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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

合鍵

作者: 小林 小鳩

 いつもの癖でインターホンを鳴らそうとして手を止めて、鞄の中から鍵を出した。

 少し緊張しながら鍵を回すと奥でカチリとロックが外れる手応えがする。

 当たり前だけど、本当に開くんだなあ。



 お邪魔します、と何となく小声で言って部屋に上がる。

 この部屋には何度も来てるけど、この鍵を使って入ったのは初めてだ。他に誰もいない部屋は、何だか知らない部屋みたいに思える。

 洗濯機の上に置かれたプラスチックの籠にはシャツや靴下が無造作に放り込まれている。冷蔵庫の中は缶ビール数本と少しばかりの食材。テーブルにはたぶん授業で使う本が数冊積み上げてある。灰皿とライター。見慣れた緑の煙草の箱。

 帰って来るまでに何かしようと思ったけど、本人がいないと何をどこまで触っていいのかわからなくて躊躇してしまう。いる時は、これ食べてもいい? これ見てもいい? とか言って、何でも勝手に触ってるのに。

 いつもは入っていいよって扉を開けてもらえるけど。今日はこっそり自分で扉を開けて入ったからかな。

 とりあえず流しに置いてあるコップを洗ったら、他にもうやることがなくなってしまって、他に人の気配がない静かな部屋が落ち着かなくてテレビを点けた。


 ふいにチャイムが鳴って、急いで玄関へ飛び出してドアを開ける。

「宅配便です。印鑑お願いします」

 帰ってきたと思ったのに。拍子抜けした。……印鑑、どこにあるかわからない。

「えーと、サインでもいいですか」

 手渡されたボールペンで、自分のじゃない名字を書いて荷物を受け取る。僕がその名字になることはないのだろうけど、結婚したみたいで気恥ずかしい。

 携帯電話を見ると、メッセージが入ってる。

『遅くなってごめん、今から出るからもう少し待ってて』

 早く帰ってこないかなー……、なんて、誰もいないのに声に出してしまう。二人きりで逢うのは一ヶ月ぶりで、しかも泊まりなのに。

『まだ帰れそうにもないから先に部屋で待ってて』

 ここへ来る電車の中でそのメッセージを何度も見返した。

 今日は課題の提出期限日なんで、ギリギリになって駆け込みで出す生徒を放課後まで待つからいつもより遅くなるかもって、昨日聞いてはいたけど。

 早く提出しないやつのせいで先生だけじゃなくて僕も困るじゃないか。先生のこと好きになるまではそんなこと思わなかったし、課題も期限の前日に慌ててやってた。


 ベッドに寝転んで枕に顔を埋めると、先生の匂いがする。職員室の椅子にかけてあるジャケットからも、いつも同じ匂いがする。メンソールの煙草と、汗の匂い。キスをした時に変な味がするから煙草やめて欲しいなって思ってるけど、この匂いは結構好きだったりする。

 目を閉じて、採点用の赤ペンのインクがしみ込んだ先生の指先を思い浮かべる。同じ性別なのに僕のとは違う、細長いけど少し骨張った大きい、大人の手。あの指で、弱いとこばっか触れてくる。頭のてっぺんが痺れるような感じがして気持ち良くて、ずっと触れられていたい。

 でもそこまで。そこから先はまだない。卒業したらっていうけど、今すぐして欲しいのに。なんで駄目だっていうんだろ。好きな人を自分のものにして普通の恋人と同じようにすることして何が悪い。みんなやってることなのに。

 彼女ともうやった? なんて会話をしながら、友達の前でも付き合ってる人がいないふりを続けてる。

 学校の廊下を手を繋いで歩いたり放課後にファミレスに行って隣同士に座ったり、そういうことをする同級生を冷やかしながら、本当はずっと羨ましかった。

 僕の好きな人が先生じゃなければ、なんて。


 恋人だって証拠に合鍵くらい欲しいってわがまま言ったのは僕だ。

 どうせ二人きりで外をおおっぴらに歩けないのなら、この部屋でこそこそ隠れて逢うしかないのなら。卒業まで色んなことを我慢する代わりに、合鍵をねだった。

 この鍵を貰った時、遂に手に入れたって馬鹿みたいに浮かれて駅から家までの道を走って帰ったけど、一晩寝て目が覚めたら足元からゆっくり地面に沈んでいくような不安に襲われた。

 これは確かに前に進んでるって証拠なんだけど。秘密と障害が多い道を選んだのは僕だけじゃなくて、先生もだけど。

 前にもこうやって合鍵を誰かに渡したことがあるのかなとか嫌なこと考えだしたらきりがなくって、ただ好きだって気持ちだけで頭を満たしていれば良かったはずなのに、なんでこんな風になってしまったんだろうなんて思う。面倒なことなんて何一つ考えたくないのに。

 でも、なんだか自分は教室にいる他の誰よりも大人になってしまったような気さえする。

 恋人の部屋の合鍵を持ってるなんて、きっと僕だけだから。



「ただいま」

 肩を揺すられて目を開けると目の前に先生の顔があった。一瞬自分がどこにいるのかわからなくて慌てた。いつの間にか眠ってた。

「なんか顔赤いよ。どうした?」

「……なんでもない」

「はは、寝ぼけてる?」

 かわいいかわいいって頭をくしゃくしゃなでて、首筋を食むようにキスをされた。想像してた通りに弱いとこばっか触る。あ、今、痕付いたかも。

「このまましようよ」

 先生の耳元にそうつぶやくと、卒業まで駄目だって約束だろ、と制された。

「じゃあ、挿れなくていいから」

「……さっきピザ頼んだから、してる間に来ちゃうし」

 幼い子供に言い聞かせる時みたいに優しく頭を撫でられる。なんでそんなにさっさと切り替えられるんだろ。僕は我慢なんか出来ないのに。

「ちょっと煙草吸ってくるね」

 先生はそう言って灰皿を持ってベランダへ出て行ってしまった。

 ガラス越しに見える先生は、教室で板書をしている背中を眺めている時よりも遠く感じてしまう。せっかくそばにいるのに。同じ部屋にいて、同じ鍵を持ってるのに。

 部屋の扉は開けられたと思ってても、その奥にまだ扉があってその鍵は持ってない。どうやったらもっと奥の部屋まで入れるのかな。僕は先生に僕の人生にもっと踏み込んできて欲しいのに、どういう鍵を渡せば入ってきてくれるんだろうか。

 そんなことを考えながら、薄い闇の中にゆっくり点滅するように灯る、煙草の火を眺めていた。


 ベッドの上で二人折り重なるようにくっついて、それぞれ好きなことをしてる時間が好き。先生は本を読んで、僕は先生の腹の上に頭を乗っけて携帯電話を弄ったりテレビを見たり。テレビを見てるふりをして先生を眺めたり。学校ではお互い意識して距離を置いてるから、気兼ねなく触れ合えるのが嬉しい。

 でも久しぶりだからちょっと緊張してしまう。Tシャツから覗く先生の脇腹のほくろを、星座を繋ぐように指で辿る。あ、先生の指、インクが付いてる。

「ねえ、煙草ってなんで火が点いてる時と点いてない時があんの」

「え? あのー……息を吸うと火が大きくなるんだよ。空気の流れが出来るから、燃焼する」

「なんか、授業してるみたい」

「自分で訊いといて、おまえなあ……」

 呆れたような言い方で苦笑いして、僕の頭を撫でる。その指先に滲む色のように、胸の奥が赤く染まる。

「おまえさ、来月の連休ってなんか用事ある?」

 先生は本を傍らに置いて、そう訊いてきた。

「車でも借りてどっか行こっか。学校の誰にも会わないようなところ」

 不意を打たれて、一瞬言葉に詰まった。

「別にいいけど……急に、なんで」

「んー? 課題良く出来てたから」

「もう採点したの?」

「うん。だっておまえ、いつもクラスで一番最初に提出してるから」

 それは先生のこと好きだから頑張ってるに決まってんじゃん。そう言いたいけど、口には出さない。先に好きになったほうが弱いから。嬉しいって、態度には出さない。子供扱いされたくないから。

「卒業までって色々我慢させるのもあんまり良くないかと思ってさ。何したい?」

 優しい目で僕の顔を覗き込んでくるから、ちょっと目を逸らしてしまった。日帰り出来るなら何でもいいよ、なんて。そんな簡単に言わないで欲しい。だって僕は、本当は。

「……じゃあさ、一緒に外でご飯食べたり並んで歩いたりしたい」

 僕の答えに先生は一瞬驚いたような顔をした。

「そうだね、今までそういうことさせてあげられてなかったね」

 その言い方があまりに優しくて、困らせてしまったかもと思う。

「やっぱいいよ、そんな気を遣わなくて。大丈夫。合鍵貰ったし。その為の合鍵だし」

 何だか気まずくなって立ち上がろうとしたら、もっとこっちにおいで、と抱き寄せられた。いつもより少し強い抱き方。首筋からは先生の匂いがして、息を吸う。開けてんだから入ってきて欲しいと思ってたくせに、いざ踏み込まれると少し戸惑う。

「……我慢してんのは、おまえだけじゃないから」

 あの手で僕に触れる。服の下に潜り込んでくる。先生はなんで、僕の弱いとこ全部知ってんだろう。触れられたところから熱くなって、内側から指の先まで赤く染まっていくのを感じる。先生の吐息混じりの声のせいで耳元がくすぐったい。

「俺だってそんなに色々我慢出来ないんだよ」



 うっすら目を開けると目の前に先生の顔があって、今自分がどこにいるのかわかって安心した。

 まだ夜が明けきらない空がカーテンの隙間から見える。髭がちょっと伸びた先生の寝顔。これを見るのを許されてるのは僕だけだ、なんて。

 ここに入ってきていいよって許された鍵。その鍵を持ってる限りは、こうしてそばで体温を感じられる。

 連休には郊外の大きな家具屋に行って、卒業したら同棲したいだとか、それが駄目なら二人で寝ても充分な大きさのベッドが欲しいなんて言って、先生を困らせよう。

 そんなことを考えながら、もう一度目を閉じた。


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