生活だから、時間の感覚が普通と違うみたいなのよね」
あたふたするシェラーサに、リアンテが首を横に振ってみせると、リアンテはホッとしたように咳払いをして改めて言った。
「二日後に、もう一度会いましょ。それまでに私がうまい方法を提案できなかったら、身を引いて私のところに来ればいい。ああ、いっそ二人で傷心旅行にでも出ましょうか、魔女との旅は便利だし楽しいわよ? ご用命はシェラーサまで」
「シェラーサったら」
泣き笑いの表情になったリアンテは、一度目を閉じて自分の頬を両手で挟んで押さえ、そして背筋を伸ばして目を開いた。
「二日後を、お待ちします。あなたに委ねるわ、シェラーサ」
昔、まだミシスが世界に満ちていた頃、魔法使いは動物や植物と心を通わせていたという。特に、女性の魔法使いは猫と相性がよかった。
(魔女といえば、猫でしょ)
灰青色の毛、胸の部分に白くややふっさりした部分のある猫に変身したシェラーサは、長い尾をピンと立てて丘の斜面を上っていた。九十年ほど昔に飼った経験があり、猫についてそれなりに知っていることもあって、動物の中で猫にだけは変身できるのだ。
立ち止まって丘の頂上を見上げると、陽が落ちたばかりの闇に篝火が赤々と燃え、灰色の尖塔群を浮かび上がらせている。ダナンディルス王宮の主宮殿だ。
(ふう)
シェラーサは一息つくと、また登り始めた。主宮殿に忍び込もうというのである。
王丘の近くまでは夜闇にまぎれ、森の大鷹に乗せてもらって飛んで来たのだが、近づきすぎると目立ってしまう。残りの行程は、猫に変身して延々と歩いた。
シェラーサはかなりの量のミシスを操れる魔女だが、一つ問題があった。徹底的に不器用なのだ。一つ一つの魔法を確実に発動するのはともかく、二つの魔法を同時に使うのが苦手だった。
王宮に忍び込むにあたって、見つからない方法を色々と考えたのだが、猫の姿に変身して姿をそのまま「固定」しておけば、警戒もされにくいしある程度他の魔法も使える。そう結論した上でのこの姿なのだが、猫のまま呪文を唱えずに使えるのは簡単な魔法のみ。浮遊魔法は使うことができず、延々と歩いているのだった。
(こんなに長いこと外を出歩くの、何年ぶりかしら。たまに必要なものを買いに町へ出ても、すぐに帰っちゃうから……あー、明日は足が痛くなりそう。いや、明後日に来たりして)
考えているうちに、石畳の道に出た。王丘にはこのような道がいく筋も張り巡らされていて、馬車で移動できるように整備されている。
そして道の向こうに、見事な鉄細工のほどこされた柵があり、宮殿の裏手にあたる建物が見えている。
(ここから入れそうね)
シェラーサは柵の隙間を抜け、中に入り込んだ。
広い王宮の中を巡りながら、シェラーサはいくつかの点を確認した。リアンテから相談されたことに関して一つ思いついた策があったのだが、それが可能かどうかを確かめるためだ。
猫の足ではそれなりに時間はかかったが、誰にも見咎められることはなかった。
王丘に到着したのは、星と夜の神ニュイスの目覚めの時刻、つまり陽が落ちてすぐの頃だったが、シェラーサが用を終えた頃にはもうニュイスが世界を睥睨する時刻、つまり真夜中になっていた。
(よし。大丈夫そうね。これなら、リアンテを喜ばせてあげられそうだわ)
さすがに疲れたものの、王宮内で夜明かしするのも落ち着かない。とにかく主宮殿からは出ようと、シェラーサは一番手近な外壁へと向かった。歩哨の目を盗みながら外壁沿いを歩き、壁が鉄柵に変わったところで外にするりと抜け出る。
(あら?)
シェラーサの目に、気になるものが映った。
外壁から石壁の通路が伸びており、その先、丘の中腹の斜面が壁で区切られている。壁の上から何か建物のようなものが付き出ているのが、かろうじて届く篝火の灯りでうっすらと見えた。
(あそこは……)
シェラーサはその区画に近づくと、壁に爪を立てて上までよじ登り、中をのぞき込んだ。
かなり広く区切られた内部には、不思議な建物が建っている。丸天井で透き通っており、水晶のようなもので作られているようだ。しかし内部は暗く、建物の中に黒々とした柱のようなものがあるのがぼんやりと見えるだけだった。
(……聖樹だわ。戦争で燃えてしまった、聖樹の焼け跡)
シェラーサは壁から飛び降りると、建物に近寄っていった。
聖樹が焼けてから、ダナンディルス国民はその焼け跡を見ることは許されなくなった。この一帯には王族と、魔法についてのあれこれを研究している特別に許された人間しか立ち入ることができない。
しかし、近づいてみれば建物はあちこちが割れ落ちており、猫一匹ならどこからでも入ることができた。
燃え落ちた聖樹は、幹の一部は残っているものの、すでに炭と化している。
(この樹は、このままの姿で、ずーっと残しておくのかしら……)
シェラーサは、残った枝にひょい、ひょいと飛び乗った。そして、人間の身長よりやや高いところにある、木の折れた部分をのぞきこむ。
木の内部は腐り落ちたのか、空洞になっていた。ギザギザの折れ口は、まるで化け物が牙をむいているように見える。
のぞき込むと、夜の闇とは異なる闇が沈んでいて──
──シェラーサは、そこから目を離せなくなった。
闇の底に細かなひび割れが見え、熾火のように赤く光っている。聖樹が燃えたのは、今からもう四百年も昔のことなのに、まだ炎を内包しているのか、それともこれは聖樹が見せる幻か。
(……何だか、嫌な雰囲気。もう行こう)
シェラーサは無理に視線を外そうとした。その瞬間──
前脚の足もとが崩れた。
(あっ!)
シェラーサはとっさに爪を出し、折れ口にひっかけて捕まった。かろうじて空洞の内側にぶら下がる。口から勝手に、「にゃっ!」と声が出た。
後ろ脚の爪を空洞の内側にかけ、ぐっと身体を持ち上げようとしたが、頭が重くバランスが取れない。
(そういえば、疲れてたんだった……嫌だ、もうトシなのかしら)
百歳を越えているシェラーサは焦りながら、ちらりと下を見た。本能的に、ここに落ちたら這い上がれないと悟る。
(まずい、浮遊魔法を)
そう思ったシェラーサは、はたと困った。
浮遊魔法を確実に使うためには、呪文を唱えなくてはならない。そしてそのためには、変身を解かなくてはならない。しかし、解いたら確実に、今つかまっている部分が折れる。
呪文なしで試してみるしかないが、実はそれにもちょっとした危険が伴った。本来、ミシスはあらゆる生物が体内に持っているものなので、それを利用して変身しているシェラーサに誰も気づかないはずだ。しかし、魔法発動の瞬間だけはミシスの動きが変わるため、近くに魔法に詳しい者がいれば気づかれるおそれがある。場所が場所だけに、気になった。
爪をかけている部分がみしっ、と鳴り、崩壊を予告する。
「にゃ……」
(ダメだこりゃ、迷ってる場合じゃないわ)
失敗したらその時はその時だ、とシェラーサが呪文なしで浮遊魔法を使おうとした瞬間――
かすかな足音が聞こえた。
すぐに、ぬっ、と何者かが聖樹の上に顔を出し、彼女の腹に手を入れて持ち上げた。