42.残った彼らの語らい
ウェインとカーマインがクルフの実の採取に向かった後。
カーマインの家に残されたアリシアたちは、聖奈の眠る部屋にいた。
「…………」
水の張った桶でタオルを冷やして絞り、アリシアは聖奈の額に乗せ直す。
苦しげに呻くことのある聖奈の熱は一向に下がることはなく、それどころか上がり続けているようだった。
カーマインから渡された薬は既に安全性を確認した上で飲ませてある。だがそれが効いたのも僅かな時間の間だけだ。
動揺するアリシアとは対照的に、落ち着き払った様子のルキフェルは免疫がないせいだろうと言った。
「加えて、ただでさえ強行で此処まで来たのだ。今は幾分か魔王としての恩恵はあれども、根本的には平穏な世界で生きていた娘であり、その肉体もまた平凡な娘のものであることには変わりない……悪化が早くとも何らおかしくはあるまいよ」
ルキフェルによれば、聖奈の暮らしていた世界は本当に平和だったそうだ。
正しくはこの世界と同様に戦争に等しい紛争地帯はあったようだが、聖奈のいた場所ではそのような危険はなく、魔物さえもいなかったらしい。
アリシアにしてみれば想像も出来ないほど、夢のように穏やかな世界。
対してこの世界は常に危険と隣り合わせだ。しかも聖奈に課せられているのは魔族を守り、率い立つ旗印である〈魔王〉としての役目。
あの時は新たな〈魔王〉に頼るしか生き残る道も、心の拠り所もなかったなどと言い訳を並べても、酷く重いものを課してしまったと今では思う。
「……ひとつ、疑問があるんだけど」
不意に静かな室内に響いたのは、ラピスの声。
聖奈の眠るベッドの下に座り、縁に置いた両腕に顎を乗せる彼はアリシアとルキフェルに振り向き、眉を寄せていた。
「なんだ、小僧?」
「〈魔王〉について、不思議に思って」
「不思議、ですか……?」
「当代の〈勇者〉はこの世界の人間なのに、なんで当代の〈魔王〉は異世界なんて空想みたいなとこにいたの?」
小さく首を傾げながらも、金色の双眸はアリシアとルキフェルを捉えたままだ。
この事実をアリシアもルキフェルも彼には話していない。だが聖奈は彼に問われたから、とラピスに事実を語って聞かせた。そしてそれはウェインに対しても同様だった。
アリシアは目をしばたかせ、それから口を開いた。
「〈勇者〉も〈魔王〉も、生を終えるとその魂は次代に必要とされるまで密やかに眠ったまま転生を繰り返すそうですから。その際に異界にまぎれた可能性が高いのかと」
ルーベル一族は多くの召喚術にまつわる書物を管理しているが、その中には少ないながらも〈魔王〉について書かれた本もある。
初代魔王だけではなく、魔族にとっての父なる存在である神についても書かれた本がルーベル家に伝わるのは、かつて神がこの世界に在り、近い場所で寄り添っていた頃からルーベル家は神と〈魔王〉仕え続けていたからだと、アリシアは両親から聞いたことがあった。
〈勇者〉と〈魔王〉は超常的な存在ではあるが、魂は多くの者と同様に輪廻の輪を廻るという。だが必要とされる時まで、その魂は目覚めることはない。例え時代が違えばそう呼ばれる者だったとしても、魂が目覚めなければそう呼ばれることは決してない。
だから、当代の彼らが何者であるかは呼び目覚めるまで分からない。
例えば先代の〈魔王〉は純血の魔族だったが、それよりも以前には病弱で下級の小さな子供だったことだってある。さすがに〈魔王〉がこの世界においての人間や神族だったことや、〈勇者〉が魔族や神族だったことはないが、共に異界の存在であることは稀にあった。
故に聖奈が異例というわけでは決してない。前例は確かにあって、そうなのだから送還の術も存在する可能性がとても高い。
そして何処にいるかもわからず、記憶や力を取り戻すまでの目覚めを経ていない当代の彼ら――少なくとも〈魔王〉は、決まって召喚によって招くのが通例だ。
彼らの目覚めは窮地の時。助けと救いを真に求めるとき。
だからこそルーベル家には神の信頼のもと、書物が伝わるのである。
「……なにそれ、知りたくなかったんだけど」
顔を歪めたラピスに、アリシアは首を傾げた。
「絵本や一般に伝わる伝承では〈魔王〉や〈勇者〉というものは神秘的に描かれていますが……ラピスもそうしたものに憧れを?」
「憧れてなくても、その事実は多くに人を落ち込ませるよ。隣人が実は〈魔王〉だったり〈勇者〉でした、なんて考えたくもないだろ」
「――いや、それは有り得ん」
と、静かに割って入ったのはルキフェルだ。
聖奈の枕の傍らに立つルキフェルは、真剣な面持ちでこちらを見ている。
「有り得ないって、何がですか?」
「隣人が〈勇者〉である可能性が、だ。アリシアの語ったことに間違いはないし、目覚めぬままでいることについては事実だがな……あれは、あれだけは血統だ。〈勇者〉の称号は、〈魔王〉とは異なる。あれは始祖直系の血族にしか現れぬのだ」
「始祖って……まさかプロメテウス神、とか言わないよね?」
始祖――それは全ての種を守護する大いなる神々を指し示す。
世界は創世神により創られ、彼の神により多くの命が産み出された。そのなかでも最初に産み出された三つの命がある。それが始祖、三神とも呼ばれる守護神だ。
魔族を護るのは〈魔神サタン〉、人間を護るのは〈智神プロメテウス〉、そして神族を護るのは〈聖神イナンナ〉。
彼らは創世神を父と慕い、それぞれが種を守護し、行く末を見守ることを役目として与えられたという。
創世神の子である彼の存在は、厳密には神ではないといわれてはいるが、ヒトにとって見れば紛れもなく強大な力を持つ神だった。
実際に彼らの存在は、少ないながらも書物に書かれている。アリシアの遠い先祖が仕えた神もサタンを示しているし、その存在は創世神よりも確かだ。
しかし〈勇者〉がそんな始祖の血族などとは俄かに信じ難い。〈魔王〉でさえそうした血筋に関わりがないというのに。
眉を顰めるラピスに心底同意するようにアリシアは眉を下げた。だがルキフェルは至極、真面目な顔で答える。
「そのまさかだ。〈勇者〉の系譜を遡れば今でもプロメテウスに辿り着く」
「そんな馬鹿な話が……神の血を継いでるって、〈勇者〉じゃなくても当代の家族みんなバケモノってことだろ?」
「それはありえん。アリシアが言ったであろう? 〈勇者〉と〈魔王〉の魂は眠ったまま巡る、その魂にプロメテウスの力の全てが宿っているのだ。それ以外の者が特異な力を持つなどまず有り得ん。単に〈勇者〉と呼ばれるべき魂を宿す人間は、始祖の血統にのみ産まれると決まっているだけだ」
でなければ今頃この世界は特異な力を持つ者で溢れているはずだ、とルキフェルは言った。そんなルキフェルに、ラピスが問う。
「なら〈魔王〉は何なの? 〈勇者〉はこの世界に産まれてるって話だけど、〈魔王〉はなんで、異世界の人間だなんてふざけたことになったりしてるのさ?」
するとルキフェルはちらりと眠る聖奈を見下ろし、目を伏せた。
「〈魔神〉の血統に〈魔王〉が生まれることはまずない。なぜならサタンは自由へと思いを馳せたからだ」
「……は?」
「かの神は縛られることも血筋によって子々孫々を宿命付ける事も嫌った。それ故にその魂は縛られることなく外へまで流れたのだ。まあ、その結果がこれなのだがな」
「それはなに、つまり神の身勝手の結果ってこと? それで異世界なんて不確かでバカみたいなとこから、まったくの無関係なヤツを喚ぶなんてことになってるの?」
呟くようにルキフェルが言った言葉にラピスは眉を寄せ、聞き返す。その問いにルキフェルが答えることはなく、代わりに不機嫌そうに目を細めたラピスが更に言葉を紡いだ。
「なにそれ。別に、異世界なんて今でも存在するとは思えないけどさ、それはさておきとしても魔族でも僅かでもその血が流れてるってわけでもない、何も知らないしわからない人間を頂点に据えてるのは事実だろ? 魔族ってのは情が深いだとか平和主義とか言ってるけど、命の危険さえある立場にそんなヤツを据えるって正気の沙汰とは思えないんだけど」
「け、けど、この方は〈魔王〉様です。確かに、おかしいことなのかもしれないけど、魂はそこに在るし力も継承なさっています!」
「力の継承とか、魂の継承とか言ってる訳じゃない。狂ってるって言ってるんだよ」
深く溜め息を吐いて、ゆるゆると視線が落とされた先には熱に浮かされて苦しげな息を吐き続ける聖奈の姿がある。
狂ってる――そう、なのかもしれない。勝手な都合で喚び寄せたこともそうだが、異界の者とはいえ人間を〈魔王〉と呼び、長として据えていることも。
その必要があった、だから喚んだ、それに揺らぎはない。けれどもそれらはアリシアたち側の都合で。それに、そもそもとして聖奈は全くの無関係な人間だ。魔族のために動いてくれていることは、彼女の善意であるがそれ以上に選択肢などなかったに過ぎない。
拒否権なく、重い役目を背負わせられ、強いられる。それは――。
「……おまけに〈魔王〉も〈勇者〉も、互いを殺し合うことを強いられて。まるで呪いみたいだな」
そう――呪いのようだ。
逃げて投げ出すことは出来なくもない。けれどもそうしたところで命を狙われることは避けられない。
喚び招いたのはアリシアだけれど。逃げられない状況下に据えたのは自分で、それでもなお気丈に振る舞い、眩しいまでの理想論を掲げる彼女だからこそ、最後まで共に行くと決めたのだけれど。
それに、〈魔王〉にしても〈勇者〉にしても産まれたその時から殺し合うことを課せられているのだから、それは呪いと呼んでも間違ってはいないはずだ。
だが、ルキフェルは緩やかに首を横に振った。
「いいや。それだけは違う、殺し合うことは役目ではない。それは称号に過ぎぬ。御旗に過ぎぬのだ、〈魔王〉も〈勇者〉もな」
「だとしても実際には戦ってるし、敵対してる。きっと〈勇者〉は〈魔王〉を討つものだって大多数が思ってるし、逆もそうだろ。だいたい、殺し合うためじゃないとしたら何のために存在してるのさ?」
訝しげに問うラピスをルキフェルは真っ直ぐに見据え、口を開く。
紡がれた言葉はアリシアにとって耳を疑うようなものだった。
「〈魔王〉も〈勇者〉も、その存在は第一に種を率い立つ役目を持つ。ゆえに御旗であり称号に過ぎぬ、争いのためでなく真に王であるという旗印なのだ。彼奴らが戦う必要など本来、ありはせん。仮に戦うとするならば、彼奴らが戦うべき相手は〈女神〉――〈聖神イナンナ〉しかおらぬ」
「〈女神〉……?」
思わず繰り返したアリシアに、ルキフェルは深く頷く。
――〈聖神イナンナ〉。〈神族〉を護る者。彼らの母なる存在であり〈女神〉だ。
彼女についてアリシアが知ることは少ない。
アリシアは魔族なのだから当たり前ともいえるが、ルーベル家に伝わる書物にはほとんど書かれていなかったのだ。それはプロメテウスについても同様ではあるのだが、彼の神以上に不明瞭な存在である。
だがひとつだけ、はっきりとした事実もあった。
「〈女神〉は、眠りについているのでは? 決して目覚めぬ眠りに」
女神は眠りについている。
それに至るまでの経緯は曖昧だ。護るべき存在を見守るためだとも書かれていた一方で、護るべき存在を見捨てたとも書かれているのだから、当時から生きる者も存在しえない以上、真実はわからない。
だがそれでもイナンナが眠っていることだけは確かであり、追うようにしてサタンもプロメテウスも眠りについたことはどの書物にも書かれる結末である。
いやそれ以前になぜ〈女神〉と相対さねばならぬのか。
呆然と告げるとルキフェルはそっと目を伏せた。
「そも、〈魔王〉と〈勇者〉は平穏な世に目覚めることはない。必要がない、というのも確かではあるが、争いの世であっても種族間の力の差が大きくなってようやく目覚めるように出来ている。だからこそ、彼奴らは長い歴史の中で誤解されておるのだろう」
「今の世も〈勇者〉を含めた人間と神族が魔族を追い詰めた末に〈魔王〉が現れたわけだしね」
「しかし逆に言うのであれば、種族の間に差が生じさえしなければ目覚めることはない。そうなのだから真っ先に目覚めるとなれば脆弱な人間を護るためがゆえの〈勇者〉だろう。さて、この上で問おう、なぜ当代の〈勇者〉は目覚めた?」
アリシアはまばたきを数回。
決して答えに悩んだわけではないが、その間にラピスが口を開く。
「あんたの言葉を信用することが大前提として……可能性のひとつとしては魔族に対抗するためだけど」
「いえ、ラピス、それは有り得ません。魔族は過去、人間に対して危害を加えたことはありませんから……仮に現代に至るまでに魔族の数が増えたとしても、それ自体が脅威になることはないはずです」
そう、有り得ない。
人間と神族から見た魔族は排除すべき脅威でしかないのだろうが、魔族が彼らに力を振るうとするならば仕掛けられた場合に限る。敵意に敵意こそ向けど、彼らにこちらから危害を加えることはまずないし、そもそもそうした事実に覚えはない。
把握していないだけでそうした事実があったとしても、それは魔族としての矜持を忘れ去った愚か者だろう。そしてそうした者達は人間たちからの手痛いしっぺ返しを受けるか、同じ魔族たちから仕置きを受けるのがほとんどだ。
もうひとつ、考えうる可能性である魔族の個体数という点も、元来魔族や神族は人間より長命。他との交わりによりアリシアらの代では人間と同等までに短くなったとはいえ、通常ならば数で勝るのは明白である以上、数だけで〈勇者〉が目覚める脅威になることは無いと言えよう。
緩く顔を横に振るアリシアに、ラピスは特に感情の揺らぎの見えない表情でふぅん、とだけ呟いて、言葉をさらに紡ぐ。
「……なら、もうひとつの可能性である神族への対抗だけど、神族だって人間にとっては魔族とさほど変わらないだろ?」
「その答えは正しい。人間は魔族と神族よりも脆弱なのだ、神族も魔族同様、人間を弱き存在と見ていよう。となれば神族は人間を脅威としない。それすなわち、神族は人間と敵対するということは決してないのだから人間が危機に瀕しているとして〈勇者〉が目覚めることはない。……だが現実には当代の〈勇者〉は目覚めておる。魔族が虐げられるようになるよりも以前、〈魔王〉が目覚めるより前に、な」
ラピスに含みのある言葉を返すルキフェルだが、アリシアには未だ確信を得ていないように思えた。
けれども、この使い魔が暗に告げている答えは、神族が〈勇者〉の魂が人間の脅威を感じ取るまでの力を持ったことを示している。敵対行動もなく。侵略行動も、悲劇が起きたという事実もなく。
だが、とアリシアは眉根を下げた。
「それならば何故、人間と神族は手を組んでいるんですか? もし〈勇者〉の目覚めが神族たちの中で起きた何らかの出来事だというのならば、人間の……〈勇者〉の剣を向ける先は神族であるべきじゃないですか」
「断言は出来ぬが、〈女神〉が仕組んだのだろうな」
「だから、〈女神〉は眠ってるんだろ? なんで此処で出てくるんだよ」
「〈女神〉は眠っているというのも正しくはあるが、より正しい言い方をするならば、〈女神〉は封印されたに過ぎぬからだ」
「……なんて?」
先程から信じがたい話ばかりをするルキフェルであるが、さらりと口に出された言葉は今度はラピスさえも驚かせた。
アリシアも驚きを隠せないまま、微かに震える声で尋ねる。
「どういう、ことですか?」
「今では単に、神族と魔族が最初に争った戦と伝わるだろうが、その争いの名についてはアリシア、ルーベル家の娘である貴様なら覚えがあるな?」
「――〈天魔戦争〉、神族が引き起こした、彼らと魔族による戦乱。はじめて〈魔王〉と〈勇者〉の存在が語られることとなった戦いであり、始祖の神々が眠りにつく理由となった戦い、ですね」
「そうだ」
満足げに頷くルキフェルを見詰めながら、アリシアは思考する。
〈天魔戦争〉とは遠い昔、まだ三神がこの地に確かに存在した頃に起きたという、神族と魔族がはじめて争った戦だ。元来、強大な力を持つふたつの種族がぶつかり合ったことで世界は大きく疲弊し、今でこそ緑が蘇りはしているが当時は荒廃した不毛の地も多く点在したという。
争いのきっかけは神族が禁忌に触れ、それ故に魔族と人間の命を容易く奪ったことが引金とされ、この争いでもっとも被害を被ったのは、当然と言うべきか力の大きく劣る人間たちだった。魔族としては人間も守るべき対象だったようだが、圧倒的な力を以て争う二つの種族は非力な彼らにとっては恐怖以外の何物でもなかっただろう。
そしてルキフェルの言葉が正しいとするならば、だからこそ〈勇者〉と呼ばれる存在はこの時に初めて現れたのだろう。
「〈女神〉は、本来ならば護るべき命である神族を己の目的のための道具として、世界を戦禍で包んだ。その戦禍こそが〈天魔戦争〉、そしてその折に〈女神〉は封印という名の眠りにつくこととなった」
「争いの火種は〈女神〉によるものだったなんて、そんなことが……いえ、それよりも〈魔王〉と〈勇者〉はこの戦乱の折にそれぞれの始祖により生み出されたんですか?」
「その通りだ」
首肯して、ルキフェルは続ける。
「もちろん、〈創世の神〉のような創造ができるわけではない。故に、始祖は己の魂を分け与えることでそれぞれが新たな命を産みだした。それこそが〈魔王〉と〈勇者〉と呼ばれる者の原初だ。元来はそんな呼名などされず、始祖の力の片鱗を持ちながらも確かにヒトではあったがな。いずれにせよ彼奴等は、神族の……〈女神〉の愚かなる蛮行を止める為に産まれたのだ」
「愚かなる蛮行、ね。神族が触れた禁忌って、そこまでして止めなきゃならないものだったわけ?」
「……止めねば、この世界は〈女神〉にとってだけ都合の良い、奴の箱庭と化していただろうからな。何より、人間と魔族はとうに滅んでいたことだろう……だからこそ、討つ他なかったのだ。だが相手も始祖、真に討ち滅ぼすことなど出来ぬ。故に封じたのだ、二柱の始祖が共に眠ることで〈女神〉は目覚めることのない封印を受けた。だがその後も、〈魔王〉と〈勇者〉は産まれた。調停者でもあるが故に、世界の均衡の乱れの先、危機に瀕する可能性を察知する度に目覚めてはおったのだからな」
「逆を言えば、いまは〈魔王〉も〈勇者〉も、それだけの為に目覚めて眠ることを繰り返すだけの存在で……でも今回は違う、ということですね?」
「かもしれぬ、というだけだがな……今のところは、断言が出来ぬ」
緩く首を横に振ったルキフェルは、小さく息を吐く。
ルキフェルが告げる言葉の多くは、アリシアにとっても知らぬ話ばかりだ。使い魔であるが故に長い歴史を見守ってきたからこその知りえるものなのだろうが、全てを鵜呑みにして良いかはわからない。
けれども〈魔王〉が魔族の危機に瀕した時にのみ現れる者であることは知っている。魔族は力ある存在によりある程度の統治がされている。それは〈魔王〉により統べられるものとは全くの別物ではあるが、御旗たる王の座が空席だとしても瓦解はまずない。
何故なら魔族は己の王が血統により現れるものではないと知っているからであり、危機に目覚め現れると古くから伝わっているからだ。
事実、先代魔王から今代魔王が現れるまでの空白は三桁はゆうに経過している。敬意を抱いていないわけではなく、これはそういうものなのだと理解しているからこその空白。
魔族が〈魔王〉を必要とするまで追い詰められていたのは確かだ。だが今のアリシアは、〈勇者〉についての知識はほとんど無い。それは紛れもなくその存在が、魔族にとって怖れるほどの危険性を秘めているからなのだが、故にルキフェルの言葉が真実かどうか断ずることは出来なかった。
一度、蔵書を片っ端から読まなければならないかもしれない。それと出来れば王城の書庫も、と目を伏せる。
ルーベル家の管理する本は当然、首都フェノワールにある生家に保管されたままだ。王城の私室にも一部が移されてはいるが、殆どは屋敷の書庫に収められている。
破棄はされていないだろうと思う。本の中には魔法書も大量にある。神族が読み漁り、好んでそれを扱うとは思えないが、人間であれば習得することが出来るだろうし、手に取ることだろう。少なくとも焼き払われることは無いはずだ。というより、そうでなければ送還の術を探すためにも大変困る。
アリシアは熱に魘されながらも眠り続ける聖奈に向き直り、額に乗せたタオルを手に取った。話し込んでいる間に随分と温くなってしまったそれを水に浸して絞り、また乗せる。
滲む汗は清潔なタオルで拭き取って、ウェインたちが戻ったらまずはカーマインの手も借りながら着替えさせよう、などと考えた。
「オレは小難しいことはほとんど聞き流してたけどさ、要するに現状は神族が何かしてる可能性が高いってことだよな?」
「端的に言えばそうだな。〈女神〉が目覚めているにはおとなしすぎる……天使は過去に縛られておるからな。だが人間と結託したというのも奇妙すぎる」
「それなら〈魔王〉や〈勇者〉みたいなヤツを〈女神〉が産み出したって可能性は? あり得ない訳じゃないだろ?」
「ふむ……皆無ではないだろうな。だがそうであるのならば、まず〈勇者〉が気付いておろうよ。気付いていたところでどうしようもない可能性もあるが、人間の間でも伝承で語られているであろう〈勇者〉の言葉だ、軽んじられることもあるまい」
「ふーん……」
話を振ったのは自分だろうに、興味なさげに相槌を打ったラピスはルキフェルから視線を外し、聖奈を見下ろす。
「まあ、どれだけ理由を重ねても異世界の人間を自分達の都合だけで巻き込んでることには変わり無いんだけどね」
「事実である以上、否定はできぬが……小僧。貴様、いつの間にセナにそれほどまで入れ込むようになったのだ?」
「は? なにその解釈。どんだけ脳内花畑なんだよ、気色悪い」
振り向いてぎろりとルキフェルを睨み付けて毒づいたラピスは、言い返されるより先にまた聖奈へと視線を落とし、小さく呟くように言った。
「ただオレは、自分の預かり知らぬところで全部決まってる、選択肢のない選択を選ばされるってのが気に食わないだけ」
静かに、けれども力強く告げられたその言葉には己の過去も含まれている気がして、アリシアは眉を下げるだけで、ルキフェルもまた口を閉ざして答えることはなかった。




