11 翻弄される侍女たち
全ては順調に進んだ。シェラーサは特にボロを出すこともなく、堂々と王太子の婚約者の身代わりを続けていた。
二人が同じ部屋で眠るのは、正式に結婚してからということになっていたので、シェラーサも、そして何よりイダートも気を遣わずに済む(シェラーサは気にしていないかもしれない)。しかし、さすがのシェラーサにも息抜きが必要で、たまに猫に姿を変えて散歩に出ていた。
彼女がよくぶらついているのは、主宮殿の奥、エヴィルソンの執務室にほど近い庭園である。何人かに目撃もされているが、シェラーサが自分の趣味で首に青いリボンを巻いているので、誰かの飼い猫が散歩に来ていると思われているようだ。
庭園の隣には鍛錬場もあり、エヴィルソンが剣術の訓練をしている様子も見ることができた。護衛の騎士が相手をつとめることが多く、かなり実践的な訓練だ。国王はかなりの腕と見え、シェラーサは戦争の際に彼が雄々しく先頭に立って戦う場面を脳内で展開して、うっとりする。
また、執務室には魔法学者のミラグ師もよく訪れた。
(いつも元気よね、あのおじいちゃん……あっ、おじいちゃんなんて言っちゃった)
自分の方がよほど年上であるシェラーサは、少し離れた木の上から窓越しに執務室をのぞいていた。何を話しているのか、魔法を使えば聞けるだろうが、さすがに魔法学者のそばで魔法を使おうとは思わない。
エヴィルソンと痩身の老人が話をしているのを見ながら、彼女は考えを巡らせる。
(女史はそれなりに魔法が使えたけど、ミラグ先生は大した魔法は使えないのよね)
彼がシェラーサに授業をしたときは、明かりの代わりになる光球を作って見せてくれたが、あとは簡単な治癒魔法や、五感を多少鋭くできる程度の魔法しか使えないということだった。そして、こう言った。
「ミシスの実があれば、また違ったのでしょうな」
シェラーサはミシスを薬にして保存することができるが、かつて聖樹はそれと同様に、ミシスを実の形で実らせることがあった。実は保管がきき、魔法使いがそれを用いれば、魔法使い本人が普段行う魔法よりも大きな術を行うこともできたのだが、そんな実も全て聖樹と共に失われた、と伝えられる。
(でも……)
シェラーサは、あたりに神経を張り巡らせた。
(何となくだけど、この王宮、大きなミシスを感じるのよね。もしかして、だぁれも知らないどこか奥深くに、ミシスの実が残って……ううん、そういう感じでもない、か。……それと、もう一つ)
彼女は猫の姿のまま、眉間に皺を寄せる。
(やっぱり、何人か死んでるせいか、あまり……良くないものも王宮の中にあるみたいね)
それが何なのか、言葉で表現するのは難しかった。理不尽に殺された者の残留思念なのか、殺す人物に恐怖する人々の心なのか、それとも──
魔女だからこそ感じるその感覚を、シェラーサはリアンテにもうまく説明することができなかった。
一方、侍女をつとめるリアンテにも、少々気になることがあった。
すでに王太子妃として遇されているシェラーサには、他にも侍女がいる。王宮に入ったばかりで、慣れない王太子妃が不安がっているという理由で、現在は妃が連れてきた侍女(シェラーサと名乗っているリアンテ)がつきっきり……という体裁だ。
しかし、いつまでもそのままでは他の侍女たちの反感を買い、リアンテは孤立してしまうだろう。リアンテが侍女としてうまくやっていくことができないと、シェラーサが身代わりをすることにも支障をきたす恐れがある。
「なるほどね」
リアンテの話を聞き、シェラーサは顎に指先を当てた。
「じゃあ、他の侍女たちに愚痴でも言ってみる? 王太子妃殿下はこんなところが困る、しんどい、助けて! とか言ってすがる。で、身代わりに影響のない仕事をいくつか、あなたから頼みこむの。頼られて悪い気がする人はいないんじゃない?」
「実は、もう仕事は頼んでるの」
リアンテは少々済まなそうな笑顔を見せる。
「愚痴までは言っていないけれど、いざとなったらそうさせてもらうわ」
「その時は言ってちょうだい、『王太子妃の困った行動』を実際にやってみせるから。ふふ、何をやらかそうかしら」
「実際にやらかすの?」
リアンテは思わず笑って言った。
「王宮の侍女は優秀よ、多少のことでは動じないわ」
「確かに優秀ね。でも、王太子妃の一番のお気に入りは侍女『シェラーサ』、この座は、反感を持たれることなく守らなくちゃならない、と」
シェラーサはまた少し考えると、口の端を軽く上げた。
「いいこと考えたー」
「……何?」
心配そうにリアンテが聞くと、シェラーサは人差し指をたてた。
「他の侍女たちが嫌がってできないことを、あなたができればいいのよ」
それから数日が経った、ある夜。
リアンテと、レイシアという侍女が休憩室で翌日の打ち合わせをしているところへ、もう一人のニェーテという侍女が息を切らせて飛び込んできた。
「ああ、もう嫌っ」
「ニェーテ?」
「どうしたの?」
リアンテとレイシアが彼女に駆け寄ると、黒髪のニェーテは涙ぐんでレイシアの方を向いた。
「あなたの言ったこと本当だったわ。私も見たの、怖い……!」
「何?」
リアンテもレイシアを見る。白金の髪のレイシアは眉を寄せて言った。
「シェラーサ、見たことないの? 最近、リアンテ様、夜遅くまで本をお読みになることがあるでしょ。それで、このくらいの時間にたまに呼ばれて、ランプにオイルを足しに行くと、その帰りに……」
ニェーテが待ちきれないように口を挟む。
「リアンテ様のお部屋からここまで戻るとき、円形の小ホールが見えるでしょ、廊下の窓越しに。あそこで、彫像の影が動くの……!」
「私は変な音も聞いたわ。足音みたいな……でも、誰もいないの」
自分の体を抱きしめるようにするレイシア。
ははあ、と、リアンテは内心でうなずく。
シェラーサの仕業だ。魔法で幻を見せて他の侍女を脅かし、そしてリアンテだけは何も見ず恐れない。結果、夜に王太子妃の世話をするのはリアンテが中心になり、他の侍女が世話をするとしても仕事を済ませたら急いで帰ってしまうだろう。
正式に結婚したら、王太子夫妻は夜も一緒に過ごすことになる。そんなとき、シェラーサはイダートとリアンテを二人きりにしてどこかへ行ってしまうつもりらしいので、夜に秘密がバレないよう布石を打ったのだ。
「私は見たことはないけど……ちょっと怖いわね」
リアンテは眉をひそめて見せた。
「王宮って、昔は聖樹さえあったんだもの、やっぱり不思議な場所なんだわ。そんな場所で働く経験の長いあなたたちは、きっと不思議なものを見る目を持っているのよ。私はそういうの鈍くて」
さりげなくレイシアとニェーテを持ち上げて自分を落とし、続ける。
「じゃあ、明日の夜は私が行ってみるわ」
翌日の昼間、リアンテはシェラーサに少々釘を刺した。
「シェラーサ、あまりやりすぎたらダメよ。おかしなものが『出る』なんて王宮中の噂になりでもしたら、あなたの部屋を変えるべきだって話になりかねないわ」
「わかってる」
シェラーサは楽しそうに片目をつむる。
「あくまでも、他の侍女たちは『たまに見ちゃう』くらいにとどめるわ。気のせいかも、でも……くらいの、微妙な見え加減ね。何日かしたらもう一度幻を見せて、それでしばらく打ち止め」
「そのくらいがいいでしょうね」
リアンテは苦笑する。
「私は何も見えない、鈍い侍女を演じることにするわ。……でも実際、王宮って他の場所とは『違う』のでしょうね。だって、この丘に聖樹があるから、王宮もここに建設したわけでしょう? ずっと昔」
「そうみたいね。神々に選ばれた場所だったんでしょうね、ここは」
シェラーサはうなずき、さばさばと続ける。
「でも、聖樹は燃えてしまった。燃え跡、国民から隠しっぱなしにしないで、自由に祈りに来れるようにすればいいのにね。神聖なる王家が戦争で勝てなかった、って印象を残したくないのはわかるけど」
「例えば、いつか……新たな聖樹が出ずる、なんてことはあるのかしら」
「さあ……。ここが特別な場所なら、そういうこともあるかも」
そして、彼女は視線を宙に遊ばせた。
「そうなった時に立ち会えるなら、このままずっと生きていくのもいいわね」
リアンテは一瞬、言葉に詰まってしまった。
このまま全てがうまく行ったとして、いつか自分が老いた時に、彼女を置いて先に逝く……
そのことが、とてつもなく寂しく感じられた。
数日後の夜。
シェラーサはリアンテに言った通り、仕上げの幻覚を他の侍女に見せることにした。
寝室のベッドで本を読んでいるシェラーサの横で、レイシアとニェーテがランプにオイルを足したり、長椅子の位置を調整したりする。
(怖いから二人で来たのね)
シェラーサは本に目を落としたまま、この後の行動を決めた。
(また小ホールでやると、あの場所が問題なんだってことになっちゃうかもしれないわね……ちょっと場所をずらそうかしら)
「それでは失礼いたします」
「おやすみなさいませ」
レイシアとニェーテが挨拶し、寝室を出ていった。
シェラーサはベッドから下り、すぐに行動を開始した。猫に変身すると、寝室の窓からするりと庭に出る。
密やかに庭を突っ切り、侍女たちの先回りをする。庭の見える渡り廊下に着くと、シェラーサはいったん変身を解き、茂みに身を潜めて新たな呪文を唱えた。
『ニュイスの不安、心の闇、全ては存在を増す』
侍女たちが不安に思っていることが、あたかも本当に起こったかのように目の前に現れる呪文だ。
「ひっ」
かくして、ニェーテの悲鳴が聞こえた。
「今、動いた! 庭の蔦が動いたわ!」
「そんな、まさか」
冷静を保とうとするレイシアの声が、すぐにうわずる。
「いやっ、あそこ、廊下の絵が笑ってる……!」
もう十分だろう、とシェラーサは魔法を解いた。レイシアとニェーテは、声も出せない様子で走って控え室の方へ消えていった。
(怖がらせてごめんなさいね、今日で終わりだから)
彼女は再び猫に姿を変え、寝室に戻ろうと踵を返した。
その時。
ぞわっ、と背中の毛が逆立った。
シェラーサは瞬時に警戒し、振り返る。何の代わり映えもしないように見える夜の風景、ランプにほのかに照らされた外廊下、闇に沈んだ庭園。
しかし、そこに、蠢くものがあった。
(何で……私まで幻覚を? いえ、違う)
シェラーサは尻尾も逆立てる。
(何か、いる)