18 掘り起こされた過去
シェラーサとエヴィルソンが初めて西の塔で会った夜から、三日後。
エヴィルソンが再び塔を訪れると、今度は猫ではなく、シェラーサがドレスをつまんで出迎えた。
護衛の騎士が剣を構え、前に出る。
「魔女め、前回はふざけた真似を」
シェラーサはそれを見て、ムッと眉を逆立てた。
「扉を閉めたことを言ってるの? 夫婦の時間を邪魔されたくないのは当然でしょ」
そして、仕方なさそうにため息をつく。
「まあ、護衛だものね。気持ちはわかるけど。……はい」
またもや扉が、騎士の鼻先でバン! と閉まる。しかし、今度はいつの間にか扉にすりガラスのようなものがはめ込まれ、その向こうで騎士のものらしき姿がぼんやりと動くのが見えた。
「また……か! ……けろ!」
声もかすかだ。
「夫婦の部屋をのぞくのも聞くのも、ちょっとだけよ。これ以上はダメ」
シェラーサはそういうと、すぐに笑顔になってエヴィルソンの手を取り、引いた。
「さあ、こちらへ!」
部屋の隅の台には、酒器と軽食が置いてあった。シェラーサはそこでいそいそと準備をし、トレイに載せてくる。
「今日はちょっと、お酒も用意してみたの!」
長椅子に置かれたトレイの上、グラスに満たされた紫色の液体を眺め、エヴィルソンは無表情で答えた。
「魔女の用意したものなど、飲むわけがない」
「あら、殺したり眠らせたりいやらしいことするつもりなら魔法でできるのに、わざわざ薬なんか盛らないわよ」
シェラーサはばっさりと言ったが、長椅子の足下に座ると、
「心配なら、グラスを交換しましょうか」
とエヴィルソンの側に置いてあったグラスを手に取った。半分ほどを一気に飲む。
「ほらね。……まあ、お飲みにならなくてもいいのよもちろん、とにかくお座りになって」
エヴィルソンはゆっくりと長椅子に近づき、腰を下ろす。
「お前はこの部屋で、私を相手にままごとのようなことをしていれば満足なのか」
「あら、おわかりじゃないのね。好きな人を相手におままごとできるのがどれだけ贅沢なことか」
シェラーサはにっこりと微笑む。
「しかもとっても優しい旦那様」
「どこからそのような考えが出てくるのだ」
「だって、お妃様が陛下を傷つけようとしたことを、隠してらしたじゃない」
シェラーサは言う。
「最初のお妃様のことよ。国王を害しようとした、なんてバレたら、お妃様の親族にまで類が及ぶ。でも本当はお妃様のせいじゃないから、陛下の方が不義密通を疑って斬ったということになさった。そして結局、不義密通の証拠も出てこないとなれば、親族には何もお咎めなし、陛下だけが悪役」
「…………」
エヴィルソンは自嘲するように笑った。
(ん? 違ったかしら?)
シェラーサは彼を見つめたが、エヴィルソンは特に否定することなく黙っている。
そこで、シェラーサは話を変えつつ、少し腰をずらしてエヴィルソンのガウンの裾に触れながら言った。
「ミシスの器が大きい旦那様、ってところも素敵。王族の中で一番かしら? 陛下の前は、どなたが一番たくさん、ミシスを引き受けて来られたの?」
「……先代女王、ファミア。私の母だ。当時は母の器が一番大きかったようだ」
「でも、エヴィルソン陛下ほどではなかった……もしかして、それで無理をなさったような風に?」
エヴィルソンはまた黙ったが、シェラーサは納得する。
王族は濃いミシスや少々の呪いには慣れているが、最も器の大きい者だけは長年それらを引き受けて、弱ってしまうのだろう。ファミア女王はエヴィルソンに位を譲って引退し、ミシス渦巻く王宮から離れた。その前の国王もやはり身体が弱かったと言うが、原因は同じかもしれない。
「王太子殿下は、どうなのかしら」
シェラーサが聞き、エヴィルソンは「さあな」と答えたが、シェラーサには実はもうわかっている。シェラーサの感覚では、イダートの体内にはごく普通の量のミシスが満たされていた。リアンテの方がやや器が大きいように感じるくらいだ。
エヴィルソンが在位の間はいいが、何年も経ち、彼が弱ったときにはどうなるのか。その頃の王族はどうなっているのか……と、シェラーサの胸の内に不安が宿る。特に、イダートはどうなってしまうのだろう。
「夫婦だと言うなら、お前の話もしたらどうだ。魔女よ」
シェラーサにとっては不安を慰めるような響きの、エヴィルソンの美声。一瞬聞き惚れて意味が頭に入ってこなかったが、すぐにシェラーサは目を瞬かせ、頬を染めた。
「私に興味を持ってくださるの!? 嬉しい……」
冷たい視線が降ってきたが、シェラーサはものともしない。
(たぶん大臣たちとの話し合いで、魔女の弱みをつかめ、って話になったんでしょうね。私ならそうするもの。あー、でもどうだっていい、陛下とお話ししながら長い時間一緒にいられれば!)
シェラーサはそんなことを思いながら、軽くエヴィルソンの膝に触れる。
「何をお聞きになりたい? 私、この王宮に入り込んで陛下とお会いするまでは、一人で森に住んでいたの。一応、それなりの身分のある家に生まれたんだけど、まあこの力のこともあって色々起こって、一人暮らしすることになって。でもお嬢様育ちだったから、最初は色々と大変で──」
「イダート様」
王太子夫妻の居間に戻ってきた王太子イダートに、妃のリアンテは調査の経過を報告した。
「魔法学の師って、ここ百年はずっと男性だったんですね。シェラーサの言っていた女性の師は、百十年ほど前の方が最後でした。それより前は何人もいらしたみたいですけど、これで少し絞れました」
「そうか。悪いな、なかなか手伝ってやれない」
「いいえ。明日からは、貴族年鑑の方を調べてみます。でも、シェラーサというのが本名かどうかもわかりませんし、ちょっと難しいかもしれませんね」
「そのころ王宮に出入りしていたということと、それ以降森で暮らすようになったということは、世間的には貴族の令嬢が行方不明になったということになるか──しかし本人がそう言っただけで、証拠はない」
「あの……」
リアンテは少し言いにくそうにしながら言った。
「令嬢、ではなくて、夫人、かも」
「何?」
目を見開くイダートに、リアンテはシェラーサが結婚式の花嫁の作法を事前に知っていた節があることを話す。
「既婚者かもしれないと? ……年齢的には確かに普通だな」
イダートは顎を撫で、しばらく考えていたが、顔を上げた。
「まあ、ここで考え込んでいても仕方ない。貴族で既婚者なら、すでに社交デビュー済みということになるから、王宮の催しに出席していたかもしれないな。催しの責任者が残しているはずの記録を、私なら書庫で見られるが、なにぶん古い……とにかく見てみよう。もし残っていれば、シェラーサのことだ、何かやらかして目立った記述もあるかもしれない」
リアンテは思わず笑ってしまいながらうなずいた。
「はい。ではそちらをお願いします。百十年前から始めて、遡っていきましょう」
数日おきに、西の塔の密会は行われた。
大臣たちは気を揉みつつも、静観の構えに入っていた。騎士たちと魔法学者が部屋の外で見張りについていたのだが、彼らの報告により、魔女は国王にぴったり寄り添ってただ話をしているだけらしいこと、国王に対して剣呑な魔法を使っている形跡はないことなどがわかっていたからだ。
国王が何か魔女の弱みを握ったら、その時が、魔女に制裁を加える時――彼らはそう思いながら、待ちかまえていた。
一方、イダートとリアンテの調査は遅々として進まなかった。本人たちが忙しいのと、何しろ百年以上前の話なので資料が少なく手がかりも少ないのが原因である。
しかし、シェラーサの過去を覆っていたベールが取り払われる瞬間は、突然訪れた。
王宮の最奥にある小図書館は、王族のみが入ることができる。イダートは二日に一度ほど、時間を作ってはここを訪れ、王族主催の催しの記録を読んでいた。ようやく百十年前から百二十年前の分が終わろうとしているところだ。
(シェラーサのことだから、何か魔法のことで大きな失敗をした結果、親に勘当された……というのが妥当なところだろうと思ったが、王宮内での失敗でないなら、ここにある記録ではわからんな)
たいがい失礼なことを考えつつ、イダートは埃っぽい空間で頁をめくる。
(それとも、爵位を剥奪されて一家離散、くらいのとんでもないことをしでかしたのだろうか。それなら、リアンテが調べている年鑑に記録があるかもしれない……)
記録の綴りを閉じ、次の綴りを棚から出す。
その時イダートは、綴りの隣に、布に包まれた薄いものが挟まっているのに気づいた。手に取ってみた感触では、中のものは縁だけが固く、どうやら冊子と同じ大きさの額縁のようだ。
絵だろうかと思いながらひっくり返すと、布包みの隅に絵の具で「女王の肖像」という走り書きと、宮廷画師の署名、日付がある。
(この年の女王というと……)
イダートは王族の歴史を思い出す。
(たった四年の在位だった女王だ。父王が早くに落馬で命を落としたため、若くして即位。しかし、その落馬の原因を作り死に追いやったのではないかと糾弾された。女王自身は否定していたが、その件が解決しないうちに湖で死に、罪を悔いての自殺だと……)
ふと、気になった。
さんざん、シェラーサやリアンテと「死んだふりして撤退」の話をしてきたからだろうか、自然死以外の死に方に引っかかりを覚えたのかもしれない。
イダートは丁寧に、布を取り払った。