自然に引き寄せ合ったなら
壁に貼られたダナンディルス王国の地図を、エヴィルソンは立ったまま眺めていた。
時々、傍らのテーブルに置かれた本を手にとって頁をめくり、再び地図を見ては、羽ペンを手に紙に何か書き付ける。
そこへ、ノックの音がした。
「奥様がおみえです」
従僕の知らせにうなずくと、すぐにシェラーサが入ってきた。
「ずっとこもって仕事してらっしゃるけど、休憩にしません? ……お邪魔だった?」
軽く首を傾げる彼女に、エヴィルソンは微笑みかけると手を伸ばした。彼の手に乗せられた彼女の手を握り、引き寄せる。
「邪魔なものか。済まない、これは急ぎではないからもう終える」
シェラーサはエヴィルソンの脇にすっぽり収まるように寄り添うと、地図、本、そして紙をちらりと見た。そして、また地図に目を戻すと、右手を上げて指差した。
「北のタレラークはやめた方がいいかも。冬場、港に流氷が来るから船を動かしにくいの」
「……私が何をしているか、わかったのか?」
エヴィルソンが尋ねると、シェラーサは彼の顔を見上げた。
「もし『遷都』するならどこがいいか……では?」
エヴィルソンはうなずいた。
「シェリも、考えたことがあったのか」
「どこに、とまでは考えてなかったけど。もし、今も聖樹の根が残り、エヴィルソン様が王丘を離れているのに王丘に呪いが集まるようなことになったら、王族はあそこから離れなくてはならないわ。その時のために、候補地くらい選んでおいてもいいんじゃないか、程度なら考えたことがあったの。別に王丘が何ともなければそれでいいんだし」
「うむ」
エヴィルソンは、彼女がまだ「女王」の視点を持っていることを感じながらうなずく。
「船で沿岸を移動しやすいタレラークも候補に、と思ったが……流氷か。よく知っていたな」
シェラーサは答える。
「お母様を探して、そちらの方へ行ったことがあったから」
「そうか」
エヴィルソンはシェラーサの髪を撫でる。
「しかし、もし実際に遷都するとなったら、これはイダートかその後の王の仕事になる。とりあえず、話だけはしておこう」
「そうね。……エヴィルソン様」
シェラーサは、彼の胸に頭をもたせかけた。
「そろそろ一度、王宮に行かれたら?」
エヴィルソンは腕の中を見下ろした。
「どうした、シェリ」
「だって、私と暮らし始めてから一度も行かれてないわ。大臣たちからよく手紙が来てるのは、『来てくれ』って内容じゃない? やっぱり顔を合わせて話したい大事なこともあるでしょ。遷都の話だって、イダートにしておくなら余計」
「…………」
エヴィルソンはしばらく考えていたが、軽くため息をついた。
「そうだな。そろそろ行かねばと思っていた」
「イダートが喜ぶわ。彼、エヴィルソン様のこと昔からよく見てたみたい。今、普通に向き合えることがとても嬉しいと思う」
表情を和らげるシェラーサ。エヴィルソンはふと視線を逸らす。
「……恐ろしい所業をしていた、こんな父親を、見ていたのか」
「ええそうよ。それでも見ていたの。だから、裏に何か事情があるってずっと思ってたみたい。彼は優しくて、強い人」
思い浮かべる瞳になったシェラーサを、エヴィルソンはにらむ。
「あまり他の男を褒めるな」
「ええ!?」
シェラーサは驚いて目を見張った。嫉妬されるなどとは思ってもみなかったらしい。
「だ、だって、いい男じゃないと困るじゃないの! 私の可愛いリアンテの夫よ!?」
「まずリアンテありきだな、シェリは。その次ぐらいにはなりたいものだ」
エヴィルソンは口の端を軽く上げた。そして話を戻す。
「シェリは、王丘には来ないのだろう?」
シェラーサはうなずいた。
「ええ。『リアンテの侍女だったシェラーサ』とは、ちょっと顔というか印象が変わってしまってるから、下手に知り合いと会いたくないしね」
シェラーサが王太子妃、リアンテが侍女として入れ替わっていた二人だが、たまに本来の通りリアンテが王太子妃となるときは、シェラーサは侍女のフリをしていた。その際、シェラーサは魔法で、自分の印象をリアンテに似せていたのだ。魔法を失った今はもうそのようなことはできない。
「お留守の間、この資料でも見させていただくわ」
シェラーサは机の方へ軽く手を上げた。
「私がしばらくここを離れても、大丈夫か?」
エヴィルソンが彼女を見つめると、シェラーサはくすくすと笑った。
「嫌だ、子供じゃないんだから」
しかし、エヴィルソンは顔を寄せながらつぶやくように言った。
「私が、離したくない」
言葉も、触れ合う唇も優しく甘く、シェラーサはその合間に目を閉じたままささやいた。
「……十日で帰ってきて」
エヴィルソンもささやいた。
「七日で帰る」
想い合っている二人だったが、未だにあの「二人の部屋」の寝室は使っていない。シェラーサは精神的な落ち着きをだいぶ取り戻し、エヴィルソンも彼女の様子に安心し始めていたが、色々と起こり過ぎた二人は互いに労わり合ううちに、どことなく慎重になっていた。
初めて口づけを交わした時のように、自然に引き寄せられるようなきっかけが――衝動が、二人には必要だった。
◇ ◇ ◇
シェラーサの住む離宮は、エヴィルソンが公爵として治めている公爵領の中にある。
エヴィルソンが王丘へと発った翌日、シェラーサは町へ散歩に降りることにした。
「シェラーサ様、どうぞ」
護衛の騎士の一人が、玄関の前に馬を引いてくる。
「ありがとう」
外出用のドレス姿のシェラーサがあぶみに足をかけると、騎士が彼女の腰に手を添えて手助けをした。
(こういう時、気安いわよね)
シェラーサは思う。
かつて女王だったということなど知らない周囲の人々は、彼女を「元侍女」だと見ている。エヴィルソンの連れ合いとはいえ、王族に対するよりも彼女への態度が砕けている人物が、ちらほらいるのだった。不意に身体に触れられるようなことが起こるのも、それだろう、と思ったのだ。
「馬に乗るのは好きだけど、久しぶりだわ」
「陛下もいらっしゃいませんし、ゆっくり楽しんで下さい。お供はお任せを」
騎士は彼女を見上げて微笑む。そこへ、シェラーサ専属の若い侍女フランタが、自分の馬に乗って声をかけてきた。
「さあ、参りましょう」
うなずき、ゆっくり歩き出しながら、シェラーサは小さくため息をついた。
エヴィルソンがいない方が、彼女にとって良いことだと思われている──それも、仕方のないことかもしれない。おそらく周囲の人々の中には、未だ『冷酷王』の噂が根深く残っていて、シェラーサもその被害者予備軍のように思われているのだ。望んで共に生きていこうと決めたのだと話しても、エヴィルソンが恐ろしいあまりにそう言わざるを得ないのだろうと思われかねない。
(少しずつ、変えて行かなきゃね)
シェラーサは軽く肩をすくめると、前方を見つめて馬の腹を蹴った。
離宮にほど近い、ミラナダの町。
供の侍女と護衛を連れているのを見た人々が、彼女の身分を察してざわめく。その合間から、待機していた町長が近寄ってきた。
「公爵夫人、ようこそミラナダの町へ」
王妃ではないシェラーサは、一般にはそう呼ばれていた。馬から下りたシェラーサは、軽く膝を曲げて挨拶する。
「こんにちは。お世話になっている領地の町を、散策させていただきにきました」
「どうぞどうぞ。妻がご案内を」
町長が手で示すと、彼の後ろから美しい中年女性が進み出て膝を折る。
「ありがとうございます、お手を煩わせてごめんなさい」
シェラーサはなるべく控えめに言った。シェラーサが単なる侍女上がりの愛人だと思っている人々もいるはずで、さらに高慢に見られでもすればエヴィルソンの恥になる。
「ご希望があれば、先にそこへご案内しますが」
町長夫人は、そんな彼女にどんな態度をとれば良いのか決めかねているようで、伺うように尋ねてきた。シェラーサはにっこりと微笑んだ。
「お昼時に中央市場に行きたいと思っているんですが、後はお任せします」
教会や町の史跡、学舎などを回ってから、シェラーサは中央市場で買い物をした。物珍しげに彼女を見ている町の人々がいれば、目を合わせて笑いかけ挨拶する。
そのうち、詮索好きそうな人が思い切ったように話しかけてきた。
「公爵夫人、陛下とつつがなくお過ごしですか?」
「おかげさまで」
シェラーサは笑い、そして少し肩を落として見せた。
「今は王丘に行ってしまわれいて、寂しいわ」
「へ……陛下はよくしてくださいますか?」
「ええ! 私、一時身体を壊していたんですけど、とても優しくしてくださいました」
「そ、そうですか」
シェラーサは本当のことを言っているだけなのだが、町の人々は目を丸くして彼女の話を聞く。
「優しい……」
「あの陛下が……」
「変わられたのか……?」
そんなざわめきを聞きながら、シェラーサはだめ押しをする。
「早くお戻りにならないかしら。今度は陛下と、この市場に伺いたいわ。お誘いしてみますね。あっ、あの薫製、美味しそう! 陛下にお土産に買って帰ろうかしら」
これで少しでも、エヴィルソンの印象が変われば。
それが、町を散策に来たシェラーサの望みだった。
エヴィルソンの執務室の資料や、シェラーサ自身が王女時代に各地を視察した時の経験、それに魔女になってから訪ねた数カ所の記憶。シェラーサはそれらを参考に遷都先の候補を選び、利点や問題点をまとめながら数日を過ごした。
そして、エヴィルソンが発って六日目の夕方。
「奥様、町で噂になっているようですよ」
シェラーサの私室で、彼女の髪を夕食の前に整えながら、侍女フランタが話しかけてくる。
「陛下は変わられたのではないかと。それとも、今までの出来事も、何か深いわけがあったのかもしれない、と」
あれからもう一度町に降り、今度は町長夫妻抜きで町の人々と交流したシェラーサも、そのような手応えを感じていた。微笑んでうなずく。
「良かった」
「……わたくしには事情はわかりませんけれど、お仕えする主が幸せならそれで……」
フランタは控えめに答える。
「そうね、色々あったけれど、今の陛下は心穏やかでいらっしゃると思うわ。ありがとう」
シェラーサはまた微笑んだが、無意識にため息をついた。
フランタは櫛を片づけると、
「予定では、明日の夕方にはお戻りでしたね。変更がないか、確認して参ります」
と言って退室していった。
「はー……」
シェラーサはまたため息をつくと、立ち上がった。そして、別の侍女に声をかけてランプを受け取り、一人で部屋を出ると、廊下をたどり階段を上って行った。
エヴィルソンが「二人の部屋」と呼んでいる部屋は、カーテンが閉じられ火の気もなく、深閑としていた。シェラーサは窓際の台にランプを置き、カーテンを開けた。
農地と森の向こうに広がる、さざ波のような夕焼け雲が美しい。ねぐらに帰る鳥の黒い影が空を横切る。
「……一人は嫌ね」
つぶやくと、寂しさが増した。
エヴィルソンはこれを見越して、「大丈夫か」と聞いたのかもしれない。長い時を森で一人で過ごしていたシェラーサが、リアンテやイダートなどと毎日のように顔を合わせ、そしてエヴィルソンと暮らし始めた。それ以来、初めての一人の日々。使用人たちは近くにいるものの、やはり一線を画しており、寝食を共にするわけではない。
シェラーサは、すぐ横にあるもう一つの扉を見た。まだ使ったことのない寝室だ。
しばらく扉を見つめていたシェラーサが、窓に視線を戻したとき──
遠くの森から離宮への道を、二騎の馬の黒い影が走ってくるのが見えた。
エヴィルソンが予定通り明日の夕方に戻るなら、今日の昼前にはすでに王丘を出て、夜は途中の町で一泊するはずだ。おそらく、そこからの早馬が道中の様子や明日の予定を伝えに来たのだろう。
「……それともまさか、戻る予定が延びた、とか」
その可能性に思い当たったシェラーサは、カーテンの端を握りしめた。
エヴィルソンとイダート、ずっと精神的に距離のあった父子の時間が増えるのは喜ばしい。それはシェラーサの本心ではあるのだが、彼女はエヴィルソンのいない寂しさに負けそうになっている。
知らせが来たのなら、私室に連絡がくるかもしれない。戻った方がいいことはわかっていたが、もし明日帰ってこないと知らされたら涙がこぼれてしまいそうで、シェラーサはその場から動けなかった。
広い空、黄昏を夜の青が少しずつ覆い、小さなランプ一つだけの二人の部屋は急速に暗くなっていく。
いきなり扉が開き、シェラーサは驚いて固まった。ノックもなしに使用人が入ってくるなど考えられない。
廊下からの明かりを背に、黒く大きな影が踏み込んでくる。
「シェリ」
はっ、と息を呑み、そしてシェラーサは駆けだした。ぶつかるようにして影に飛び込むと、マントをつけたままの大きな身体が彼女を包み込む。
「エヴィルソン様!」
「今、帰った」
「何で!? 早いわっ」
「早いな。急いだからな」
エヴィルソンの青い目が笑い含みに光る。彼は説明した。
「昼に出る予定を早朝にして、早馬の騎士の振りをして馬を走らせてきた。身代わりだな」
シェラーサは噴き出した。
「身代わりって……もう、無茶なさって! 途中で馬を変えて……?」
「そうだ。悠長に一泊などしていられるか」
エヴィルソンはそう言うと、シェラーサを抱き直して深く口づけた。ほんの数日の別離だったが、彼がシェラーサを想っていたことが伝わる。シェラーサも両腕を彼の首に回して応え、嬉しさを伝えた。
「……さすがに、空腹だ」
「すぐに食事にしましょう。汗も流したいでしょ。そうしたら、エヴィルソン様……」
シェラーサは彼を見上げる。
「今日は、ずっと一緒にいたい」
潤んだ瞳に気持ちが溢れて、肌が香るようだった。
エヴィルソンは思わず彼女の頬に、耳の付け根にと口づけたが、移動で汚れた身体では……と自重する。
「……私も、そう言おうと思っていた。ここの、寝室の用意をさせていいか?」
尋ねたエヴィルソンの強い視線に吸い寄せられ、シェラーサは陶然とうなずく。
「あ、でも、ずっと馬で……お疲れよね」
「何のために早く帰って来たと思っている」
二人はもう一度、強く抱きしめ合った。
◇ ◇ ◇
隣の部屋から物音がして、フランタは急いで控えの間を出た。主夫妻の部屋の扉をノックすると、応えがある。
中に入ると、ガウン姿のエヴィルソン一人が寝室から出てきており、朝の光にまぶしげに目を細めながらソファに腰掛けていた。
「あっ……し、失礼しました。奥様がお目覚めになったのかと」
シェラーサの身支度を手伝うつもりで来たフランタが、頭を下げる。
「シェリは、もうしばらく寝かせてやってくれ」
エヴィルソンがそう言うのを聞いて、若いフランタは何となく赤面する。
「はい」
「ところで、留守中のことを聞かせてほしい」
腕を組んだエヴィルソンに、フランタは報告する。
「奥様のそばにおりましたが、特に、何も」
エヴィルソンが王丘に出発する直前、フランタは彼から、シェラーサを私室以外で一人にしないようにという命を受けていたのだ。
「そうか」
エヴィルソンは窓の外に目をやり、淡々と続けた。
「……非道な王によって離宮に囲われた美しい女が、王妃になることもなく不遇の日々を送っている。そんな風に人々には見えるだろう。私のいない間に、彼女を救わんと立ち上がる男がいても、不思議ではないと思っていたが」
「そ、それで私に、奥様から目を離さないように、と?」
フランタは冷や汗をかき、目を泳がせる。
実は一人、妙にシェラーサに近づきがちな騎士がいたのだった。いつも彼女を目で追っていたり、シェラーサが一人でするようなことにわざわざ手を出したりする。身体に触れた時は、やりすぎではないかと思い、つい割り込むように声をかけた。
もし下地にエヴィルソンの言ったような考えがあるとすれば……
「思い当たる節でも?」
エヴィルソンの声に、はっ、と我に帰ったフランタは国王の目を見た。どうやら国王の方に、元々思い当たる節があったらしい。
ここで具体的に報告していいものかどうか、フランタは迷った。彼女の立場なら報告すべきであったが、あの騎士の命にかかわるかもしれない。
「……シェリがあしらえる程度なら、話さずとも良い」
エヴィルソンはそう言って笑ったが、その笑みには凄みがある。フランタは思わず、口にした。
「あ、あのっ、もしそういう男性がいたとしても、だんだん意識を改めると思います」
「なぜだ?」
眉を上げるエヴィルソンに、フランタは緊張したまま答えた。
「陛下がお留守の間、奥様は町に何度かお出かけになり、陛下とのことを町の人々にお話になっていました。自分は今、陛下と共に暮らしていて幸せなのだと……人々の陛下に対する印象を、変えようとなさっていたようです」
エヴィルソンは、軽く目を見開いた。表情がわずかに和らぐ。
フランタは続けた。
「何より、お側にいる私から見て、奥様は陛下以外眼中にないというか……そのことは、きっとだんだん周囲にもわかっていくと思います。奥様を『救おう』などと考える者など、いなくなりますわ」
「……そうか」
エヴィルソンは片手で口元を覆い、視線を逸らした。
「シェリは……そうか。……わかった、ご苦労」
彼は立ち上がると身を翻し、寝室の扉を開けて中に入って行った。扉が閉まる。
自分はどうすれば……と立ち尽くしていたフランタだったが、扉の向こうから何やら甘やかな声がし始めたのに気づき、あわてて廊下へと飛び出した。
「……しばらく、お声をかけない方がよさそう」
フランタはため息をつき、火照った頬を押さえたのだった。




