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32.奴隷の魔族


 聖奈の言葉に、男は黙り込んだままだった。

 目の前の光景を俄かに信じられないと、向けられる眼が訴えかけている。

 だがそれでも話しを聞いてもらえているのは、間違いなく信じがたいと思いながらでも此処にあるルキフェルのおかげであろう。


「いま、お話とか大丈夫ですか? ダメようなら、夜にでも出直しますけど……」


 魔族の男の視線が、ちらりと裏口へと向けられる。

 開け放たれたままの扉からは薄暗い物置きのような空間がまず広がり、さらに扉を挟んで奥には清潔感の漂う部屋と繋がっているのが分かる。


「……この時間は店主も店先に立ちっぱなしですから、誰かが来ることもないですけど……この荷物を中に運ばないといけないので……」


 ちらちらとすまなそうにこちらを窺いながら、男は重そうな箱を数個重ねて持ち上げ、ふらつきおぼつかない足で屋内へと運び入れていく。

 運ばなきゃならないという荷の数は、目視でもかなりの数だ。しかも男の運ぶ速さでは、かなりの時間が掛かることだろう。そうなれば落ち着いて話せる時間もかなり短くなってしまう。

 聖奈はちらりとウェインを見上げた。


「ウェイン」


 それだけで彼は何を言いたいのか理解し、ほんの少しだけ顔をしかめる。


「……俺、なんか損してねぇ?」

「つべこべ言わず馬車馬の如く働くがいい」

「踏み潰すぞぬいぐるみ」

「喧嘩しない。ルキフェルも煽らないの」


 睨み合うウェインとルキフェルに呆れ返りながら窘め、中空の浮かぶルキフェルを両手で抱えて、聖奈は眉を下げた。


「ごめん、ウェイン。お願い出来る?」

「しゃーない。セナちゃんの頼みなら頑張っちゃいましょう」


 薄く笑って腕捲くりして見せると、ウェインはなおも荷物を運び入れる男の手から早速荷物をそっと奪い取り、持ち上げる。

 突然の出来事に、戸惑う男の口からは酷く戸惑ったような吃った声のみが零れた。


「あ、あの……!?」

「いいから、アンタは彼女たちと話ししてろ。適当に運び入れさえしておけば問題ないんだろ?」

「は、はい!」


 こくこくと何度も頷く魔族の男の横を通り抜け、ウェインは軽々と荷物を運び入れて行く。それをせっせと繰り返すウェインを眺めるのもそこそこに、聖奈は口を開いた。


「お話、いいですか?」


 投げ掛けた言葉に魔族の男が振り向き、頷く。

 その顔はやはり強張っていた。気付いたルキフェルが、半目で彼を見据える。


「怯えるでない。何も取って食おうというわけではないのだぞ?」

「それはそうなのですが……すみません……」


 びくりと肩を竦めた男は、罰の悪そうに視線を彷徨わせ、顔を伏せた。

 こちらに危害を加えようという気配がない事は分かっていても、どうしても恐怖が抜けないのだろう――聖奈とウェインという人間への恐怖が。

 だがそれも無理はない。昼間のように晒し者にされるような時さえもある奴隷生活を続けていれば、精神性に異常をきたしてもおかしくはないのだから。


「謝らないでください。人間と神族がしてきたことを考えれば、それも仕方ないんですから」

「ですが……」

「大丈夫です。貴方がお話を聞いてくださるというだけで、助かっていますし」


 それは、この子のお陰なんでしょうけどね。

 付け足しながら抱え込むルキフェルに視線をやると、彼は当たり前だと言わんばかりに軽く胸を張った。見た目だけなら本当に愛らしいぬいぐるみである。

 小さく笑みながら視線を戻すと、目の前の男もルキフェルを見て僅かな微笑を浮かべていた。可愛いは老若男女も無関係であるようだ。


「話に入る前に自己紹介をさせてください。私の名前はセナ。この子がルキフェルで、荷物を運ぶのを頼んだ男の人がウェインです」


 その瞬間、男が瞠目した。驚いた顔で、見つめる先はルキフェルだ。

 それすなわち、彼の言わんとしていることはすぐに分かる。


「偉大なる先代魔王様の御名(みな)……名付けは、貴方が?」


 おずおずと尋ねる男に、聖奈はどう答えたものかと迷った。

 腕の中でルキフェルが落胆し、ぶつくさと文句を言っているが、それらは無視させてもらおう。


「えーっと……、いろいろ事情がありまして……」


 我ながらしどろもどろな答えではあるが、未だルキフェルは自称・先代魔王であるし、聖奈自身の経緯を話すわけにもいかない。

 眉を下げて笑みを貼り付けての答えに、魔族の男はしばらく口を閉ざし、やがてふっと表情を緩めた。


「無理に聞き出すつもりはありません。その名は我々魔族にとってはとても尊き名というだけですから……」

「ありがとうございます」

「感謝される程の事は……。ああ、すみません、名を聞いておきながら名乗りもせず。僕はアーノルドといいます」


 軽く会釈をする男――アーノルドに、慌てて聖奈も頭を下げ返す。

 顔を上げた時には、彼の顔からは随分と緊張や怖れも消えていた。そのせいか、言葉もすんなり口から出ている。

 聖奈はほっと安堵しつつ、だがすぐに表情を引き締めた。


「それで、あの、アーノルドさんは……この店の店主さんに買われた……」


 奴隷なんですよね、と本人に尋ねる勇気を持ち合わせてはいなかった。

 たとえそこに蔑みの感情は存在しなかったとしても、面と向かってそれを口にする事は失礼極まりなく、それこそ差別なのではないかと、何かが歯止めをかけたのだ。

 はっきりと告げられずにまごついていると、アーノルドは柔らかな表情ではっきりと頷いた。


「ええ、()()です。もう数年は前になりますが、人間と神族による首都侵攻の折に捕らえられまして……その後、公開での売買が行われましてね。格安で売られましたよ」


 こともなげに昔を語るアーノルドに、胸が痛む。

 こうまで冷静に語れるようになるまで、彼は何度悔しい思いをしただろう。劣悪な奴隷商による売買ではなさそうなのがせめてもの救い、などとは聖奈には決して思えない。

 奴隷という身分が存在する時点で、世界は歪んでいるのだから。


「……ごめんなさい、嫌なこと語らせてしまって」

「いいえ、もう心の整理はついていますから……」


 ふるふると顔を横に振るアーノルドの顔には、諦めの色が浮かんでいた。

 もう死ぬまでこの生活を送るしかないのだろうと、かつてのような自由は望めないのだろうと、彼の表情は静かに語っている。

 そんなこと、許されてはいけないのに。あってはいけないのに。

 聖奈は奥歯をぐっと噛み締める。


「逃げようと思ったことはないんですか……?」

「……ありますよ。けど、出来ないんです」


 そう言って指し示したのは手首に取り付けられた金属製の輪。

 腕輪とも呼べる、ちぎれた鎖のついたそれとアーノルドの顔を交互に見ていると、彼は眉尻を下げた。


「両手両足につけられたこの輪には封魔の効力があって、上手く魔力を扱うことが出来ないんです。それに加えて、奴隷たちは体の何処かに魔力による紋章も刻まれてまして、契約主による破棄がない限りは反抗はおろか逃げ出すことも許されていません」

「そんな……」

「……一度奴隷となれば最後、死ぬまで奉仕し続けるか。紋章も刻まれず、封魔の拘束を与えておらぬとしても、手向かえば死あるのみ。なるほど、嫌になるほど徹底しておるな」


 言葉を失う聖奈に代わり、ルキフェルが忌々しげに呟く。

 これが、今の奴隷たちが受ける仕打ち。日毎(ひごと)、希望も失い生きていても辛く苦しいだけなのなら、死した方がマシなのか。そう考えてしまう程には彼らは雁字搦(がんじがら)めだ。


「自分で命を絶つことは出来ない。もちろん逃げ出すことも出来はしない。けど僕は幸せなのだと思います。雨風をしのげる場所で、質素とはいえ食事も与えてもらえる……」

「けどそれは、ヒトに対する行為じゃない……!」


 聖奈は絞り出すように、声を抑え、それでも叫ぶ。

 そんな決して幸せではない日々を、幸せと語らないでほしい。

 確かに雨風をしのげ、食事の不安もないことは幸福と言えるだろう。だが、そこには自由はない。望まぬことを強いられ、理不尽に虐げられ蔑まれる。

 それは幸せと決して言うことは言うことは出来ない。否、認められない。


「目の前で死なれるのは嫌だから、けれど好き勝手にされるのも嫌だからと、身勝手を押し付けられてるだけだもの……っ! そんなのは幸せなんかじゃないです……!」

「………………そう、かもしれませんね」


 たっぷりの沈黙の後、アーノルドは小さく答える。見れば、彼は寂しげに微笑んでいた。


「ですが、二度と訪れることない時に思いを馳せるのはツラいものですよ。それに……」


 と、そこで言葉は切られ、間を置いて、小さくそれは紡がれた。


「それに、――もう、疲れました」


 静かに言い括るアーノルドを、聖奈は瞠目して見詰める。

 ――疲れた。その一言が、聖奈の心に重く響く。

 駄目だ。やはり、おかしい。善良な人達が苦しめられているだなんて、認めてはならない。それが当たり前だと思う世界共々。

 ルキフェルを抱く腕に、自然と力がこもる。


「……それで、セナさんはこのようなことを聞くために此処に?」


 問い掛けられ、聖奈はハッとアーノルドを見つめ直す。

 不思議そうな彼に、小さく笑みながらひとつ頷いた。


「そんな感じです。私、そういうことに疎くて……」

「なるほど。だからといって直接尋ねにくるとは……不思議なお嬢さんですね」


 くすくすと微笑みながら、アーノルドは言葉を付け加える。


「けど、気を付けた方が良いですよ。貴方も、使い魔を連れていると知られれば、捕らえられて僕のように奴隷として扱われる可能性もありますから」

「肝に銘じておきます。長居するのも失礼ですし、最後に幾つか尋ねても構いませんか?」

「え? ええ、構いませんよ」


 迷わず頷いてくれたことに感謝しつつ、聖奈はアーノルドに尋ねた。


「アーノルドさんは、人間や神族が嫌いですか?」

「嫌い、というよりも怖いですね……整理こそついていますが、やはりあの日のことを思い出してしまいますから」

「そうですか。あともうひとつ、」

「――セナちゃん」


 と、二つ目の問いをと口にしようとしたところで、第三者の声がそれを遮った。

 声の聞こえた方に視線をやると、ウェインが真剣な面持ちで佇んでいる。

 あれだけあった荷の山がないということは、全て運び入れたのだろうが、それを知らせるためだけに口を挟んだとしては少々様子がおかしい。


「お疲れさま、ありがとう。でも、何かあった、んだよね?」

「セナちゃんのお疲れとありがとうで俺の疲れは吹っ飛んだ。ただ何かあった、ってのは違うな。過去形じゃない」

「…………なるほどな」


 戸惑う聖奈とアーノルドをよそに、真っ先に何を言わんとしているのか分かったらしいルキフェルが、腕の中から飛び出し、羽を羽ばたかせて中空に浮かんだ。


「アーノルドと言ったな。貴様は屋内へと隠れ、息を潜め、耳をふさいでおくが良い。命が惜しければだがな」

「は……?」

「早くしろ。俺らが此処にいたこと、話したこと、全て夢と思い、目を逸らせ」


 ルキフェルの言葉にも困惑しきりのアーノルドの襟首を、ウェインが無造作に掴み、裏口から屋内へと投げ込むように体を動かした。

 聖奈はハッとしてアーノルドの襟首を掴むウェインの腕に手を伸ばし引き止める。


「待って! その前に最後にもう一つだけ質問させて!」

「…………急いでくれよ?」

「ありがとう!」


 これから何が起きるというのか、聖奈にはわからないが、表情を険しく変えながらも許してくれたウェインへの礼もそこそこに、アーノルドへと言葉を投げ掛けた。


「もし、もしも、この先、貴方が自由になれたとして、酷かもしれないけれど魔族がまた以前のような暮らしに戻れたとして、貴方はなにを望みますか?」


 うまく言葉にすることが出来ず、思わず歯噛みする。

 けれどそれでも伝わると信じて答えを待つと、アーノルドは一瞬だけ泣きそうな表情になりながらも答えてくれた。


「家へと戻り、真っ先に家族の墓参りを。骨も何もない墓ではありますが、あの日命を奪われた家族に、祈りを」


 自分でもとても酷な問いをしたと思う。

 彼は疲れたと言ったのだ。希望を信じて、救いを信じて生きることに、疲れていたのだ。だから今ある生を幸せと語った。それなのに希望的観測、机上の空想論でしかない、限りなく零に等しい自由な未来への望みを尋ねるなんて、この上無く酷いと思う。

 けれど、それに対してアーノルドは答えをくれた。それだけで、聖奈が前に進むための力とするには十分だ。


「セナちゃん、もういいな? そろそろ此処を離れねぇと……!」

「うん、無理言ってごめんね、ウェイン!」


 聖奈の言葉が終わるのも待たず、ウェインはアーノルドを裏口から屋内に投げ込んだ。

 雑な扱いに、軽く宙を舞ったアーノルドの体は奥の扉に当たり、物々しい音が大きく鳴り響く。

 その音は店先の方にまで聞こえたらしい。微かに店主の怒号が響いてきた。

 痛そうにぶつけた体を擦る彼が、店主の怒りまで受けてしまうことは申し訳なく思うが、ウェインとルキフェルの様子からは悠長に心配もしていられないらしい。


「アーノルドさん! その願い、叶えられるように頑張りますから!」


 せめて、と聖奈は声を張り上げる。

 弾かれるようにこちらを見たアーノルドの姿は、すぐさまウェインが裏口を閉じたことで見えなくなってしまった。

 余韻に浸る暇もなく、小走りで戻ってきたウェインの手が聖奈の手を掴んだ。


「走るぞ、セナちゃん!」

「うぇえっ!? わあっ!?」


 返事も待たずに駆け出すウェインに引っ張られ、おのずと足が地面を蹴る。

 そのまま全速力で裏路地を駆け抜ける彼の後ろ姿を見詰めながら、わけがわからないままに走る聖奈は叫んだ。


「う、ウェイン、何があったの!?」

「夕刻過ぎは裏社会の人間の時間だぜ?」

「それって……!」

「うむ、時間も場所も奴等にとってお誂え向きな状況のようだからな。セナ、貴様を、そして我等を始末すべく仕掛けてきたようだ」


 猛スピードで駆けるウェインと同じ速度を維持して、ルキフェルが空を羽で打ち、並走する。

 どうして路地裏とはいえこんな街中で? と、浮かんだ疑問の答えは考えるまでもなく。


「〈紅牙の蛇〉……!」

「正解! 言ったろ? 心配でついて来たって!」


 小さな呟きに、ウェインが高らかに答える。

 彼の空いた手には、いつの間にかホルスターから抜き出された銃が握られていた。


「そろそろセナちゃんを殺そうって動きは、場所も時間も選ばなくなってきてるかもしれないな」


 間もなく、暗く細い路地を抜ける。いつの間にか空に帳が落ち始め、眩しく夕日が照り付ける裏通り。


「見ろよ――今日仕向けられてるのは一人や二人じゃないみたいだぜ?」


 そこに飛び出した聖奈とウェイン、そしてルキフェルを待ち構えていたのは、ナイフを握り締めた見知らぬ男たち。

 彼らを捉えた聖奈の背中を、嫌な汗が伝った。



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