20 魔女の時間を止めた男
「王配が……あなたを殺そうと!?」
リアンテが両手で、自分の口元を押さえた。イダートは絶句したままだ。
シェラーサは小さくうなずいた。
「ひどい話でしょ。信じてたのにね。えっと、それでどうなったかって言うと……水に頭を突っ込まれて、呪文は唱えられなかったけど、ほら、私の魔法について話したことあるでしょ」
シェラーサは両手を広げた。
「不器用だから、いくつもの魔法を同時に使えない。代わりに、固定魔法や契約魔法、魔法の薬を使うって。そのうちの、契約魔法が勝手に発動したの」
条件がそろった時に発動するよう契約した魔法か、と理解しながらリアンテは聞く。
「どんな契約魔法?」
「子どもの頃にかけた魔法で、私もすっかり忘れてたんだけど……危ない遊びばかりする私を心配して、両親が私に自分でかけなさいって言った魔法なの。高いところから落ちたら、鳥が私を助けるように。火事に遭ったら、炎が私を避けるように。水に落ちたら、水が私を避けるように」
シェラーサは苦笑する。
「ぱあっと光が走って、湖の水が私を避けて大きく割れた。私はとっさに夫を振り払って、露出した湖の底を走り、中央部へと逃れた。そこを、王宮の方にいた警備の騎士たちに見られたの」
イダートとリアンテの脳裏に、まるで見てきたかのようにその時の様子が浮かぶ。
湖に面した王宮の尖塔群、そのあちらこちらに配備された騎士たちが、割れた湖を指さして騒ぎだす。あれは何だ、女王だ、女王はあのような魔法まで操るのか。
魔女だ、と。
「ちなみに夫は、岸辺から一生懸命、私の名前を呼んでたわ。まるで自殺しようとしている私を引き留めてるみたいに。でも実際には、私が湖で大変なことをやってるって、周り中に宣伝してるようなものよね」
冗談めかしてシェラーサは言ったが、瞳が潤み始めた。
「もう、誰にも信じてもらえないと思った。強い魔法を隠していた私が、大好きなお父様を殺したと、皆に思われる。……私は呪文を唱え、幻覚の魔法を使った。人々は見たはずよ、割れた水の壁が崩れ、慌てる私が飲み込まれ、もがきながら沈んでいく姿を。──こうして、私は『撤退』したの」
「シェラーサ……なんてひどい」
リアンテが立ち上がり、シェラーサの隣に寄り添う。シェラーサは息を整えるように深呼吸をし、そしてグラスを手に取った。
「おかわり」
「私もいただくわ」
リアンテがすぐに立つ。イダートもやりきれない様子で、自分のグラスを干してリアンテに差し出した。
再び満たされた三つのグラスを前に、シェラーサの話は続く。
「ひとつ、ツイてたことがあったの。私の力を知っていた人物のうちの一人、庭師のウェインがね、その様子を見てたのよ。彼は私が幼い頃は庭師見習いだったけど、私が即位した後に独立して、湖の対岸のお屋敷で雇われて働いてた。彼は私が湖に消える姿を見て、あれはおそらく幻覚だと気づいてくれたの。そして馬を走らせて、岸に這い上がって呆然としている私を見つけてくれた」
「彼の手を借りて、逃げることができたのか」
「そう。そのまま、衝撃のあまり高熱を出してしまった私を、彼は密かにかくまってくれた。……ようやく熱が下がった時には、私の中の時間は止まっていたわ」
シェラーサは、片手を胸に当てた。
「だって、あの時確かに、私の一部は夫に殺されたんだもの」
裏切られ、殺された心が、シェラーサの時間を止めていた。イダートとリアンテは、手を握り締めることしかできない。
シェラーサは続けた。
「ウェインは職場を放棄して私を連れ、あの森の奥深くに入った。身体も癒え、何日も何日もかかって精神的にもようやく落ち着いて、これからどうしよう、夫の罪を糾弾するべきだろうかって考えてた時……町に買い出しに行ったウェインが、噂話を持ち帰ってきたわ。夫が死んだと」
「ど、どうして」
リアンテは動揺のあまり泣きそうだ。シェラーサはリアンテの手をぽんぽんと叩きながら話す。
「彼は私が『死んだ』後、次の王になった幼い従兄弟の後見人になったらしいの。自分に王位継承権がないから、幼子の代わりに実権を握った。そして、その立場を強固にしようとしたのか、聖樹を使って何か儀式をしたらしいのよね。力は弱いながらも魔法を使える者を集め、夫にミシスを集中させるような儀式を。その後、急死したと……。今ならわかるわ、彼が死んだ理由」
「何だ?」
思わずイダートが口を挟むと、シェラーサは口元だけで微笑んだ。
「後で話す。……彼は私と結婚する前から、自分が権力を握るつもりでいたようね。私に子どもを産ませてから殺し、次の王になるその子の後ろ盾として好き放題するつもりだったんでしょう。お生憎様だったわね」
「……もし、シェラーサが子どもを産んでいたら」
イダートは援護のつもりで言った。
「父上や私は、シェラーサの直系だったかもしれないな」
「あはは、そうね! 実際は産まなかったし、従兄弟も子どもに恵まれなくて、王族の違う血統に王位が移ったようだけど。良かったわ、エヴィルソン様とあなたにあの夫の血が残らなくて」
笑ったシェラーサは続けた。
「好きになりかけていた夫だったけど……彼が死んだと聞いて、ほっとしたの。もう、王家のことは忘れて生きようと思った。ウェインもずっと側にいて、私に王宮の外で生きる術を教えてくれた。そして月日は流れ、一人になって何十年も経った頃──リアンテ、幼いあなたが現れた」
シェラーサはまた、リアンテの手を軽く叩く。
「身代わりになったいきさつは、ご存知の通りよ。『冷酷王』が妃を殺したって話を聞いたときは、自分が夫に殺されそうになった時のことを思い出して、さすがにびっくりしたわ」
「ご、ごめんなさい、私」
リアンテが唇をふるわせる。
「ボート遊びに誘ったこともあったわね、水遊びなんて嫌だったわよね……ああ、本当にごめんなさい」
「あっあっ、そんな、リアンテのせいじゃないわ! 悪いのは夫。そして彼は報いを受けた。もういいの」
シェラーサは慌てて、リアンテの肩に手を置く。
ここまで一度も、シェラーサが夫の名前を口にすることはなく、リアンテは彼女の傷の深さを思って涙ぐんだ。シェラーサはそんな彼女を見て、おろおろとしている。
「えっと、ねえリアンテ、他にも聞きたいでしょ?」
リアンテは手布で涙を抑えると、気を取り直して言った。
「あなたが構わないなら、その後のことも聞かせて。……かつての女王として、シェラーサは今の王家を見たのね。色々、気がついたこともあったのでしょう?」
「そうね。……リアンテは、というか、王太子妃はまだ結婚して日が浅いから聞かされていない事実なんだけど、イダートは王族だから知っているわね。聖樹と王族の関係」
シェラーサは話した。
聖樹が失われてから、王宮に向かって流れていたミシスを王族が代わりに受け止めていること。
受け止めているのはミシスだけではなく呪いもであり、王族の中でも大きな器を持った人間がそれを自らの身体で浄化していること。
「でも、久しぶりに王宮を訪れて、あれっ、と思ったわ。王宮の雰囲気がなんとなく変わったなって。特に、聖樹のあたりが妙におかしな雰囲気に包まれてる。夜中に、凝った淀みを陛下が散らしているのも見たし。そしてあの儀式」
「聖樹に近づくと、体調を崩す人がいるっていう、あのこと?」
「そう。あんなこと、私が王宮にいた頃はなかった」
シェラーサは二人の顔を見た。
「つまり、陛下のミシスを持ってしても、呪いが浄化しきれていないの。今この王宮、特に聖樹の下には、呪いが少しずつたまって淀み、腐りつつある」
「何だと……あっ」
イダートが息を呑んだ。
「四人の妃たちと、先日のあの若者は、同じだったのか!」
「そう。学者の弟子は、淀んだ呪いの影響をもろにくらって、錯乱してしまった。たぶん、何度か聖樹に近づいてるうちにそうなったんでしょうね。同じことが、毎月儀式に出ていた四人の妃にも起きたのよ」
シェラーサは四人の身に起きたことを順に説明した。
「つまり、シェライラ女王の夫が急死したのも、自分にミシスを集中させたことで呪いまで集めてしまったから……」
リアンテはつぶやく。イダートは宙に視線を投げ、めまぐるしく考えている様子で言った。
「父上は仕方なく、妃たちに手を下したのか……! それなら、呪いで身体が弱った母上を、父上は王宮から逃がしたことになる。王宮に呼び戻さなかったのもうなずける。しかし、会いに行かなかったのは……?」
「イダート、続きを話してもいい?」
シェラーサはイダートの思考を断ち切るように言った。
「ここまでは、私、陛下にべらべらお話してみたの。陛下は否定なさらなかった。でも、ここから先の話は陛下にはお話していない」
リアンテは不安そうにシェラーサを見つめ、イダートは厳しい顔でうなずいた。
「心して聞く。それは、シェラーサが滅茶苦茶にも見える行動に出たことと、関係があるのだろう?」
「ええ」
シェラーサはうなずくと、言った。
「王族だから大丈夫というわけではないと、私は考えてる。呪いが少しずつ淀んで溜まってきている今、ずっと聖樹の側で暮らしている王族にも、影響は出るでしょう。──そしてその影響が最も出ているのが、最も大きな器を持つ、エヴィルソン陛下だと思う」
「…………それは、もしかして」
薄々わかってきたのか、イダートが言葉を継ぐ。
「父上が非道な行動に出るのは、父上が望んでのことではなく、淀みのせいだと言うのか?」
「たぶんね」
シェラーサはうなずいた。
「聖樹と同じよ。陛下の中に入り込んだ呪いは、浄化しきれなかった分が長い年月の間に少しずつ溜まって、陛下を蝕んできた。普段、それは何もせず眠っている。でも、妃たちやあの弟子が陛下を害しようとしたときのように、何かのきっかけがあると目覚め、陛下の心を呪いで塗りつぶして残虐なことをさせるんだと思う。そしてそのことに、陛下自身も薄々気づいてらっしゃるんじゃないかしら。誰にも言えないでしょうけど」
「自分がそのような状態になっていると、周りに知られたくないからか? しかし、そんな場合ではないだろう。魔法学者にでも誰にでもいいから相談して、自分の中から呪いを消さねば」
言いかけるイダートを、シェラーサは首を振って止めた。
「知られたくないからじゃないわ。……陛下に殴りかかってきた弟子に反応して、『それ』は残虐な反撃をした。自分に攻撃が向くと、『それ』が反撃してしまうとしたら」
「『それ』を消そうとすれば、残虐な反撃をしてしまう……?」
「そしてさらに、呪いは力を増す。だから、助けを請うことができないのよ。『それ』に気づかないふりをしたまま、一人で何とかしようとしてる。……辛いわね」
居間に、沈黙が落ちた。
が、それも一瞬だった。
シェラーサはすたっと立ち上がり、胸に手を当てた。
「そこに、偉大なる魔女が華々しく登場、というわけよ!」
「は?」
イダートが目を見開き、リアンテはハッとした。
「あっ、もしかして、シェラーサが魔女の正体を晒したことと関係があるの!?」
「ふふーん。そうよ」
シェラーサは腰に手を当て、顎をそらす。
「陛下から見ると、私ってこんな感じのはずよね。若いご令嬢との結婚式に突然乱入してきて、『あなたに必要なのは私みたいな女よ!』って言って本人の意思に関係なく略奪婚、『言うこと聞かないと呪うわよ!』とか脅して部屋で二人きり、なんかベタベタしてくる女」
「どこからどう見ても、何か勘違いした犯罪者だな」
「何だか陛下がお気の毒になってきたわ」
遠慮のない意見を申し述べるイダートとリアンテ。
シェラーサはうんうんとうなずいてから、微笑んだ。
「でも、陛下はある日ふと気がつくの。私に会うたびに、何となく楽になっていく、って。そういえばあの女は魔女、ミシスの専門家なのだ、って」
「あっ」
イダートの表情が明るくなった。
「シェラーサは『治療』のようなことをしているのか!?」
「ご名答。こっそりと、『それ』にバレないように、ミシスの流れを整えて少しずつ呪いを薄めようとしてるだけだけどね。陛下がそのことに薄々でも気づいてくだされば、私は陛下の味方になれる。一人で戦っている陛下の、心の支えになれる。だから陛下には、私が魔女だと知ってほしかった。まあ、あとは、魔女だってことを隠すと後からバレたときにまた揉めるのが嫌っていうのもあるけどね」
にっこり笑うシェラーサの手を、リアンテはうれしそうに握って振った。
「すごい、すばらしいわ! さすがはシェラーサ!」
「ほほほ! もっと誉めていいのよ!」
シェラーサは手の甲で口元を隠しながら笑ったが、すぐに表情を引き締めた。
「うまく行くかはわからない。でも、少しずつ淀んだものを薄めていって、『それ』の力を削いだ後なら、『それ』を消し去ることもできるかもしれない。そうすれば、陛下がいきなり人を殺したりすることもなくなって……」
「身代わりも、必要なくなるかもしれない。……そんな日が来たら、どんなにか」
リアンテがイダートを見る。イダートもうなずき返した。
「そうだな。しかし結局、シェラーサにばかり大変な思いをさせる。そうだ、シェラーサの器も大きいのだろう? シェラーサにもその、呪いが行ってしまうのではないか?」
シェラーサは機嫌良く腕を組んだ。
「私は普通の人みたいに、器を開けっ放しにはしてないの。器を操り、ミシスを操れるのが魔女なんだから。私のことは気にしないで、全てが解決したらちゃんと初夜のやり直しをしなさいよ」
「シ、シェラーサ!」
リアンテは真っ赤になった。
シェラーサはにっこりと言った。
「明日はまた、陛下とお会いする日だけど、もう心配じゃないわね?」
「心配は心配よ、あなたが明日も『それ』と対峙するんですもの。でも……シェラーサは陛下とお会いできて嬉しそうだから、私も嬉しい」
微笑むリアンテに、シェラーサは両手で頬を押さえた。
「そりゃもう! こっそりと浄化しつつも、『それ』にも陛下にも気取られないよう、ただひたすら陛下に恋する女でいられるのよ。嬉しくないわけないじゃない!」




