24.名が無き彼の名
聖奈がアリシアと共にウェインたちの部屋に戻ると、そこではとてつもなく賑やかな光景が広がっていた。
「こら! 動くな、逃げるなって! ああもう、まだ髪が拭けてねえだろ!」
ノックをしても声を掛けても返事はなく、ただただドア越しに物音と怒声が聞こえていて。恐る恐ると開けばなんとそこでは鬼ごっこ。
怒号の主はウェインだ。彼は部屋着姿でタオルを手に眉をつりあげて少年を追いかけており、逃げる少年は服は変わらないが、髪はしっとりと濡れていた。動く度に毛先から水滴が滴り落ちている。
ルキフェルは何も言わずウェインの近くに、背の小さな羽を忙しなく動かして浮かんでいるが、腕組みした姿を見るにウェインと似た心情で少年を見ているのだろう。
聖奈はアリシアに声を掛けて部屋に入ると、ソファに無造作に引っ掛けられたタオルを手に取り、ウェインを警戒してこちらに一切気付く様子のない少年の背後へと忍び寄る。
そのうちにウェインとルキフェルは気付いたようだが、
「はい、捕まえた」
少年が察した時には、聖奈は彼の頭に手にしたタオルをかけていた。
びくりと反応を示し、かと思えばじたばたと暴れ始める彼に構わず、聖奈は少年の頭をわしゃわしゃと拭いてやる。
「離せ! 離せってば……!」
「こーら、暴れないの! 上手く拭けないでしょう? ……ほら、おしまい」
なんとか拭き終えタオルを離すと、少年は聖奈から距離を取り恨みがましげな目を向けてきた。
彼の金の瞳からは僅かな怒気が読み取れたが、それよりも聖奈には気になることがあった。
見つめる先は、綺麗になった彼の髪。
「あなた、銀色の髪をしてたんだね」
「……っ!」
ぽつりと呟くように口にすると、少年の肩と金色の双眸が揺れた。
目の前の少年の髪は、洗われて本来の色を取り戻していた。
室内の灯りに煌く、落ち着いた、それでいて美しい銀。瞳の金とは対照的な色だが、その白い肌もあって見事に調和されている。
神族は見目がいいと聞いてはいたが、なるほど、確かに非の付け所のない整った容姿だ。
「灰色だとばかり思ってたから……、こんなに綺麗な色だったんだ」
「……」
「私は面白みのない黒髪だからなあ。眼だってもちろん黒だし」
「いいじゃないか、黒髪。かわいいぞ?」
「セナ様の黒髪、わたしは好きですよ?」
独り言のようなぼやきに、返って来たのは二つの声。
交互に見遣れば、さもそれが当たり前であるといわんばかりの表情で小首を傾げる少女と青年がいて、聖奈はなんとも表現しがたい顔になりながらも、二人にありがとう、と感謝の言葉を述べておいた。
複雑な心境ではあるが、気遣いが嬉しくはあるのだ。ただほんの少しだけ、虚しい気もするだけで。
視界の端でルキフェルが呆れ気味に盛大な溜息を吐いた。それからつい、と視線を少年へと向ける。
「……それで? 随分とおとなしくなったではないか。先程までの威勢はどうした?」
高圧的な物言いに反応を示した少年は、弾かれたようにルキフェルを鋭く睨みつけた。しかしそれだけ。ふ、とルキフェルから視線を外したかと思うと、ちらりと聖奈を見上げ、ぷいと顔を背けてしまう。
その様子は、確かにおかしかった。
ルキフェルは威勢、と言ったがこれまで彼にあった殺気のようなものがどうにも弱まっているような気がするのだ。
もちろん気のせいかもしれない。だが、訝しむルキフェルを見るに様子がおかしいことは間違いないだろう。
何か特別な事をしたり、言ったりした覚えはないのだが。聖奈は首をひねりながら少年を見詰めた。
「ほんで? 風呂に突っ込んで綺麗にしたはいいけど、どーすんだよ、そいつ?」
と、片手を腰にあてがったウェインが少年を見下ろして尋ねてくる。聖奈は睨み返す少年を見て、ウェインを見ると口を開いた。
「どうするも何も、最後まで面倒を見るつもりだけど」
「はあ!?」
途端にウェインの表情が歪む。
何言い出してるんだ、と言わんばかりに眉を顰め、それでいて言葉に迷っているのかしばらく口の開閉を繰り返していたが、すぐにじっと視線を向けてきた。
「……正気か?」
短い問いに、深く頷く。
「正気だし、本気だよ? 第一、このままさよならなんて出来ないじゃない。追われてるのは事実なんだし」
「そりゃそうだけど、そいつに命狙われてんの忘れたのか? 万が一、ってのがあったらどうすんだよ?」
「その時はその時かなぁ。そうなってほしくはないし、死にたくもないけど……この子だって生きるためだもんね」
言いながら見下ろすと、目を見開いた少年と視線が合う。
どうしたのかと小さく首を傾げると、彼は顔をしかめた。そこには馬鹿なのか、という言葉が書かれているように見える。多分それは錯覚だろうが、この少年の心情としては間違いではないだろう。聖奈自身にも、第三者として聞いたら己の発言は馬鹿だと思うのだから。
「あのなあ? 死にたくないんなら切り捨てるべきだろうが。そりゃあ、あんな光景を見たりこうまでしてやったり後ろ髪は引かれるだろうが、時にはそういう判断だって必要だぞ?」
ウェインの言葉はもっともだ。冷静に考えれば、その選択が正しいのだろう。
だが聖奈はそれをしたくなかった。一度助けようとした相手を個人の都合で手放すなど、してはならないと思うから。
聖奈は彼を真っ直ぐに見据える。
「ウェインが心配してくれてるのはわかっているの。でも、勝手に連れてきたのに、此処でお別れってのはあまりに勝手すぎない? 遺跡でウェインにエルリフまでの案内を頼んだときとは、事情が違うんだよ?」
「そりゃ俺だって勝手ってのはわかってるさ。こんなこと言うんならあの時、そいつを運ぶべきじゃなかったともな。けど、それとこれとは話が違うだろ? 特に、セナちゃんは命が関わってるんだ。危ない橋は渡るべきじゃない」
「それだってこの子と仲良くなれれば杞憂で終わるよね? それに――もしも万が一の事態になっても、ウェインが守ってくれるでしょう?」
「…………」
「もちろん私を、じゃない。アリシアちゃんのことくらいは、守ってくれるって思うから」
にっこりと笑って言い括ると、ウェインはぐっと言葉を詰まらせ、黙り込んでしまった。
更に駄目押しで、ね? と返事を促すと、ウェインは低く唸り、やがてがっくりと肩を落として俯き、深い深い息を吐き出した。
「そう言われると返す言葉に困るんだよなあ」
「ウェインは優しいもんね」
「優しかねえつもりなんだけどなぁ」
再度溜息を吐きながら頭を掻いたウェインは、スッと表情を変える。
怒気とも違う、静かな威圧感を帯びた眼で、少年を見た。
「ただし、変な動きでもしやがったら容赦なく撃ち殺すからな」
「ウェイン。怖いよ」
「釘は打っとくに限るだろ? なあ?」
「勝手に決めるな」
ギッとウェインを睨み返す少年が、不満げに漏らす。ウェインから視線を逸らさない彼を、聖奈は見詰めた。
「オレはあんたらと一緒にいるだなんて言ってない。いるつもりもない。与えられた命令を、」
「まだンなこと言いやがるか。これだから現状を理解しようともしねえ、順応力さえもねえガキは……」
「ウェイン」
鋭くなった気配に、聖奈は静かに制する。
ぴくりと反応を示し視線をちらりと向けるウェインに、聖奈は首を横に振って窘めて、少年を見た。彼は変わらずウェインを睨んでいたが、構わず口を開く。
「ごめんね。だとしても、あなたをこのまま帰すつもりはないの」
金色の眼が、横目で聖奈を捉える。
「私は簡単に死んであげることは出来ないから」
「だから、懐柔をするって? それこそごめんだ。その首を持って行けないのなら、戻って半殺しにでもされてやる」
「あなたはそれで良くても、私がそれは嫌なんだよね。あなただって、痛いのは好きじゃないでしょ?」
「殺害対象に情けをかけられるくらいなら処罰を受けたほうがマシだ」
「そ、そこまで言う……?」
情けをかけられるより、処罰の方がマシとは、本心なのだろうか? いや、本心じゃなかったとしても、これは骨が折れそうである。諦めるつもりもないが、やはり真っ向からの説得は無理だろう。
聖奈は苦笑を零しながら割り切って、気を取り直すように尋ねた。
「それはそうと、まだあなたの名前を聞いてなかったね。教えてくれる?」
その瞬間、少年の表情に動揺と困惑が帯びた。
どうしたのか、と思った時には視線が逸らされる。まるで言いたくないとでもいうかのように。否、それだけではないのだろうか。
全てを汲み取ることは当然出来ず、聖奈は言い換えて問い直す。
「……って、名前を聞くならこっちから名乗るのが礼儀か。私は聖奈、って名乗るまでもなく知ってそうだけど。こっちの怖い顔してるのが、ウェイン」
言いながら手で示した先のウェインは眉間に皺を刻み、射抜かん勢いで少年を睨むように見ていた。が、聖奈の言葉に反応して、頬を膨らませる。
「怖い顔なんてしてませんー。いつも通りですー」
「そうだな。いつも通りのあくどい顔だな」
「引きちぎるぞ、ぬいぐるみ」
「あのね、何かある度に喧嘩するのはやめてもらえるかな二人共? ごめんね、この子はルキフェル。ワケあってぬいぐるみに憑依してるらしくて、これが本当の姿ってわけじゃないと思う。それで、こっちの女の子がアリシアちゃん」
ウェインとルキフェルをじとりと睨んで黙らせて、聖奈はアリシアを示した。
彼女は深々とお辞儀をすると、微笑んだ。
「アリシア=ルーベルです。お名前を伺っても構いませんか?」
「…………」
小さく首を傾げるアリシアを前にしても、少年は唇を真一文字に結んで無言だった。
その顔からは、変わらず動揺と困惑が浮かんで消えない。
どうしてだろう? と聖奈は首を捻り、考える。答えはすぐに見付かった。そこに確証はない。けれど、この状況から導き出せるものはそう多くなかったからだ。
――この子には、名前がないのではないだろうか?
そんな予感がした。
もちろんそれを直接尋ねることは出来ない。正しいか否かの以前に、問うだけでも不快な思いをさせると、深く考えるまでもなく気付いたからだ。
けれど、考えられなくはないはずだ。
聖奈の生まれ育った世界では出生届けを提出する決まりがある以上、乳児以外で名無しということは有り得ない。だがもしこの世界にそんな制度が存在せず、彼が本当に捨て子で、これまで名前など付けられずに物のように扱われていたのなら。有り得ない話ではない。
だからこそ聖奈は予感を今は頭の片隅に追いやり、なんてことはない風を装って口を開いた。
「名乗ってもらえないのなら、勝手に名前を付けて呼んじゃうよ?」
その言葉に、少年が弾かれたように顔を上げる。
見開かれた金の双眸に予想はそう外れてはいないと確信した。事実、なおも少年は口ごもり、答えが返ってくることはない。
目を泳がせる姿を見ながら、そっと言葉を続ける。
「どうする?」
「オレは……」
「うん?」
「…………」
「ふふ、ごめん。ちょっと意地悪がすぎちゃったね」
困り果てながらもなんとか何かを答えようとする少年に、聖奈はくすくすと笑みを零した。
「お名前は教えたくなった時にでも教えてくれればいいよ。だから、悪いけど今は勝手に名前を付けて呼ばせてもらうね」
すると、少年の顔に僅かな安堵の色が帯びる。聖奈はふっと笑うと、思考を始めた。
名前を付けさせてもらうと言ったはいいが、正直名付けに自信はない。片手を口元にあてがいながら、聖奈はウェインとルキフェルを頼るように見上げた。
「……ウェインとルキフェルは何かいい名前ある?」
「ガキでよくね?」
「小童でいいのではないか?」
「うん、二人に聞いた私が悪いんだけどさ、一回ずつグーで殴っていい?」
何だその呼び名は。そもそも名前の案を頼ったのにそれはないだろう。
少年も怒気に満ちた瞳で二人を睨んでいる。ウェインもルキフェルも気にした様子はないが、少年の怒りはもっともだ。元を正せば彼らに聞いてしまった聖奈も悪かったのだが。
凄むついでにグッと握り締めた拳を解いて、今度はアリシアに視線をやった。
「アリシアちゃんは、何かある?」
「わ、わたしですか!?」
びくりと反応を示した彼女に、聖奈は頷く。酷く慌てたようにアリシアは眉を寄せ、
「え、えーと……うーんと……、し、シロちゃんとか、どうでしょう?」
そう言った。
それは、人間の名前というより動物の名前なんじゃないだろうか。もしくはあだ名。
いや、悪くはないとは思う。思うのだが、少年がわかりやすく複雑そうな顔を浮かべていて、聖奈は静かに察する。
おずおずとこちらを窺うアリシアはとても可愛らしく映った。困り眉で僅かに頬を赤くさせながらも反応を待つ彼女に、聖奈は何も言わない。代わりに頭をぽふぽふと撫でると、アリシアが頭の上に疑問符を浮かべているのがわかった。
――結論を言えば、アリシアの案は不採用だ。例えアリシアが可愛くてもそれはそれ、これはこれなのである。
聖奈は改めて少年を見る。
煌くような銀の短髪に、金色の瞳。彼に限ったことではないが、その一つ一つが宝石のようにも思える。
宝石。宝石はジュエル、それは似合わない。なら――。
「――ラピス」
ぽつ、と呟くように告げると、少年が緩やかに聖奈を見上げる。その顔を真っ直ぐに捉えながら、もう一度、今度ははっきりと告げた。
「ラピスっていうのは、どうかな?」
ラピス、石を意味する単語。
捻りのない名前であるが、これなら男の子でもとくに呼ぶにあたっても問題はないだろう。
少年は聖奈を見たまま、何も答えない。だがそこに嫌悪の色は見えないことを了承と取って、にっこりと笑い掛けた。
「それじゃあ、しばらくラピスってことで、よろしくね?」
少年はしばらく目をしばたかせながらこちらを見ていたが、やがてぷいと顔を逸らした。




