30.その理由はわからぬまま
大通りに戻り適当なパン屋で焼きたてのパンを幾つか買うと、ほどなく見える噴水広場に備え付けられたベンチで食べることにした。
店内や宿に戻って食べるという選択肢もありはしたが、店ではルキフェルに分けるのが難しく、宿ではこの後に立ち寄りたいところがある聖奈にとって二度手間だ。
広場で食べることを提案したのはウェインだが、聖奈自身にとっても、何よりアリシアにとっても良いことだろう。
再三ではあるが魔族であるアリシアは、人目につくと困る立場にある。そのため外を出歩くには外套を頭から被ってもらわなければならず、何があっても念のためという形で部屋にいてもらうことの方が多い。
それはとても窮屈なことだろう。彼女が不満をもらすことは今までもなかったのだからおそらくこの先もないのだとは思うけれど、だからといってそれで良いとも思わない。せめて少しくらいは街の中で過ごさせてあげたいと考えるのはごく普通の事だろう。
もっとも、窮屈な思いをしているのはアリシアだけではなく、ルキフェルもなのだけれど。
「そーいや、あのときハニエルに何て言われてたんだ?」
紙袋から取り出したパンを手渡し、各々で味わい始めて少し。真横に座るウェインが、思い出したように唐突に尋ねてきた。
聖奈は反対どなりにちょこんと腰掛けるルキフェルにパンをちぎって与えると、ちらりと見上げる。
「…………」
視線を受けたウェインは、不思議そうにアクアマリン色をした目をしばたかせていた。それにも構わず聖奈は彼をじっと見詰める。
ハニエルは言っていた、ウェインを信用するなと。だが同時に信頼はしてほしいと、信じて頼ってあげてほしいともハニエルは言っていた。
あれからずっと頭を悩ませているが、答えは出ない。それどころか聞き間違いだったんじゃないかとさえ思う。だが、だからといってそれらをそっくりそのまま伝えられる訳もない。
「どうした、セナちゃん? 大丈夫か?」
気遣うような声音に、ハニエルが何故あんなことを言ったのかわからなくなる。いっそ彼の言葉を疑いたくもなった。
この優しさが嘘ではないのなら、あの忠告は何の意味を持つのだろうか、と。
しかし、その全てを口には出来ない。だから、代わりに聖奈はにっこりと笑って見せた。
「うん、大丈夫だよ。ハニエルさんからは、ウェインのことよろしくねって頼まれただけ」
「……それだけ?」
「それだけだよ。あとは、ウェインは本当に心の優しいコだからー、とか」
「ああ、うん、それ以上は良いわ。あのカマ天使に褒められたってだけで鳥肌なのに、そんなのが続いたら耐えられなくなる自信ある」
ほれ、と捲った袖の下から覗く腕を見せられる。よく見れば確かに鳥肌が立っていた。
「ハニエルさんに褒められるの、そんなに嫌なの? 良い人なのに」
「良い奴と悪い奴とかではなく、オカマのおっさんに褒められるのが嫌なんだよ。昔っから可愛いだの何なの言いながら無理矢理抱きしめられまくったから、それも思い出してなお嫌だ」
「なんとなくそれはわかりそうというか……でもいい匂いだったし、安心もしたけどなあ。香水とかつけてて、お母さんとかお姉さんとかに抱きしめられてるみたいだった」
聖奈には姉はいない。だからそれはハニエルの容姿からくる例えであるが、店先で突然抱き締められた時に母の姿が過ぎったのは事実だった。
母はまだ健在だけれどそれでももうはっきりとは思い出せない、記憶の片隅にひっそりと残る幼い頃に母に抱き締められた時と同じ。優しくて、暖かくて、性別が違うせいか柔らかくはなかったけれど、それでもあの時と同じ感覚があった。
のだけれど、ウェインはそんな風には思わなかったらしい。
「……ねえわ」
声にしたのはたった一言だったが、信じられないものでも見ているかのように苦々しい表情からは、言葉以上の何かを感じた。そこまで嫌なのか。
もっとも、彼らは親しいようだし、要するにハニエルの抱き着き癖には苦手意識があるということなのだろう。
理解ができないといわんばかりの表情を隠すことなくパンを食べるウェインの横顔を、聖奈は苦笑を浮かべながら見詰め、ふと視線を移す。
その先には聖奈とウェインの座るベンチと少し離れて隣にあるベンチに座る、アリシアとラピスの姿。
元々世話好きなのだろう。パンにがっついたことで食べかすで汚れたラピスの口元を、アリシアがハンカチを取り出してそっと拭っている。その様子は、見ていてとても微笑ましかった。
「ウェインとハニエルさんって、どうやって知り合ったの?」
パンを一口サイズにちぎって食べながら尋ねると、ウェインは聖奈を見て、
「どうやってって言われると困るが、迷子になったとこを助けられた」
「迷子?」
「出会いのきっかけが迷子かとは、実に小僧らしい情けない出会いだな」
「噴水に沈めるぞ、ぬいぐるみ。ガキの頃だから仕方なかったんだよ。トレジャーハンターになるためにまさしく旅に出たばっかで、正直甘く見すぎてた。見事に迷ってたとこを偶然、薬草の仕入れに来てたハニエルに見付けられたんだ。それが最初」
催促ついでに口を挟んできたルキフェルにパンをちぎって渡して黙らせると、丁度一つ目のパンを食べ終えたウェインは紙袋の中から二つ目のパンを取り出し、ぱくりとかじりつく。
「それからずっと交流があるんだ?」
「はじめはハニエルのお節介だったけどな。トレジャーハンターになるんだって言ったら、しばらく自分についてきて、旅に慣れなさいってな。いい迷惑だって思ってたが、今となっちゃ感謝もしてる……ほんの少しだけだけどな」
「そこは付け加えなくてもいいんじゃない?」
たしなめるように言ってはみたが、返って来たのは嫌だの一言。
それは端から聞けば、なんとも恩を仇で返すようなものではあったが、ウェインにとってハニエルは気の置けない、それこそ遠慮なくなんでも言えるような存在なのだろう。
「……ちょっと羨ましいな」
聖奈にはそれが、少しだけ羨ましかった。
付き合いがまだそれほど長くないのだ、仕方ないのはわかっている。けれどもうすこし彼への理解があれば、きっとハニエルの言葉の真意を既に汲み取れたかもしれない、そう思ってしまうのだ。
小さな呟きは彼の耳には届かなかったのだろう。首を傾げたウェインに聖奈は曖昧に笑って首を横に振り、なんでもないと答えた。
* * *
パンを食べ終えていざ宿に戻ろうという時に、聖奈はある目的の為にウェインたちには先に宿に戻るように告げた。
どうしてなのかと尋ねるアリシアをなんとか言いくるめ、ウェインとラピスに彼女を頼み、逃げるようにして別れたのは少し前。
「……なんでいるの?」
そしていま聖奈は眉を顰めていた。
立ち止まり両手を腰にあてがい振り返った先には、当たり前のように佇む人影。きょとんと目をしばたかせる姿に、聖奈はため息混じりに口を開いた。
「アリシアちゃんのことを頼んだつもりなんだけど、なんでついてきてるの? ――ウェイン」
目の前にいるのは、紛うことなくウェインだ。
ラピスにもアリシアのことを頼みはしたが、彼のことも含めてウェインに任せてきたのに、なぜついてきてしまっているのか。
憤然とした面持ちで語気を強めるとウェインは納得したようにああ、と声をあげてにっこりと笑った。
「セナちゃんのことが心配だったから、追っ掛けてきた」
にこにこと屈託ない笑顔で、さらりと彼は言う。
言葉の通りに受け取っていいのなら心底嬉しい。あくまでも、受け取っていいのならだ。
実際のところの理由はそれじゃないだろう。それ以前にアリシアとラピスのことはどうしたのか。
「嘘は良くないと思う」
「そんなバッサリ! 喜べよー、ウェインさんからの好意ー」
「別に嬉しくないとは言ってないじゃない。ただ、アリシアちゃんとラピスのことを放って置いてどういうつもりなのかを尋ねたいだけ」
ぶー、と不服げに唇を尖らせるウェインを半目で睨み付けると、彼はやれやれと肩を竦めた。なんなんだその反応は。まるでしょうがないから折れてやるよと言わんばかりじゃないか。
ほんの少しの不満を感じながらもウェインの二の句を待つと、彼は静かに答えた。
「セナちゃんのことが心配ってのはほんと。まあ、兵士に喧嘩売るような子じゃないってのはわかってるけど、女の子の一人歩きは昼も夜も危ないことには変わりないからな」
「……一人じゃなくてルキフェルいるけど」
「揚げ足とりはやめろ。だいたい、ぬいぐるみに頼ってどうすんだよ。そうなりゃ逆にセナちゃんが取っ捕まえられるのがオチだぞ?」
呆れたように息を吐いたウェインが伸ばした指が、聖奈の額を弾く。
途端にじんわりと走る痛みに手で額を押さえた聖奈に、ウェインは言葉を続ける。
「それに、ラピスなら平気だろ。すっかりこっちに危害を加える様子が失せてる」
「でも、もしも何かあったら……」
「そのためにラピスにはナイフを預けてきた。万が一のことがあるかもしれないからな、そうなりゃアリシアちゃんに魔法を使わせるより、あいつに退けてもらった方がいい。もっとも、予想が正しけりゃあっちは無事に戻れそうだとは思うけどな」
どうしたのだろう? ずいぶんと含みのある言い方だ。
言いながら次第に渋面を作るウェインに、聖奈は首を傾げる。
とうとう思考の海に足を踏み入れそうになってハッと気付いたように聖奈を見ると、彼は目を伏せて顔を横に振って示した。
「なんでもない。杞憂で済めばそれでいいんだ、セナちゃんが要らんこと考える必要はない」
「なんか暗にお前に言っても仕方ないって言われてるようにも感じるんだけど」
「それはちっと悪い方に考えすぎだ。まだ確証がないから言わないってだけ」
困ったように眉尻を下げて微笑むウェインを、じっと見詰める。
彼にはそれが本当なのかと見定めているように見えるのだろう。困り眉のまま、こちらを見つめ返していた。
「ウェイン」
「ん? なんだ?」
「――信じるよ?」
その瞬間、ウェインは瞠目した。
アクアマリン色の美しい双眸を丸く見開き、ゆるやかに表情を優しく変える。
「おう、信じろ」
はっきりと答えた彼に聖奈は微笑んで見せると、ゆっくりと目的の場所へと歩き出した。
ウェインはすぐに隣に並ぶ。その横顔をちらりと盗み見て、聖奈は前に向き直った。
彼が聖奈の言葉に目を見開き、柔らかな表情へと変える直前。そこに一瞬だけ、困惑と戸惑いにも似た陰りが浮かんだことには気づかないふりをして。




