3 令嬢、魔女と再会する
「そろそろ、送っていきましょうか」
シェラーサは約束通り、リアンテの手を引いて家を出ると、森の中を案内した。
そのころにはリアンテはすっかり落ち着いており、今日は森にほど近い川のほとりでボート遊びをしていること、数日間お客が入れ替わり立ち替わりして来る食事会も兼ねていること、普段何をして遊んでいるのかなどを次々と話した。シェラーサは楽しそうに、その話を聞いた。
「ボートになんて、乗ったことないわ」
そういう魔女にリアンテは、
「うちに来れば乗せてあげるのに」
と言ったが、魔女は照れたように笑うだけだった。
人々のざわめきが聞こえてきて、リアンテの母や客人たちが茂みのすぐ向こうにいるのだとわかったとき、シェラーサは足を止めた。そして、屈みこんでリアンテの顔を見つめた。
「私は、助けを求めている人の前にしか、現れないことにしてるの。魔女って、魔女を必要としている場所以外では、うっとうしがられるものですからね。だから、ここでお別れするわ。……久しぶりに人とお話できて、とっても楽しかった。さようなら、可愛いリアンテ」
つないでいた手が離れたとたん、彼女はふっと、姿を消してしまった。彼女の美しい瞳の色が、残像のようにリアンテの意識に残った。
「お嬢様! どこに行ってらしたんですか!」
乳母にさんざん叱られたリアンテだったが、機嫌の良い様子の彼女を母親が不思議に思って尋ねた。
「よくまあ、あんな深い森で迷子にならなかったものね」
「だって、優しい魔女さんが助けてくれたもの」
リアンテは事実をそのまま話したが、母は「そう」と笑って大人たちの会話に戻って行き、乳母も帰り仕度を始めただけだった。他の大人たちに話してみても、子どもの言う微笑ましい作り話として聞き流されるだけ。
そして、リアンテはふと気付いた。
今でも鮮やかにシェラーサの瞳を思い出せるのは、シェラーサがリアンテの目を見て話してくれたからだと。
翌日も同じ場所で、大人たちの宴が開かれた。リアンテは乳母の目を盗み、森に入ると、わざと奥へ奥へと入り込みめちゃくちゃに歩いた。迷子になるように。
なぜなら、彼女は「助けを求めている人の前に現れる」からだ。
すっかり道に迷ったリアンテが、さすがに少し怖くなって「魔女さん、助けて……」とつぶやくと、呆れたような声がした。
「はいはい。無茶をする子ね」
木の陰に、シェラーサが立っていた。
「シェラーサ! 会いたかった!」
リアンテが駆け寄ると、シェラーサは困った風を装いつつ、隠しきれない喜びの笑みを浮かべた。
「……来るかな、と思って、お菓子を焼いたのよ」
「どうしてわかったの!? 魔女だから?」
リアンテが驚くと、シェラーサは片目をつむった。
「友達だからよ」
翌年も、その翌年も、森の側でのボート遊びや狩りをする時にだけ、リアンテはシェラーサに会いに行くことができた。短い逢瀬だったが、まるでずっと以前から知り合いだったかのように、二人は親密な時間を過ごした。
リアンテが面白く感じたことに、シェラーサはとにかく徹底的に不器用だった。料理は野菜がずいぶん大きく切ってあり、自分で縫ったらしいクッションは縫い目が大きい上にガタガタ、いつもエプロンの後ろのリボンを縦結びにしているのでリアンテが直すほど。しかし、やはりシェラーサはそういった家事には魔法を使わず、遊ぶことばかりに魔法を使う。
「魔法は楽しいのが一番!」
そういうシェラーサは気ままに生きているように見えたが、ふざけているわけではなく、いつもリアンテと真っ直ぐ向き合って、話を真剣に聞いてくれた。
リアンテは彼女が大好きだった。
しかし、リアンテが八歳になった年から、シェラーサに会うことは叶わなくなった。
母から離れ、父と王丘で暮らさなくてはならなくなったのだ。
両親がずっと以前から不仲であったことは、リアンテも薄々気づいていたが、父が母からリアンテを引き離したいと思うほどまでに母を厭っていたことを、彼女は初めて知った。
シェラーサに別れの言葉も言えないまま、リアンテは別邸を後にした。王丘での日々が過ぎていく中、彼女は森のことは記憶の底に沈め、時々すくい上げては幸せな頃を思い出して、心のよすがとしていた。
数年が経ち、リアンテは社交界にデビューした。大人しい彼女はあまり目立つことはなかったが、その分妬みを買うことも少なく、同性からも異性からも美しく賢い連爵令嬢として憧れの眼差しを集めていた。
ある日、彼女は王族の女性に侍女として仕えるようにと、父から命じられた。貴族の娘としてそれはごく普通のことだったので、リアンテは素直にその話を受けた。
リアンテが仕えることになったのは、ワント公爵ファミア。先代の女王である。
老齢のファミアは、身体を壊してエヴィルソンに位を譲ってからはワント公として、王丘の北方の公爵領で静かに暮らしていた。リアンテは彼女の身体を気遣いながら、身の回りの世話をしたり話し相手になったりする日々を送っていたが、実はいつも心に掛かっていることが一つあった。
ワント公爵領からなら、シェラーサのいる森は比較的近いのである。幼い頃に住んでいた領地とワント公爵領は、広大な森と谷とを挟んで東西の位置にあったのだ。
しかし、年頃になった貴族の令嬢が一人で行くような場所でもなく、あの大事な場所に誰かを誘うのは気が進まない。
結局足を向けないまま、三年の月日が流れた……
しかしその日、ついに、リアンテは森に足を踏み入れた。
傾きつつある陽の光が木々を透かして斜めに射し込み、光と影の縞を作っている。彼女が重い足取りで歩くたび、その縞模様が外出用ドレスの上を過ぎていった。影はもうずいぶんと濃く、黄昏の気配がする。
そろそろ森を出ないと、馬を飛ばしても屋敷に帰りつくころには夜になってしまうだろう。侍女の仕事は今日は休みをもらっていたが、こんな場所で夜明かしするわけにもいかない。それをわかっていながら、彼女はわざとめちゃくちゃに歩き、もはや帰り道もわからない状態で歩いていった。
この森のどこかに一筋の希望の光が射しているような気がして、リアンテはそれを追い求めていた。たとえ、救われるとは限らなくても。
「魔女さん」
リアンテはつぶやいた。あれから十年以上の時間が流れており、まだあの魔女がこの森にいるのかどうかもわからなかったが、つぶやかずにはいられなかった。
「魔女シェラーサ。どうか……どうか私を、助けてください」
「リアンテ!?」
光が弾けるような、明るい声がした。
ぶわっ、と草色のドレスが翻り、やや金色がかった亜麻色の三つ編みが跳ね──
リアンテは、柔らかく土の匂いのする腕に抱きしめられていた。
「相変わらず、無茶をする子ね! まあ、大きくなって! もうあれから何年? 二年くらいかしら?」
「十一年ぶりです。私、もう十九よ」
リアンテは涙ぐみながら抱きしめ返し、そしてそっと身体を離すと微笑んだ。
「シェラーサ、会いたかった! ごめんなさい、何も言わずに来なくなって。でも本当にまた会えるなんて!」
シェラーサは、青にも緑にも見えるその目を驚いたように見開いて、リアンテをじっと見つめた。赤の他人なのに、いつもリアンテを真っ直ぐ見てくれたその眼差しも、若々しく美しい容姿も、リアンテが幼かった頃の彼女と少しも変わらない。今では、もし自分に姉がいたらこれくらいか……という程度の年齢差にリアンテには見える。
シェラーサはそっと、リアンテの頬に触れた。
「どうしたの、悲しそうな顔」
「私……私、どうしたらいいかわからないの」
リアンテは抑えていた涙をあふれさせながら、シェラーサの腕に縋った。
「シェラーサ助けて。このままでは私、死ななくてはならないわ」
「大変、どうしよう、あなたに泣かれると弱いのよ私」
シェラーサはおろおろとリアンテを抱きとめてから、ふと彼女の顔をじっと見つめ、尋ねた。
「ん? ……もしかして、恋の話?」
「どうしてわかるの? 魔女だから?」
リアンテが驚いて目を見張ると、シェラーサは彼女の背を押して森の奥へ促しながら言った。
「友達だからよ。リアンテ、とても綺麗になったもの。さあ、うちにいらっしゃい、帰るときは送ってあげるから。話をすっかり聞かせてちょうだい」
「ええ、全部話すわ、今すぐ」
待ちきれないリアンテは、歩き出しながら口を開いた。そして、現国王エヴィルソンの生母ファミアに侍女として仕えていることから順に、シェラーサに説明し始めた。