1 王太子夫妻と怪しい侍女
遊森の他作品と世界観が同じですが、登場人物や時代などは被りません。全く別のお話としてお楽しみ下さい。
フラスグロフ山脈から流れ落ちる幾筋もの清流は、やがて一つになり大河となって、大陸中央部から南西へ向かって流れていた。途中、緩やかな丘の続くあたりで弓なりの湖を形作り、また溢れて下流へ、海へと向かう。
その湖の内側のほとり、もっとも大きな丘に、ダナンディルス王国の王宮がある。丘の頂上にそびえる灰色の尖塔群が主宮殿で、それを取り巻くように丘のあちらこちらにいくつもの小宮殿のある作りの王宮は、『王丘』とも呼ばれていた。
今日、ダナンディルスはその王丘と麓の町を中心に、慶事に沸いていた。当代の国王エヴィルソン・ダーナディーの一子、王太子イダートの結婚式が行われたのだ。
王太子妃となったのは、ナージュ連爵令嬢リアンテ。ダナンディルスでは、王丘に住むことを特に許された高位の貴族に、『連爵』の位が与えられる。その令嬢が王太子妃、しかも政略ではなく運命の恋に落ちた上での結婚だという話が広まり、誰もがこの上ない結びつきだと喜んだ。
「ダナンディルス王国も安泰だ」
町の人々は口々に噂する。
「先代の女王陛下、そのまた先代の国王陛下はお身体があまり丈夫でおありではなかったが、エヴィルソン陛下は即位なさってから早二十年。ご健勝で国を治めていらっしゃる」
「しかし、陛下はその……お身内に厳しすぎはしないか」
「シッ。それも国のためではないか。我々国民にとってはこの上ない、神聖なる君主だ」
国王についた傷は、すぐにきらびやかな未来の話で覆い隠される。
「イダート殿下のご結婚で、エヴィルソン陛下の治世はますます栄えるだろう!」
結婚式は、王丘の中腹にある大聖堂で行われた。晴れて「王太子夫妻」となったイダートとリアンテ、そして国王エヴィルソンは、馬車に乗り込んで王丘の麓に向かい、王丘広場に面した小宮殿に入った。
横に広い小宮殿の二階には広いバルコニーがあり、そこに王太子夫妻が姿を現す。やや女性的な顔立ちのすらりとした王太子と、金の髪に紫の瞳の美しく初々しい王太子妃。太陽神ソレスが祝福するような陽射しを投げかける中、若い二人が手を振ると、広場に集まった国民たちは花をまき旗を振って歓声を上げた。
ややして、バルコニーの奥、庇の陰から、人影が姿を現した。国民の声がもう一度、一斉に沸く。堂々たる体躯、無駄な肉のない引き締まった顔を縁取る灰色の髪、深い青の瞳。国王エヴィルソンだ。
「今日」
彼が口を開くと、国民は彼の言葉を聞き逃さじと、水を打ったように静まり返った。
「今日、この佳き日に、祝福に集まってくれた皆に感謝する」
朗々とした声が広場に響く。
「皆の祝福は天に昇り、王太子がふさわしい伴侶を得たことを、神々に知らしめた。王太子の母も、神々のみもとで見守っているに違いない。ダナンディルスに、永久の栄光を!」
永久の栄光を、と広場の国民が唱和し、再び歓声が沸き起こった。
マントを翻した国王が奥に入り、王太子夫妻がもう一度手を振ってからそれに続く。やがて、小宮殿の横から王太子夫妻だけが現れ、天蓋のついていない豪奢な馬車に乗り込んだ。
出発した馬車は、正装に身を包んだ王宮騎士団に前後を守られ、丘をぐるりと町へ向かって降りていき、祝賀のパレードを行った。国民たちの歓声はいつまでも続いた。
馬車が再び王丘を登り、主宮殿へと入る頃には、黄昏の女神シャンピに代わり星と夜の神ニュイスが空の隅を闇色に染め始めた。王丘のあちらこちらで明るく篝火が焚かれ、二人のための披露宴の始まりを知らせていた。
王太子夫妻の支度の間に、夫妻がいったん戻ってきた。侍女たちが口々に、
「おめでとうございます」
「お疲れさまでございます」
と二人を出迎える。
いくつも灯された燭台の灯りが、白を基調にした部屋の金の装飾を柔らかく光らせていた。数人の侍女が二人の着替えを手伝い、王太子妃の髪を違った形に結い直す。二人は披露宴用の、華やかな装いになった。
「一息入れてから、会場に向かおう。シェラーサ、冷たいものを頼む。他の者は下がりなさい」
「披露宴の後、またお願いするわね」
イダートとリアンテが声をかける。指名された侍女シェラーサが残り、他の侍女たちは挨拶をして次々と出ていった。扉が静かに閉まる。
──そのとたん。
軽く頭を下げたままだった侍女がすっと背筋を伸ばし、嬉しさを隠しきれないように華やかな笑みを浮かべた。
「おめでとう! お疲れさま!」
「シェラーサ、ああ……緊張したわ」
王太子妃リアンテが手を伸ばすと、シェラーサと呼ばれた侍女はその手を引いてソファに座らせた。そして、自分もその隣に腰掛ける。
「良かったわね、無事に誓いを立てられて」
シェラーサはいたわるように、リアンテの頬を撫でた。寄り添う二人の顔立ちは、それぞれ異なった化粧をのせている上に髪や瞳の色が違っているものの、どこか似ている。
シェラーサは、斜向かいのソファに腰掛けた王太子イダートと、隣のリアンテを見比べて言った。
「神々に認められた夫婦は、あなたたち。イダートの妃はあなたよ、リアンテ。……たとえこの後、イダートの隣に立つのが私でも、それが真実」
「不安だわ、シェラーサ」
リアンテは眉を潜める。
「私の目の前で、あなたが告発されて引っ立てられるようなことがあったら、私……耐えられるかどうか」
「辛いなら、明日からでも王丘を出るか? リアンテ」
イダートが軽く前に身を乗り出し、心配そうにリアンテの顔をのぞき込む。
「身代わりのシェラーサがいるのだ、お前は外の安全な場所にいてかまわないのだぞ。私の方から会いに行く」
しかし、リアンテは首を横に振った。
「いいえ……ごめんなさい、全ては王太子妃としてふさわしくない私が原因ですもの。自分で決めたとおり、侍女として見守るわ。私の身代わりとして妃をつとめてくれる、シェラーサの側で」
それを聞いたシェラーサは、微笑んで立ち上がった。そして、右手の人差し指を右、左と軽く振ってから、右回りに回転した。侍女のドレスがふわりと翻る。
『夜のベール、瞼の裏、浅き夢』
紡がれる呪文とともにその姿が光に包まれ──
向き直った時には、彼女の姿は完全に、リアンテにうり二つになっていた。金の髪、紫の瞳、ふっくらした小さな唇。
彼女は言った。
「ねえリアンテ、わかってるでしょ? 私が誰か」
「あなたは」
リアンテはシェラーサの瞳を吸い込まれるように見つめながら、答える。
「あなたは、魔女。優しくて偉大な魔女」
「そうよ。私は魔女シェラーサ」
名乗るその姿は、他の二人を圧倒するような存在感を放っている。
「人間の女性なら身代わりは難しいかもしれないけど、私なら大丈夫。危なくなっても逃げるのは簡単だって、何度も言ったでしょ?」
「でも……あなたにだって、恋する方がいるのに。王太子妃なんてつとめていたら、どうにもならないわ」
うつむくリアンテに、シェラーサは軽く噴き出した。
「ばかね、身代わりの件がなければ、この王宮に来て『彼』と出会うことはなかった。『彼』をこんなに好きになることもなかったわ。私、感謝してるのよ、この運命に。ていうか、身代わりを思いついた私、偉い! って感じよね」
シェラーサは今度は左手の人差し指を立て、左、右と振ってから左回りに回転した。
そして現れたのは、リアンテとは似ても似つかない、彼女の本来の姿だ。亜麻色の長い髪は下の方で軽く編まれ、膝近くまで垂れている。やや気の強そうな口元で笑う彼女は、草色のドレスを身にまとっていた。
シェラーサは胸の前で両手をあわせ、指を絡めてうっとりとため息をつく。
「広場をちらっとのぞけて嬉しかったわぁ。『彼』の正装、本当に本当にお似合いで素敵だった!」
「シェラーサ、広場にいたのか!?」
イダートは焦って目を見開いた。
「誰かに不審に思われなかっただろうな!」
「猫に変身してたから。ああ、あなたも割と素敵だったわよ」
ついでのようにいい加減に褒めながら、シェラーサは頬を上気させる。イダートは、絶対私など見ていなかっただろう、と小声で突っ込んだが、シェラーサは構わず続けた。
「永久の栄光を、って、あの声の渋くて素敵なこと。腰のあたりが痺れちゃった。あぁ、大聖堂の式ものぞきたかった……」
イダートは呆れたように首を振る。
「まさかそなたが、『彼』……父上が何とあだ名されているか知っていながら好きになるとは思わなかった。今までの四人の妃たちと同じ運命をたどりたいわけじゃないだろう?」
「そういうところも含めて興味があるんだから、望むところよ」
シェラーサは腰に手を当て、挑戦的な笑みを浮かべた。そして、窓の外に視線を移すと拳を握りしめる。
「これから披露宴ものぞきに行くわっ。次は準正装かしらっ。待ってて、『冷酷王』エヴィルソン陛下!」
王太子イダートと、その妃リアンテ。リアンテが本物の彼女だったのは結婚式の一日くらいで、その日までとそれからの長い日々を、侍女のシェラーサと入れ替わって過ごすなどとは──ましてや、シェラーサが『魔女』である、などとは──、その時は誰も、知る由もなかった。