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36.こうして彼らは飛び出す


 ようやく宿に戻ると、聖奈たちは当たり前のようにウェインとラピスにあてがわれた部屋へと向かった。

 真っ直ぐにソファの上に置いたバッグを開けば、隠れていたルキフェルが飛び出す。横目でそれを眺めて口元を緩ませたのも僅か。ソファに腰掛けた聖奈の腕は、目の前から伸びてきた細い手に取られた。


「……いっ!」

「これほど深く切られていれば、痛むのは当たり前です! ご自身でもご覧になってください。布もお洋服の袖も、真っ赤じゃないですか!」


 情けなく悲鳴を上げかけた聖奈をぴしゃりと咎めたのは、外套を脱いで眉をつりあげ怒りを示すアリシアだ。

 止血のために巻きつけられた布を丁寧に外して、彼女はそれを聖奈に見えるようにと突き出すように持ち上げた。

 聖奈はそれを眺め、


「うぇ、血濡(ちまみ)れ……」

「ええっ、何ですかその反応?」


 思いっきり顰めた顔を背ける。

 途端にアリシアが驚いたような声を上げたが、聖奈にとっては当然の反応だった。

 覚えている限り、過去にも此処までの怪我を負ったことはない。さらに言えば、誰かが大怪我を負った姿を見たことも当然ない。あちらの世界であれば、大多数の人間がそうであろう。

 故にやっと落ち着ける場所に戻れた聖奈にとって真新しい血で染まった布と、それと傷口周辺から漂う鉄のような独特の臭いは、到底受け入れられるものではなかった。


「いやだって仕方ないんだよ、これまでに此処まで酷い怪我したことってないし、病気もしたことないし。遺跡での時も気分は、うぅ……やっぱり血の臭いって好きじゃない……」

「血の臭い好きなのってヴァンパイアくらいだろうから、それは正常だわ。不思議なのは、戦ってる時は平気そうってことだよなぁ?」


 ソファの後ろ側から背もたれに片肘をつき、不思議そうな視線を寄越すウェインに、聖奈は目をしばたかせる。

 言われてみれば確かにそうだ。何故あの時は臭いを気にしなかったのだろう? 流石に血飛沫を見たときには血の気は引いたし、負わせた怪我の具合に関しても気が気ではなかったのだけれど。

 どうしてだろう、と首を傾げると、ウェインは困り顔で苦笑した。


「やー、そんな顔されてもセナちゃん本人がわかんねーなら、ウェインさんもわかんねーわ」

「だよねぇ」

「でもそういうとこ好きー」

「私はウェインのそういうとこきらーい」

「フラれたー!」


 がっくりと背もたれに突っ伏したウェインは無視しておく。どうせすぐに復活するのだ。ほら、恨みがましい視線を寄越してきた。

 くすくすと微笑んでいると、患部に暖かな温もりを感じてそちらを見ると、両目を伏せてアリシアがかざす手のひらから、淡い光が溢れ出している。その光に包まれ、ふわふわと漂う光の粒子が触れる裂傷がみるみるうちに塞がれていた。

 光の正体は、アリシアが得意とする回復魔法だ。原理としては生物の持つ自然治癒力の促進とのことだが、ルキフェルやウェインによれば、対象の負った傷を跡も残さず癒すまでの回復魔法は、それを扱える者全てが使えるわけではない優れたものであるらしい。

 つまり、アリシアの回復魔法は熟練した治癒士に匹敵するものだという。

 手放しに誉められた彼女は、わたしなんてまだまだです、と真っ赤になりながら否定していたが、治療を受ける側になって改めて凄いものだなと感じた。


「……これでおしまいです」

「ありがとう、アリシアちゃん」


 小さく息を吐き、目を開けたアリシアに聖奈は微笑む。

 そっと患部を撫でるが、当然傷跡も残っておらず、違和感も無ければ痛みもない。回復魔法とは本当に凄いものである。

 とはいえ回復魔法が使える者は魔族や神族に多く、人間の使い手は一握り。その少ない中のほとんどは聖職者であり、国に仕えていることもあって平民が回復魔法の恩恵を受けることは少なく、一般的には医者か、はたまた薬師が頼られているそうなのだが。


「血が苦手なのでしたら、無茶をなさらないようにお願いしますね」

「肝に銘じておきます……。でも、なんで平気だったのかなぁ……」


 眉を顰め、心配そうに見詰めてくるアリシアに心底から言って、ぼそりと呟く。

 すると、ルキフェルが目の前のテーブルに悠々と降り立ち、聖奈を見上げた。


「それは貴様の気の高ぶりが原因であろう」


 腕組みをして仁王立ちした姿で言ったルキフェルに、まばたきを数回。


「…………興奮してた覚えはないけど」

「当たり前だ! あの状況で興奮する者が後継者であったなら、我は自害をしておるわ!」

「私だって自分の新たな性癖がそんなんだって判明したら生きていけないよ!」


 というか、血臭で興奮する性癖ってなんだ。変態じゃないか。

 仮定としてそんな人間を想像して、気持ち悪さに身震いする。真横からはそれはちょっと厳しいなー、という声が聞こえた。たぶん誰だってダメだと思う。

 ルキフェルは気を取り直すようにわざとらしい咳を挟むと、じっと聖奈を見据えて口を開いた。


「あの場での貴様は、無意識的に力を引き出していた。結果、力に僅かばかり酔っていたがために、正常時とはズレた感覚だったのだ」

「力への酔い……?」

「精神が未熟な小娘が不相応な力を得れば、その強大さに飲み込まれるのは道理。いつかに我は貴様に問われ、答えたな? 〈魔王〉の力は存在するが、今の状態では暴走し命を落としかねんと。つまりは先の出来事でも、我がいなければ貴様は今頃立派に殺人鬼の仲間入りしていたところだ」

「すっごく怖いことをさらりと言わないでいただけます!?」


 聞き捨てならない単語に、聖奈は思わず叫んだ。否、叫ばずにはいられなかったと言うべきか。

 ただ、さっきまでの〈紅牙の蛇〉に身を置く者達との戦いの中で、聖奈は無意識に〈魔王〉の力を引き出していたらしいことは分かった。なるほど、となると自分でもよくわからないような馬鹿力や身のこなしはそれによるものだったのか。納得だ。

 けれど、幾つか疑問もある。


「でも無意識とはいえ、なんでまた私は唐突に力を引き出せるようになったの? それに、ルキフェルが関係してくる理由もわからないし……」


 小さく首を傾げながら問い掛けると、ルキフェルはふむ、と頷く。


「力を引き出せるようになったのは、街道でのことが切っ掛けであろう。魔剣を顕現出来たのだ、その感覚が脳のどこかに記憶されてもそうおかしくはあるまい」

「じゃあ、そこにルキフェルが関係してくる理由は?」

「…………」


 そこで、ルキフェルは押し黙った。

 組んだ腕を解き、片手を口許にやって渋面を浮かべる。

 考え込む彼をじっと見詰めて答えを待っていると、やがてルキフェルは呟くように答えた。


「――我にもわからぬ」


 と、紡ぎ出された答えは敗北宣言にも等しい一言だった。

 これ以上の思考は無駄であるかのような切り捨てに、ポカンとする聖奈の隣で、ウェインはルキフェルを半目で見る。


「……使えねぇ」

「っ!」


 刹那、ルキフェルがテーブルを蹴って飛翔し、ウェインへと襲い掛かる。応戦するようにウェインが立ち上がり手を伸ばした。

 聖奈はまたかと溜め息を吐き、止めることはひとまず放棄して、くるりと部屋の中を一瞥する。


「……あれ、アリシアちゃんは?」

「風呂場。落ちるかわからないけど、あんたの腕に巻き付けてあった布をすすいでくるって」


 くるりと見渡してもアリシアの姿が見えないことにひとりごちると、それに答える声がひとつ。ラピスだ。

 彼は部屋の真ん中でぽつんと立ち尽くしていた。それでいて何かを警戒しているようでもある。


「どうかしたの、ラピス?」


 不思議に思いながら問いを投げ掛けると、彼はチラリと聖奈を見た。

 金の双眸はしばらく向けられていたが、ふと逸らされると、ラピスは眉をつり上げて口を開く。


「……そこの青髪。わりと遊んでる場合じゃないと思うんだけど」


 ラピスが呼び掛けた相手は、ウェインだった。

 呼ばれたウェインは、ルキフェルの顔面を片手で掴み上げたまま、面倒臭そうに振り返る。


「なんだその青髪って。名前で呼べ、名前で」

「危機感無さすぎてぬいぐるみと遊ぶような奴を、名前で呼びたいとは思わない」

「てめぇこのやろう……! 誰が遊んでるってんだよ、誰が」


 不満げに怒気を滲ませるウェインだが、端から見る感想としては、ラピスの言葉がそれほど間違っているとは思えなかった。

 ツン、と興味の無さそうに顔まで背け素知らぬ態度を貫くラピスに、ウェインは鷲掴みにしていたルキフェルをソファに投げ捨て前髪を掻き上げた。


「……お前に言われなくてもとっくに気付いてたっての。その上で言っておく、じたばたしても仕方ないってな」

「仕方ないって……仕掛けられるより、先に仕掛けた方がいいに決まってるだろ」

「果報は寝て待てってやつだ。急いては事を仕損じるとも言うか」

「呑気な考え方だな……」

「お前は焦りすぎだ。その結果が失敗だったってのを忘れんなよ? 見え見えの罠に引っ掛かりやがって」

「…………」


 再びウェインに襲い掛かろうとするルキフェルを両手で捕まえて、聖奈はウェインとラピスの会話に耳を傾ける。

 会話の内容はよく分からない。だが何かが迫っているということ、それに対して二人の意見が相違しているということは伝わってくる。

 割って入ることの出来ない聖奈は、膝の上に乗せたルキフェルをなんとか宥めることを優先し、小難しい判断は彼らに委ねた。


「適材適所ってやつだよねぇ」

「であれば、貴様に適した事柄とは何なのであろうな」

「貴方がそれを言いますか、貴方が」


 足を引っ張ることの方が圧倒的に多いことに自覚はあるからこそ、さらりとそれを良い放った猫のぬいぐるみの頬を、聖奈はぐいぐいと引っ張る。途端に暴れ始めたが、気にせずぐにぐにと引っ張り続けてしばらく。


「ラピス、タオルを濡らしてきたので頬にあてておいて下さい。腫れのひきが早くなると思います」


 柔らかな声音を響かせながら、アリシアが脱衣所と繋がる扉を開き戻ってくる。

 彼女は鮮血を限界まで吸って真っ赤に染め上げられた布とは別に、タオルも持ち込んでいたらしい。水にさらして丁寧に濡らされたそのタオルをラピスに押し付けるように手渡した。

 頬に強烈な拳を受けることになったというラピスだが、本人の申し出で回復魔法による治療は受けていなかったのである。


「アリシアちゃん、血汚れ落ちた?」

「完全には無理ですね……セナ様。セナ様のお召し物も後で綺麗に洗濯しましょう。さすがに血染みは目立ちますから」


 微笑を浮かべながら告げるアリシアに、聖奈はしっかりと頷き立ち上がった。同時にさんざん頬をぐにぐにと引っ張りまわしたルキフェルが、好機と言わんばかりに膝の上から飛び出し、中空に浮かぶ。


「それじゃ、私たちは部屋に戻るね」

「あ、ちょい待ち」


 バッグを手に取り部屋を出ようとした聖奈とアリシアは、ウェインによって引き留められる。

 振り返ると、呆れたように肩を竦めるラピスの傍で彼はアクアマリンの双眸を細め、にんまりと笑った。


「ちょっと試しに仕掛けたいことがあるんだ。悪いけど、付き合ってもらえるか?」


 聖奈はアリシアと顔を見合わせ、向き直るとじとりと彼を睨み付ける。


「また寂しいー、とか言って同じ部屋で寝ようとしてるとかじゃないよね?」

「あったり前だろー。さすがに私情に満ちた提案はしないって。今回はセナちゃんを抱き枕にしたいって提あ、ごふっ!?」


 にまにまとしながら語り出したウェインの言葉を阻んだのは、彼の頬に豪速球で襲い掛かったアリシアがラピスにと手渡した水濡れのタオルだった。

 見事に命中したことに、アリシアがナイスです、と嬉しそうにガッツポーズを取ったのは言うまでもない。



 * * *



 ――時は過ぎる。

 時刻は深夜。月がもっとも強く輝く頃。静まり返った街を音もなく駆け抜ける人影が複数。

 彼らが向かった先は一軒の建物。

 施錠された扉を慣れた手付きで開け放ち、音もなく人影は侵入する。

 屋内に入ってもその行動は迅速だ。目的の場所に辿り着くと、彼らは周囲を警戒しながら扉を死角より包囲し、ドアノブに手を掛けた。

 その者らの前で鍵は意味をなさない。入り口の扉と同様に嘘のようにあっさりと、それでいて極力音を立てないように開かれたドア。

 滑り込んだ彼らがまず視界に捉えたのは並んで置かれたベッド。事前に見張らせていた報告の通り、四つのベッドは全てに膨らみがある。

 人影はほくそ笑みながら更に歩を進め、最後の一人が開けた場所に踏み入った直後。


「なるほど――まだまだ小手調べって感じか」


 何処からともなく聞こえてきた声。

 弾かれたように声の主の居場所を探す彼らだが、次の瞬間には最後尾にいた人影が床に叩き付けられた。

 振り向いた彼らは、それをしたのが対象(ターゲット)の一人である青年だと気付く。

 だが困惑による僅かなタイムラグは致命的だった。


「バカにされてるってだけだろ? これが小手調べの駒だとは思いたくない」


 目の前に落ちてきたのは、やはり同じく対象(ターゲット)の一人である少年。月明かりに煌めく(プラチナ)がふわりと揺れたかと思えば、後頭部に素早く強く打撃を加えられ、次々と倒れていく。


「そらそーだ。ついでに言えば、第六感的なところでこいつらはお前より劣ってるんじゃねえ?」

「……どうだか。そこまでは思わないけどな」


 青年が床に押さえつけるそいつの頭を抜き出した銃の底で殴りつけ意識を奪う頃、部屋には冷たい夜風が吹き抜けた。

 開け放たれた室内唯一の窓の前には、対象(ターゲット)の少女達。身支度を済ませ、青年と少年の荷物も手にする彼女達のその傍らには、使い魔らしき猫のぬいぐるみが浮かんでいる。


「準備できたけど、どうするの?」

「どうもこうも、選べる選択肢はひとつしかないだろっ!」

「へ……? じょっ、冗談でしょっ!? ちょっ、まっ!」

「しっかり掴まってろよ!」

「えぇええええっ!?」


 駆け寄った青年が、流れるように荷物を身に付け黒髪の少女を抱え上げる。暴れる間もなく勢いよく窓から飛び出した青年に、少女はしがみつくしかない。


「っと!」


 青年が軽やかに着地したのは、真向かいにある建物の屋根。

 空を切る感覚から解放された少女は、彼の腕の中でキッと眉をつり上げる。


「こ、こんなに危ないことをするなんて聞いてないっ!」

「だって言ったら筒抜けかもじゃんかー? そしたらずっとつけられる可能性もあるしな。てかしゃべってると舌噛むぞー?」

「そんなこと言われてって怒らずにはいられにゃ……っ、いったー!」

「ほれみろかわいく噛んだ」


 抱えあげるがっつりと噛んでしまった舌の痛みに震える少女を見て、軽快に笑いながらも屋根を跳んで渡りながら突き進む青年の傍らには、使い魔が背の翼を羽ばたかせて並走する。後方から追走には、フードを被った淡い緑色の髪をツインテールに結わえた少女を抱えた(プラチナ)の髪の少年。

 住民達のほとんどが眠りにつき、静寂に包まれた街の建物の上を駆け抜ける彼らを見詰める二つの眼があった。

 それは、いましがた彼らが飛び出した建物――宿の屋上から向けられている。


「いやはや思いきったことを……まったく、あれほどまでに()を突き動かすのは一体何なのでしょうねぇ。けどまあ、私にとっても()()()にとっても、これは――面白くなりそうです」


 と、星月に照らされひとりごちるスーツ姿の優男の顔は、酷く愉しげに歪んでいた。



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