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39.目覚めぬ少女の傍ら


 ――聖奈が目覚めない。


 そのことにウェインが気付いたのは、朝方。

 いつも通り真っ先に起床をして、簡単に身支度を済ませ、それから彼女たちを起こそうとした時のことだった。

 声をかけても起きない、それだけならまだ良かったのだが、今朝は揺するように起こそうとしても一切目を覚ます様子がなかった。

 おかしいと思い無礼とは承知の上で覗き込んだ彼女の額には汗が滲み、荒い呼吸を繰り返していることに気付いた時には、他の二人と一匹が起床していた。

 怪訝そうに眉を寄せたアリシアに、聖奈が発熱をしているしれないと告げて看てもらい始めたのはつい数分前の事。


「……これ、たぶんただの発熱じゃないです」


 眉を顰めるアリシアが、聖奈に翳していた手を下ろす。同時に、溢れていた淡い光の粒子が消え去った。

 口ぶりからするに、アリシアは解熱のための治癒魔法を使っていたのだろう。俗に治療術とも呼ばれる治癒魔法の一種だ。

 もっとも、それは万能なものではない。治癒魔法の効力には限度があるからだ。

 怪我についてはどれほどのものであろうと理論的には治療は可能であるし、けれども存在する際限は魔法の使い手の技量によるものになるのだが、病に関しては治せないものの方が圧倒的に多い。

 理由としては、多くの治癒魔法の使い手は病に関する知識が乏しいため、というのが一般論だ。

 事実とえして同じ治癒魔法でも使い手が医者であれば治せるものも多いと聞く。それ以上については、治癒魔法の心得のないウェインにはわからない。

 だが治癒魔法の心得はないし、医学に関しても知識は足りていないが、ハニエルによって叩き込まれた植物への知識は豊富だという自負はあった。


「発熱ではないとすれば何だ? まさか、食事に毒が混入していたなどということは有り得まい?」

「無いな。有毒の食材は一切使ってないし、加えても加えられてもいない。仮に毒が入ってたとして、それがセナちゃんにだけ効いてるってのはおかしい。人間にだけ効く毒だとしても、俺は都合良く毒に慣れてはいねえよ」

「調理の過程は見てましたから、なおのこと有り得ませんよね。それに、ウェインさんたちが詰んできた野草やキノコの中にもそれらしいものはありませんでしたし……」


 腕を組むルキフェルに肩を竦めて答えれば、首肯を交えてアリシアが続く。だが彼女の表情はそれならば何故、と言いたげに歪められていた。

 紅い双眸は心配そうに、不安そうに、苦しげに息を繰り返す聖奈だけを見詰めている。アリシアの傍らに浮かぶルキフェルも、向かい側に座るウェインもまた聖奈を瞳に映し、けれどもその頭の中では目覚めぬ理由を探していた。

 熱を出したわけではない、毒を接種したわけでもない。風邪やウイルス性のそれらにかかったわけでもないのならば、毒草に触れたと考えるのが正しいだろう。

 けれど、いま水汲みとタオルを冷やしてくるように頼み、この場から離れているラピスによれば、あの時狩猟のための罠を仕掛けるために離れた後、聖奈が植物に触れたなどということはなかったという。それを肯定するように、聖奈に現れているのはあの場にあった毒草による症状のどれにも当てはまらない。

 夕刻を経て、食事と就寝。これがウェインたちの(あずか)り知らぬ場所で毒をもらってしまったとするならば、明らかに遅効性。症状は発熱、嘔吐した様子は見られない。

 それだけで大雑把に絞れる。だがそれ以上は絞りようがなかった。これでは候補が多すぎる。思い当たる全ての解毒薬を飲ませるまでに掛かる時間は途方もなく、解毒薬同士の飲み合わせの影響で更に悪化しかねない。

 それに、そもそもとしてこれら全てが憶測でしかない。

 歯痒いな、とウェインは眉を寄せる。毒の中には処置が遅れると命に関わるものも当然ある。ウェインが弾き出した中にもそれはあった。

 出来るならそれであるか否か、それだけは断じたいのだが、それが出来ないことに苛立つ。

 まさか此処にあのカマ天使(ハニエル)がいたなら、と考えてしまう時が来ようとは思いもしなかった。


「汲んできた。あと、これでいい?」


 茂みを鳴らしながら戻ってきたラピスが、平時と変わらぬ表情で小首を傾げた。

 手にするのは幾つかの水筒とタオル。差し出す彼から受け取ったのはアリシアだ。


「ありがとうございます、ラピス」

「で? 何かわかったの?」


 ラピスが目覚めたのかとは聞かなかったのは、ウェインたちの様子で察していたからだろう。そして投げ掛けられた問いにも、期待は全く見られず、金色の双眸は真っ直ぐに聖奈へと向けられている。


「毒の可能性が高いということ以外、なにも」

「だと思った」


 水で濡れたタオルで聖奈の額に滲む汗を拭いながら答えたアリシアに、ラピスは素っ気なく返す。

 やがて眉を顰めたラピスに、ウェインは口を開いた。


「ラピス、お前毒への知識は?」


 くるりと振り向いたラピスは、僅かな逡巡(しゅんじゅん)の後、静かに答える。


「……ないよ。あの場所にはそういうのを好んで使ってたやつもいたにはいたけど」

「どういう毒だ?」

「どういうって……布に染み込ませたり、ナイフ自体に塗ったりできるやつ、だけど……なに、オレのこと疑ってるの?」

「違う。別の考え方をするために、聞いてみただけだ。けど……塗り込むってことは……」


 睨むように目を細めるラピスへと語気を強めて断言して、ウェインは顎へと手をやり、思考する。

 毒を塗り込んだナイフを使うということは、傷口から毒を回らせるのが目的ということになる。はからずともそうした性質を持った毒草も野生にあるといえばあるが、あの場所に果たしてそんなものが自生していただろうか。

 だがこれまでウェインが考えていた可能性は花粉や、珍しい粘液を纏う茎に触れたことによる摂取だ。もしかしたらあり得るかもしれない。


「何かわかったか、小僧?」

「考えられる幅が広がったってだけだ、ぬいぐるみ。アリシアちゃん、外套をめくるぞ?」

「あ、はい」


 目敏く尋ねてきたルキフェルをすげなく制して、アリシアに声をかけると彼女はすぐに頷いた。

 許可を得てウェインは横たわる聖奈にかけられた外套をめくり、投げ出されたままの手を取って注意深く眺める。そこには傷らしい傷はない。


「悪いがそっちの手も確認してもらえるか? 怪我がないか、あとはあったとして傷口とその周辺はどうなってるか、見てくれ」

「はい! えっと……」


 手をそっと元の場所へと正しながら告げる。

 弾かれたようにアリシアはタオルを膝の上に置き、聖奈の反対側の手を取り、眺めた直後のことだ。


「怪我、あります……! 周辺が変色して傷口は硬化を……なにこれ、腕の方にのぼってる?」

「……! ルファナの毒か!」


 アリシアの言葉に、ウェインは確信を得て叫ぶ。

 発熱と硬化と変色、それだけなら他にも毒の症状としてあるが、あの場所にあった毒草の中でその症状を与えるのはルファナだけだ。

 多くの有毒の植物は見た目からも毒性を示すが、ルファナは一見すると普通の野花にしか見えない。その平凡さは、ウェインも症状を言われるまで見落とすほどだ。

 ルファナは素朴な紫の花を咲かせ、山林で見掛ける植物だ。繁殖力はそれほど高くはないのだが、薬剤の調合にも用いられる事もある。だがこの花の葉はとても鋭利で、薬師であっても摘んだ際に手を切ることが多い。

 しかも厄介なことにルファナは有毒の植物であり、その毒性は猛毒だ。それも命を奪う可能性が高いほどの。

 はじめに発熱。そして傷口が硬化し、そこから遡るようにして血液中から毒が全身を巡る。非常に遅効性であることから、症状が出るまでにも時間を要するし、死に至るまでには時間がかかり、そのくせ発症すれば熱と共に激痛が襲う。その痛みは、死ぬその時まで消えることはない。


「ルファナの毒……聞き慣れないけど、死ぬ可能性もあるの?」

「ああ、やっかいなことにな」

「そんな……!」


 ラピスの問いに答えると、聞いていたアリシアが悲鳴にも似た声を上げた。ウェインは立ち上がり、ひとつ息を吐く。


「ルファナの毒は人間以外にも効く猛毒、しかも見た目は普通の花にしか見えないときた。俺もよく見なけりゃ判別できないくらいにはわからない。つまるところ、この場にいる誰もが倒れる可能性があった……それがセナちゃんにだけだったってだけでな」

「……やけに冷静だな、小僧?」

「そっくりそのまま返すぜ、ぬいぐるみ。使い魔ってもんは普通、主の身を案じるもんだろ?」


 荷物の整理をしながら、ルキフェルを横目で睨む。

 未だ意識は時に苦しげに呻く聖奈へと向けられ、不安げではあるがどこか冷静にも映るぬいぐるみは、ウェインを真っ直ぐに見ていた。


「我はこの小娘の使い魔などではないからな。それに、目の前の光明にも気付かぬまでに目を曇らせ、俯いているわけにはいかぬ。そうだろう?」

「その全部お見通しって感じ、くっそ腹立つわ」

「ふんっ。我とて貴様の智に頼らねばならぬことが腹立たしくてかなわぬわ」


 言葉の通り、苛立ちを隠そうともしない双眸から視線を外して、ウェインは荷物を背負い、再び聖奈の傍らにしゃがみこんだ。


「アリシア、ラピス。支度しろ、移動する」

「あの……もしかしてウェインさんは治し方を?」


 おずおずと、アリシアに尋ねられる。彼女の紅い眼には期待と不安が入り交じっていた。

 きっと聖奈がこの目を前にしたなら、大丈夫だと言い張るのだろうな、となんとなく思う。確証などなくとも、安心感を与え、そしてその言葉が嘘にならぬように全力で挑むのだ。

 だがウェインには、そんな言葉を口にすることは出来なかった。


「解毒薬の素材は知ってる、やり方もわかってる」

「じゃあ……!」

「けど、間に合うかわからない。集められるかも、集められたとしてもうまく薬を作れるかもわからない」


 何せあくまでも自分はただのトレジャーハンターで、薬師をしていたハニエルの横で眺め、聞いた知識しかないのだから。

 しかも、だ。この状況もよろしくない。

 口には出さないが疲労が蓄積しているであろう聖奈を、本当ならベッドに寝かせたいのだ。それなのに〈紅牙の蛇〉に追われているがために一ヶ所に止まることが出来ぬというのは、おそらく聖奈の病状の悪化を早める原因となっている。


「やるだけのことはやる。やれることがあるのに、やらずに見殺しにするのは寝覚めが悪いからな」


 言い切って、横たわる聖奈を外套ごと抱え上げる。

 意識のない体はそのぶん重く感じるが、とはいえ少女だ。この程度ならば抱えて歩くのもウェインには苦にならない。


「ラピス、セナの荷物を持って来てくれ。お前なら荷物を持っていても戦うくらい出来るだろ?」

「……まあ、出来るけど」

「なら、頼む」


 言うだけ言って、ウェインはそれ以上の問答は不要、と歩き出す。

 呆然としていたアリシアがそこでハッとした様子で荷物を手に取り、小走りで追いかけてきた。


「ウェインさん、運ぶなら背負ってしまったほうがよろしいと思います。お手伝いします」


 少しだけ早口になりながらもされた提案に、ウェインは立ち止まり振り返る。

 今のウェインは両手がふさがり不自由だ。いざ魔物が現れれば、片腕で支えて銃で応戦することも可能ではあるが、予期せぬ襲撃を受ければ対処が遅れるであろうことは明白。それならばいっそアリシアの提案通り、聖奈を背負ってしまったほうがまだ動きやすいかもしれない。


「……そうだな。手伝ってくれるなら助かる」


 頷いて膝を落とす。見計らって伸ばされたアリシアの手を借りながらウェインは聖奈を背負い、改めて立ち上がった。


「……あの、ウェインさん」


 と、僅かな間隔を置いて、アリシアがウェインを呼ぶ。ウェインは彼女を見下ろしながら、小さく首を傾げた。


「ん? なんだ、アリシアちゃん?」

「もし、ウェインさんが薬の調合に失敗しても、わたしは諦めませんから」


 その声には、はっきりとした意思が宿っていた。

 真っ直ぐに向けられる紅の眼は決してウェインから逸らされることはなく、思わず息を飲む。


「わたしは、わたしに出来ることの全てを用いて、セナ様を蝕む毒を抑えます。治すことはできなくても、それくらいならできるはずですから。だから、ウェインさんもあきらめないでください」

「…………」

「勝手なことを言っていると、重々承知してます。ですが、わたしにできることはそれだけ……わたしにとってセナ様はとても大事な存在なんです。もしこの命を用いることで救えるのなら、捧げるのも(いと)いません。だから、」

「――命まで懸けられるのはさすがに困るぞ」


 そこまでしても救いたいと願うことを軽んじたりはしないが、ふと我に返ってウェインはアリシアの額を指で弾いた。

 反射的に目を瞑り額を押さえた彼女に、ウェインは眉を下げる。


「お前が死んだら、セナちゃんはどうすればいい? 〈魔王〉として行動を起こした切っ掛けは、アリシアちゃんなんだってセナちゃんは言ってた。お前の存在ってのはセナちゃんにとってお前が思うよりもずっと、大きいんだ。それなのに目覚めた時アリシアちゃんがそこにいなかったら、セナちゃんはどう思う? ……考えられるなら、もう口にしちゃいけない」

「ですが……」

「アリシア、我もこやつと同じ意見だ。セナを救うためならば、命を懸けることすら厭わぬまでのその心意気は認めよう。だが本当にセナを思うなら、命など容易く差し出してはならぬ。巫女として、ルーベル一族の娘として、最後まで〈魔王〉に寄り添うことが正しき従者の在り方と心得よ」


 ウェインに続くように、翼を羽ばたかせながらアリシアへとルキフェルが語りかけた。アリシアは赤の眼でルキフェルを見上げ、唇を真一文字に結んでいる。


「生きろ。生きて己に出来る全てをやり遂げよ。他者の命を重んじる貴様だからこそ、己の命を軽んじる行為はあってはならぬ。他者の為に動き、愚かしいまでの人の良いセナのためと心より献身を見せようと言うのなら、なおのことだ。良いな?」

「…………はい」


 僅かに視線を落とし、小さく頷く。

 まだ釈然としていない様子のアリシアだが、ウェインにかけられる言葉はない。

 だがふと浮かんだ疑問を、いい機械だとそっと投げ掛けた。


「セナちゃんもそうだけどさぁ、命を懸けるとか、どうしてそんなに必死になれるんだ? セナちゃんが〈魔王〉だからか?」

「――いいえ」


 ウェインを見上げてほんの少しだけ眼を丸くしたアリシアだったが、すぐに緩やかに顔を横に振った。


「わたしがセナ様のためならば命さえ捧げられるのは、決して〈魔王〉様だからではありません」

「じゃあなんで?」

「――〈魔王〉様が、()()()だからです」


 それは、同じようで違った。そこに込められた意味は、ウェインが投げ掛けたものとアリシアの答えとでは大きく違ったのだ。

 薄く微笑むアリシアに、ウェインは口許を緩め、思う。


「そっか、セナちゃんだから、か」


 ――わからない、と。

 溢れそうになったその一言を飲み込んで、背を向ける。

 今は聖奈の体を蝕むルファナ毒を取り除くため、解毒剤に必要な素材を探し出さなければならない。そんな免罪符があったから、ウェインは理解のできぬ事柄から目を背けた。





 野宿に使った場所から発ち、ウェインが足を運んだのは山道から逸れた山奥への道だった。


「どこに向かうんですか?」

「解毒剤の素材を集めに、一般人はほとんど入らないだろう場所。俺もハニエルとしか入ったことはない」


 小走りに追い掛けてきながら小さく首を傾げるアリシアに、ウェインは答える。

 猛毒の解毒となれば、必要な素材は探し出すことも困難なものばかりだが、ルファナ毒の解毒に必要な素材の多くは意外と採取がしやすい。

 だがひとつだけ、厄介な材料があった。


「解毒剤の材料であるリンデスの花、アイウィ草の根、フルファの雫。この3つは結構探しやすいんだけど、あとひとつ、クルフの果実が厄介なんだ。まず人が入らないような場所でしか見付からない」

「ふむ、つまりそのクルフの果実を採取するためにわざわざ獣道を進んでおるということか」


 確かめるように投げ掛けるルキフェルにウェインはしっかりと頷き、けれど眉を寄せた。


「……まだそこにあるかもわからないけどな」

「というと?」

「クルフはほんの僅かな生態系の変化でも、敏感に察知して枯れるんだ。だから今行こうと思ってる場所も、人の手が入って環境が変化してたとしたら、おそらく……」


 そもそもとしてクルフは豊かな土壌、汚れひとつない清水と適度な陽光と月光、吹き抜ける穏やかな風、それら全てが揃わなくては成長の見込めない植物だ。最悪の事態も既に覚悟の上なのだが、代替の素材を集める手間を考えるとほんの僅かな可能性だとしても賭けるというのがウェインの結論だった。

 おうむ返しに聞き返したルキフェルが、渋面で黙り込む。

 無理もないだろうな、と今のウェインはルキフェル(ぬいぐるみ)にも寛容だった。

 何故なら薬師という職業について、ヒトは知識が無さすぎるものだと知っていたからだ。

 医師たちが使う薬品も、当然薬師たちが手ずから調合したものであるが、そのために要する苦労をヒトは知るすべがない。それ故に中には薬師たちを魔法使いのようとも称するが、現実に彼らが行っているのは採取と栽培という地道な作業だ。

 たとえそれが希少な素材だったとしても、必要であれば自らの足で赴き、最低限摘んで調合する。全ての植物に効果を発揮するような栄養剤や肥料があるわけでもないのに、時に素材となる植物の栽培にも試みなければならない薬師には、生半可な気持ちでなれるものではないとウェインは変わり者の天使を間近で見て知っていた。


「ま、それでも行きもせずに諦めるにはいかねえからな。落ち込んでるなよ? 鬱陶し――」


 と、不意にウェインの耳に自分達のものとは違う、葉擦れの音が届く。

 まだ微かな音ではあるが、元々静かな森の中で聞こえてくれば気付かない者は一人としていなかった。

 立ち止まり警戒するウェインの耳に、続いて聞こえてきたのは地面を蹴る音。規則的なその音は、駆けるようで――刹那、右手からソレは飛び出した。


「グルァッ!!」


 吠えるような、唸るような声と共に飛びかかってきたのは、黒い毛並みの中型の狼。

 鋭い牙を剥き出しにするようにして、大きく開かれた口。黄金に煌めく双眸には、明らかな害意と敵意を宿している。

 狼の狙いは、ウェインだった。

 首もとに食らい付き噛み千切らん勢いの狼を前に、聖奈を背負うウェインは反応が遅れ、避けることが出来ない。

 僅かな焦燥に目を見開くが、次の瞬間、目の前に迫っていた黒い狼は横へと吹っ飛んだ。


「ただの魔物じゃないっぽいんだけど」


 平淡な声で言うのはラピス。

 黒狼を吹っ飛ばしたのは、躊躇いなく振り抜かれた彼の足。片足を上げた姿のまま、ラピスは眉をひそめていた。


「悪い、助かった」

「別に。それで、なにこいつ? ウルフより一回り以上大きいし、黒色のなんてこの辺に棲んでたっけ?」

「……いえ、この狼は魔物ではないと思います」


 不安定は承知しながら片手をホルスターにおさめた銃へと伸ばすウェインと、ナイフを引き抜いたラピスの背に隠れるように立つアリシアがはっきりと呟く。

 彼女の言葉を肯定するように、ルキフェルが口を開いた。


「この狼からは魔力を感じる……ただの狼に魔力を注ぎ、眷属としたか……いや、違う。これは……!」


 木の葉や土で体を汚しながらも黒狼が立ち上がるのは早く、低く唸りながら牙を剥き出しにする。そのまま再度ウェイン目掛けて襲い掛かろうとした黒い狼だが、そこで動きを止めた。

 理由は、響き渡った声だった。


「お止め、ガルム」


 凛、と強く響くも荒らげられてはいないその声に、ガルムは唸るのすら止め振り返る。

 倣うようにウェインたちもそちらを見ると、そこには確かに人影があった。

 長い真紅の髪に、翠緑の眼。特徴的な帽子を被るのは、女性だ。二十代も中頃に差し掛かるであろう、遠目からでもわかる美貌の持ち主。

 女はしばし険しい顔で黒い狼を見ていたが、不意にウェインたちへと視線を移すと、楽しげに眼を細めた。


「あら、珍しい。こんな場所に人がやって来ることもだけど、実に面白い取り合わせだわ」


 その時、女の言葉でウェインはあることを思い出していた。

 ある日、ハニエルと交わした会話だ。当時は軽く受け流し、更に言えば笑えない作り話をされた、としか思わなかったのだけれど。


『ウェイン。もしこの先、《ユディス山脈〉に広がる森へと入ることがあったら、気を付けなさい』

『は? 毒草ならほとんど覚えたけど』

『それも危険よ。でもね、ソレ以上に厄介なのが暮らしてるのよ。いい? 決して大袈裟ではないと胸に刻みなさい。もし、ユディスの森で女の人を見掛けたら、迷わず逃げるのよ。おそらくそれは…………』


 顔が強ばっているのが自分でも分かる。目を見開き、喉を震わせる事さえ上手くいかない。

 それでも小さく小さく、唇から音が溢れた。


「――〈紅蓮の魔女〉……!」


 呆然と呟くウェインの声が聞こえたのか、女は眼をしばたかせ、それからにっこりと笑う。


『それは、〈魔女〉。人間でありながら人間とは違う存在だからね』



22/4/29

不手際により後半部の本文が抜け落ちていました。

現在は抜け落ちた部分を追加したものになっております。

大変申し訳ありませんでした。


隆夜零

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