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21 国王の欲望

 リアンテは酒器をワゴンに片づけると、

「一度、これを片づけてから戻ってくるわ」

と居間を出ていった。王太子妃の侍女たちは良家の令嬢でもあり、個室を持っているので、自室にいなかったからといって即怪しまれるということはない。


 居間には、イダートとシェラーサだけになった。

 イダートはソファの背に頭を預け、天井を見つめていた。何度か呼吸音を数えてから、静かに聞く。

「私は、今後どうなるのだろうな」

「…………」

 斜め向かいのソファのシェラーサが、身じろぎする気配。イダートは続けた。

「先ほどは、リアンテに心配させると思って言わなかったが……祖母のファミア殿下も、その前の王も、身体を壊して退位なされた。父上は身体を壊している様子はないものの、『それ』に取り憑かれている。リアンテは私が適当な理由をつけて聖樹から遠ざけるからいいとしても、集まってくる呪いがなくなるわけではないのだから、いずれ父上は……。そして後を継ぐのは私だ」


「心配しないで」

 シェラーサが柔らかく言った。

「私がいる。私がずっと浄化を手伝うんだから大丈夫よ。エヴィルソン様も、その後を継ぐあなたも、あなたとリアンテの子も」


「それは、シェラーサの時が止まり続け、ずっと生き続けるという前提のことだ」

 イダートの声は、静かに続く。

「シェラーサの心が、殺されたままだということだ」


「ありがとう、イダート。心配してくれて」

 シェラーサはにっこりと笑った。

「森で一人で生きてきた間と違って、やることがあると嬉しいの。だから、気にしないで。……じゃ、おやすみ」

 立ち上がったシェラーサを見て、イダートは身を起こした。

「今夜は、ここで休むのではないのか?」

「さすがに、眠れそうにないわ。西の塔で夜明かしするって、リアンテに言っておいて」

 カーテンの隙間から手を入れ、窓を細く開けたシェラーサは、一度振り向いてイダートに微笑みかけた。

「あの塔を建てさせたのは、私の父なの。私にとってもお気に入りの場所だった。今日はちょっと、あそこで思い出に浸ることにするわ」

「……わかった」

 イダートはうなずき、猫になって出ていくシェラーサを見送った。

 


 翌日の夜、西の塔。

「エヌイス嬢、王宮を出て自邸に戻ったみたいね」

 絨毯に座ったシェラーサが、長椅子に腰掛けたエヴィルソンに寄り添って見上げる。エヴィルソンは低く答えた。

「お前のせいだろう」

「ふふっ」

 シェラーサは、魔女らしく、いかにもしてやったりという風に笑って見せる。しかし、内心はほっとしていた。


 一度、エヌイスが王宮にいる間にリアンテと見舞いに行ったのだが、悔しそうな父親とは対照的に、彼女はあからさまに嬉しそうな様子だった。

「陛下と私の婚約は白紙に戻りました。私はいいのですけど、陛下が大変なことに」

 そう言うエヌイスの頬がつやつやしていて、悩みから解放されたこのご令嬢はこんなに可愛らしかったのかと、シェラーサは驚いたほどだ。結婚式があったことと、そこで起こったことはあの場にいた者しか知らず、厳重な箝口令が敷かれている。国王の婚約者同然だったエヌイスはしばらくは噂になるだろうが、娘を足がかりにのし上がりたい父親がいるのだ、後はうまくやるだろう。


 シェラーサは、エヴィルソンの足に軽くもたれた。

「エヌイスの方が良かった? そんなこと言われたら私、嫉妬してしまいそう」

 言いながらも、神経を集中させる。

 服越しとはいえ、エヴィルソンに直接触れれば、シェラーサには『それ』の存在を感じ取ることができた。その感覚は、聖樹の儀式で根に額をつけたときとよく似ている。


(……四人のお妃たちは、気の毒だったわね)

 シェラーサは浄化の準備をしながらも、頭の片隅で彼女たちに思いを馳せた。

(最初のうちは、陛下の近くにいると何だか嫌な感覚がする、程度だったでしょう。でも、何度も聖樹に近づいて急激にミシスと交流するうちに、呪いを感じ取るようになった。それを操る術のない彼女たちは無防備……そして夫は、内に淀みを抱えたこの人)

 エヴィルソンをそっと見上げる。

 その視線に、「エヌイスの方が良かったか」という質問に対する返答を求められたと思ったのか、彼は一言、

「魔女よりはな」

と答えた。

「意地悪なひと」

 シェラーサは膨れたが、彼はようやく口をつけるようになったグラスを傾けるだけだ。

(お妃たちは、この人と素肌と素肌で触れ合った時、いったいどんな風に感じただろう。自分の身体の中へ、恐ろしいものが入ってくる……。彼は国王、そう簡単に拒めるものではなかったはず。器の小さな人にはとても耐えられなかったでしょう。イダートのお母様はかなり強い方だったんでしょうね、イダートを出産するところまでいったんだもの。でも……壊れてしまった)


「お前には、家族はないのか」

 エヴィルソンが尋ねた。それが魔女の弱みを聞き出すためだとしても、シェラーサは嬉しく思いながら答える。

「今はね。もうずっと前に、死んでしまったわ」

 シェラーサは少しずつゆっくりと、自らの持つミシスをエヴィルソンの中へと溶かし込んでいく。エヴィルソンの方からこちらへは入ってこないよう、細心の注意を払って調整する。取り込まれるわけにはいかないのだ。

「子どもでもいたら、成長を見守れたんでしょうけどね。それ以前に、男性とうまくいかなくて」

 彼と『それ』に気づかれないよう、シェラーサは素知らぬ顔で『治療』を続けながら何気なく言った。


 すると、エヴィルソンがわずかに、笑いを滲ませて言った。

「まさか」

「え?」

「今までの男にもこんな風に迫っていれば、いくらでも望みは叶えられたはずだ。『夫』に隠し事をするつもりか?」


 その言葉は、本当にシェラーサに家族がいないのか探るものだっただろう。家族がいれば、人質に取るなりなんなりして、シェラーサに言うことを聞かせられるからだ。

 しかしエヴィルソンの言葉は、シェラーサの脳内ではこのように飛躍展開された。

『お前ほどの女に迫られて、拒める男がいるわけはない。本当は男がいたんだろう? 嫉妬に狂いそうだ、本当のことを言ってくれ……!』


(いやーっ、たまらないっ! どうしましょ、この可愛いひと!)

 満面の笑みになったシェラーサを見て、エヴィルソンはどうやら、何かまずい質問をしたと気づいたらしい。

「……もういい」

 ぽつりと言って、視線を逸らしてしまった。

「え、なぁに、いいのよ続けましょ。本当に私、恋愛がうまくいったことないし子どももいないわ。安心して、旦那様!」

「もういいと言った」

 エヴィルソンは立ち上がり、シェラーサの手が彼の足から離れた。ミシスのつながりが、すうっ、と消える。

「また、三日後にいらしてね」

 シェラーサが笑顔で見送ると、エヴィルソンはちらりと彼女を見てから、黙って部屋を出ていった。


(好きになった人は、今までにもいたんだけどねー……)

 シェラーサは長椅子にもたれたまま、過去を追う。

(初恋は、乳兄弟だったし。その人は先に結婚して、私はすぐ後に女王になり、夫とすったもんだ。庭師のウェインと森で暮らし始めてから、まるで彼と熟年夫婦みたいな暮らしをしていたけれど、彼の私に対する気持ちは女王に対する忠誠心だった……それがわかったから、私からは何も言わなかった。でも、もっと何か行動を起こしていたら違ったのかもね)

 椅子に置いた自分の腕に頭を載せて目を閉じ、シェラーサはエヴィルソンを想った。

(今もおかしな状況だけど、初めて、好きな人に好きって言えた。自分から寄り添えた。後はただ、彼の役に立ちたい)

「でもって、お礼とか言われちゃったらどうしよう! きゃあ」

 思わず声に出し、絨毯の上を転げるシェラーサだった。  



 その翌日、深夜。

 エヴィルソンは一人、暗い廊下を歩いていた。「国王の夜の散歩」だけは、従僕にはついてこないように厳命している。

 しんと静まり返ったそこは、聖樹に通じる廊下だ。明かりはないが、エヴィルソンにはぼんやりと様子が見えている。彼にはそれが普通だったので、特におかしいと感じることもなかった。


 ふと立ち止まり、足下を見下ろす。

 交換したばかりの、真新しい絨毯。

(あの弟子は、死んで当然だ。私に殴りかかってきたのだから)

 淡々と、エヴィルソンは考える。

(我が王国は、私が守っている。国民の祈りは、ミシスは、私に向けられている。少々の呪いや、呪いに当てられた人間が排除されたところで、どうだというのだ)

 心の片隅で小さくうずく何かが、彼に「それでよいのか?」と語りかけた。しかし、彼がそれを意識する前に、何かに吸い込まれて溶けてしまう。

 後に残るのは、朝に目覚めたときに感じる「夢を見たようだが、どんな夢だったか……」という、少しもどかしいような感覚。が、それもすぐに消える。

(人死にが出ると面倒だ。死んだ者の思念や、死を見た者の畏れが、凝り固まって出てくる)

 エヴィルソンは扉を開くと、聖樹に向かう通路をたどった。きっと今夜あたり、このあたりに……と思ったのだ。


 しかし、聖樹には先客がいた。


 魔女シェラーサだった。目を閉じた彼女の周りに、黒いもやのようなものが渦を巻いている。まるで祈りの言葉のような呪文が途切れることなく続き、それは少しずつ彼女の中に吸収され、やがてミシスに昇華されて天に帰っていく。

(……浄化している)

 エヴィルソンは通路の陰から、その様子をじっと見つめた。シェラーサは、彼が初めて見る引き締まった表情で、額に汗を滲ませていた。


 笑っていない彼女を見るのは初めてだ、と、エヴィルソンは気づく。彼女は彼と会うときはいつも、彼をじっと見つめて笑っていた。

(妃たちに、あんな風に見つめられたことがあっただろうか)

 過去が蘇ってくる。

 一人目の妃は彼を見るたびに、怯えを隠した作り笑いをし、ついには手にしたナイフで突きかかってきた。二人目の妃はいつも、彼の腕の中で身体をこわばらせていた。三人目の妃は彼から逃げるように塔から身を投げ、四人目の妃は彼を見ないように部屋にこもった。

(弱い。呪いに対して弱すぎる。ずっと私のそばにいれば、救ってやったものを)

 そう思った時、またもや心の片隅で、何かがうずいた。そちらに意識を向けようとしたが、結局うまくいかず、エヴィルソンは代わりにシェラーサの方を見つめた。

(この女は、確かに妃たちと違う。そうだ……利用してやれば良いのだ。こうして時々、魔女に浄化させればいい。魔女もそれを望んでいる)

 浄化を終えたのか、シェラーサが目を開いて大きく息をつき、夜空を見上げた。白い喉と首筋に汗で張りついた髪を、指の背で払う。

(この女を、ずっとそばに置けばいい。誰にも文句は言わせない)


 エヴィルソンは通路の陰から踏み出した。


 はっ、とシェラーサが振り向き、彼を見る。

「……陛下! 嬉しい、お会いできるのは明後日と思っていたわ」

 心から嬉しそうに、彼に駆け寄ってくる魔女。

「今、このあたりの淀みを浄化してたの。勝手をしてごめんなさい、でも陛下が楽かと」

 言いかけた彼女の手首をつかむ。シェラーサは言葉を切り、問いかけるように彼の目を見つめた。


「拒むな」

 有無を言わせない調子で、エヴィルソンは低く言った。

「お前が望んだことだ」


「……ええ」

 シェラーサは再び、微笑んだ。

「拒んだりするもんですか。言ったでしょ……あなたが好きだって。私を好きにして構わないって」


 エヴィルソンは口元をゆがめるようにして笑った。そして、シェラーサの腕を引き、顔を近づける。

 シェラーサが目を閉じた。エヴィルソンは目を見開いたまま、彼女の唇に乱暴に食いつくようにして口づけた。

(少しでも怯えた様子など見せてみろ、殺してやる。妃たちと、同じように)

 観察しながら、何度も角度を変える。


 気がつくと、つかんでいない方の彼女の腕が、彼の背中に回っていた。

 顔を離してみる。シェラーサは目を開き、エヴィルソンを見つめて微笑んだ。


 彼はその瞳の中に、嫌悪の色が欠片もないのに気づいた。


 心の奥底で、歓喜の声が上がる。同時に、戒めの叫びも。


「エヴィルソン様……」

 シェラーサの両腕が伸ばされ、もう一度、と求めて彼の頬に触れた。

 エヴィルソンはその身体に両手を伸ばそうとして──


 ──急に身を翻すと、何も言わずに立ち去って行った。 

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