17 国王という名の『聖樹』、その秘密
「人々の祈りからミシスを集めて育つ、聖なる大樹。ミシスは水のように世界を循環し、聖樹の根から葉へと流れて、やがて天へと帰る」
シェラーサは神話の一節を唱えるように言いながら、立ち上がる。
「けど、神々は祈られるだけの存在じゃない」
その言葉に、エヴィルソンが目を細めた。
シェラーサは続けた。
「不幸な目に遭った者の中には、神々を呪う者もいるでしょう。そんな呪いも、聖樹は集めていた」
エヴィルソンの表情が、険しくなった。
「なぜ、それを知っている。聖樹と生きてきた者しか知らないことだ」
「私はミシスを操る魔女。しばらく観察してたらわかったわ」
シェラーサは、まるで褒められたかのように嬉しげに、頬を染める。
「ミシスとともに呪いも集まって、聖樹がそれを浄化してくれる。だから王国は美しく保たれていた。まるで、全てを飲み込んで凪いでいる海のようね。──でも、聖樹は燃えてしまった。ミシスは、循環しなくなったの」
シェラーサはグラスを一つ、手に取った。軽く回すと、グラスの中で液体が渦を巻く。
「流れずにたまった水はどうなるか。少しなら、いつしか消えてなくなる。でも、量が増え、時間が経てば──淀み、腐る」
エヴィルソンが口を開いた。
「しかし、聖樹に代わるものが、集まった呪いが淀むのを防いで来た。……王族だ」
シェラーサはうなずく。
「ええ。聖樹を失った人々の心のより所である王族は、ただの象徴じゃなかった。本当に、聖樹の代わりにミシスを集め、呪いを浄化していたのね」
「そうだ」
もはやあきらめたかのように、エヴィルソンは続ける。
「ミシスには、聖樹の方へ、聖樹の方へという大きな流れがあった。聖樹が燃え、行き場を失った流れは、代わりになるものを求めた。それが、王族……この王宮、そして古からの血を伝える王族に、ミシスは流れ込んでいる。王族は、ミシスに触れることに慣れていた。そして私のように大きな器を持つ者が特に、その身で呪いを浄化してきた」
それで、聖樹の近くや夜中の渡り廊下に現れたのか、と、シェラーサは心の中でうなずく。王宮の中の淀みを見つけては、自分の身に引き受けていたのだ。
彼女はエヴィルソンの言葉を引き継いで続けた。
「けれど、数百年が経ち、そういう大きな器を持つ人も少なくなって、浄化が追いつかなくなってる。その結果、お妃様たちは大量のミシス、そして集まった呪いの影響を受けてしまった。王族出身ではないのに、毎月儀式の際に聖樹の燃え残りに近づいてしまったのが原因かしら? そして、昨日の魔法学者の弟子。彼は具合が悪くなったのみならず、陛下を見るなりランプを振り上げた」
シェラーサはトレイをずらし、そっとエヴィルソンの隣に腰を下ろした。
「四人の妃たちも、そうだったのではない? 何度か聖樹に近づくうちに、あの魔法学者の弟子のように錯乱してしまったんでしょう。例えば一人目のお妃様は、夫として一番近くにいたあなたを傷つけようとして、陛下は返り討ちにした。違う? あなたはただ、自分の身を守っただけ」
「私の身は、傷つけられるわけにはいかないのだ」
エヴィルソンは立ち上がり、窓に近づいた。シェラーサもゆっくりと後を追う。
窓から見える湖面には星灯りが映り、きらめいていた。エヴィルソンはその景色を見つめながら言った。
「現在、王族で最も大きな器を持つのは私だ。ミシスは私を中心に集まる。ダナンディルス王国を呪いから守るのは、私という『聖樹』だ」
彼の顔には、うっすらと危うい笑みが浮かんでいる。
「……けれど、あなたが一人で抱え込むの? 辛そうだわ」
シェラーサはその横顔に語りかけた。
「一人目のお妃様を斬ってしまい、二人目のお妃様を病で失い、三人目は……塔から落ちたんだったわね、塔の上で錯乱が起こったのかしら。そして四人目は斬らずに済んだけど、精神を病んだ彼女をここから遠ざけるために湖の塔に幽閉して離縁して──それでもエヌイスと結婚しようとしたのは、今度は大丈夫かも、無事で側にいてくれるかもと思ったからじゃないの?」
「初めて間違えたな、魔女よ」
エヴィルソンはシェラーサを見て、口の端をゆがめた。
「大臣たちは、権力争いの結果として、何度でも娘を私にあてがってきた。私は神聖なる王族として、呪いの影響のことを明かすわけにいかず、立場的に結婚を拒めず」
そこで彼が視線を逸らし、口をつぐんだ。シェラーサは問いかけるように見つめたが、彼はそのまま沈黙する。
室内にはただ、暖炉で炎のはぜる音と、壁に映る炎の揺らめきだけが満ちた。
「私は大丈夫」
シェラーサが囁いた。エヴィルソンがゆっくりと、彼女を見る。
「知ってるでしょ、聖樹の燃え跡に近づいたけど何ともなかったって。魔女だもの。私があなたの側にいてあげる」
静かに、シェラーサは頭をエヴィルソンの上腕部あたりにもたせかけた。
「私を利用すればいい。私と結婚の誓いを立てたんだから、わざわざ他の令嬢と政略結婚する必要は、もうない。強引に結婚したんだから、本当の妻みたいに扱って、なんて言えないけど、お望みならあなたの好きにして。あ、私は猫だから、ずっと猫の姿でいてあげてもいいわ。あなたが猫がお好きで、癒されるなら。どんな形でもいいのよ」
そして彼女は、彼の胸元にそっと言葉を落とすように言った。
「あなたが好きなの」
エヴィルソンは黙って窓の外を見つめていたが、ゆっくりとシェラーサの腕をふりほどいた。
「では本当に、お前の望みは私だけだと言うのか」
「ええ。あなたも私を、どんな形でも望んでくださって、持ちつ持たれつの関係になれれば一番嬉しいんだけど」
シェラーサは首を傾げ、ゆっくりと離れる彼の顔を見上げた。
「もう行ってしまうの? また来て下さるわよね? そう……次は、三日後の夜にお会いしません?」
「三日後に来なければ、お前は王家を呪うのだろう?」
エヴィルソンは自嘲気味に笑う。シェラーサはただ黙って、微笑み返した。
エヴィルソンは身を翻し、扉に向かって歩いた。ふっ、と扉の隙間から冷風が吹き込んだ、と思った瞬間、一気に扉の外が騒がしくなる。
「陛下、扉を破壊します! よろしいですね!!」
騎士の声に、エヴィルソンは答えた。
「待て。今、出る」
「陛下!?」
エヴィルソンは取っ手に手をかけた。扉はすんなりと開いた。
「陛下! ご無事で!」
扉の外には、何人もの騎士たちが集まっていた。扉が開かなくなり、おそらく音も聞こえなくなったためか、すでに破壊用の槌が用意されている。
「踏み込め!」
エヴィルソンの両脇をすり抜け、数人の騎士たちが部屋になだれ込んだ。エヴィルソンは彼らの動きを目で追い、ゆっくりと振り向いた。
部屋の中には、もう誰もおらず、騎士たちが剣を構えたまま室内を見回しているだけだった。
額を優しくなでる感触に、リアンテは目を覚ました。
カーテンの向こうはほんのわずかに明るくなっており、寝室の陰の濃淡がぼんやりと見える。そのどことなく重量感のない背景の中、シェラーサがふんわりとベッドに腰かけ、見下ろしていた。
「……シェラーサ……」
リアンテが起きあがると、シェラーサは謝った。
「昨日はごめんなさい、身代わりできなくて。さ、今日はちゃんとやるから、髪と目の色を交換しましょう」
魔女は呪文を唱える。首から上が、ほんのりと温かくなった。リアンテは自分の髪を手にとって、亜麻色になっていることを確認しながら言った。
「昨夜は戻って来なかったわね……陛下とは、少しでもお話できたの?」
「ええ、ありがとう。イダート、いないのね」
「あなたと会った後の陛下と、それに大臣たちと、夜じゅう何か話し合っていたみたい。……これから、どうするの?」
「またお会いする約束をしたわ。『侍女シェラーサ』の休日や休憩時間を使って、何日か置きにお会いしたいと思ってる。でもそれだけよ、身代わりに影響なし」
金の髪、紫の瞳になったシェラーサは微笑み、ゆらりと寝間着姿のリアンテに変身する。
リアンテも微笑み、
「あなたを信じてるから、大丈夫よ」
とベッドから降りた。そして、シェラーサの手も借りながら侍女のドレスに着替え、
「今日は、騎士の奥方様たちとのお茶会でしょ。……あまり無理しないでね」
と言って寝室から出ていった。
シェラーサはリアンテを見送ってから、ごろりとベッドに横になった。
そして、目を閉じると、つぶやいた。
「ここまでは、疑われずに済んだかな……」
翌日の午後。
リアンテは休憩時間に、主宮殿の図書室に向かった。良家の子女でもある侍女たちは、一部の図書室への自由な立ち入りを許されている。
(確か……シェラーサは、森で暮らして百年以上経つと言っていた。それに、百年ちょっと前に、シェラーサの中の時間が止まった、って。見た目は、そうね、二十歳前後だから……)
静かな図書室で、リアンテは棚の表示を確認しながら奥へと進んだ。
(幅をとって、百年前から百三十年前くらいを中心に……)
ダナンディルスでは五年に一度、爵位や血縁関係、略歴を貴族年鑑という本にまとめたものが作成されていた。古い年鑑の並んだ列を見つけ、年代を目で追う。
一冊手に取り、開いてみた。この図書館にあるのは原本ではなく写本で、五年の間に訂正された箇所には書き込みがある。
リアンテは少し考えてから、それをいったん棚に戻すと移動した。今度は、魔法学研究所の職員一覧を探しだし、引っ張り出す。
(王族や貴族に教えるほどの知識を持った『師』は、とても少ない。シェラーサが王宮にいた頃、『女史』がいたと言っていたわね。女性の『師』が存在しなかった時期にはシェラーサはいなかったんだから、その時期の年鑑は省けるわ。休憩時間は短いし、何日かかるかわからないのだから、まずは絞り込まないと)
リアンテは近くのテーブルに移動すると、熱心に頁をめくり始めた。