危機
優しく地面に降り立ち、その腕に居る姫君を降ろす。姫君は傍らに居る男、そして少し離れた所に居る鬼を見た。
その顔に困惑の色が浮かぶ、何が現実で、何が夢幻なのか、分からなくなっているのだろう。
ただ、この身を抱き上げ、迫る恐怖から助けられた事それだけが、現実だと悟る。
「白狼、この姫から我等の記憶、消し去る事叶わぬか?」
恐ろしき優麗な男は何かに尋ねた。
『消し去る事は出来ぬが、強烈な恐怖を与える事は出来るぞ』
心に響く美声とは違う声が響き、男は溜息を吐く。
その仕草の一つ一つが姫君の心をより一層捕らえてしまう。
「只でさえ我等の不始末に巻き込んでしまったのだ。粗野な事はしたくはない」
『汝も酔狂な者よな、弱き者共など見捨て、黒狼の元へと向かえば良かろう』
完全に蚊帳の外に置かれた姫君だったが、今はこの男を見る事が現実との繋がりだと、
そう姫君は思っていた。
「京の人々を見捨てるなど、出来ぬよ。居場所が分かったといえ未だに瘴気は減って居らぬ。誰かが、京を守れる程の強き者が現れたら、その時は向かおう」
そう言い、男は剣を抜く。
悪鬼を正面に捉え、静かに集中する。
悪鬼は呪いを吐きながらこちらへ向かってくる、その言葉の意味は分からなかった、だが。
悪鬼が距離を詰めるに従い、強烈な吐き気が姫を襲う、そしてその意識は物の数秒で刈り取られた。
『やれやれ、粗野な事を避けるつもりじゃなかったのか?命を刈り取られなかったとは言え、地獄の様な不快を感じただろう』
「これで良いのだ、この鬼を倒せばこの姫君はその家へと帰れるだろう。だが、帰す為にも我等は決して倒れては成らぬ」
『こやつは言霊を操る、原始の言葉を含み、そして汝等の言葉で呪いを放つ、化生の身とは言えその効力はなんら変わらぬ』
霧綱の額に珠の様な汗が浮かぶ、人を辞めた身。
それがまるで人の様に汗を流し、呼吸を荒くする。
「昨晩で良く分かった、その言葉を放つ前に距離を詰め、仕留める」
言い終わらぬ内に霧綱は動いた、剣を振りかぶり、悪鬼の首を落とさんと勢い良く剣を走らせたが。
一歩遅かった。
「……消……消」
悪鬼がそう呟くと同時に剣は空を切った。今まで其処に居た巨大な悪鬼がまるで陽炎の様に消え去った。
「……裂……裂」
霧綱の背後から、その声が響く。
それと同時に霧綱の体がそこらかしこから裂け始めた、最初は小さい裂傷だった。
しかし徐々にその傷は大きくなっていく。恐ろしく強い力で雪の様な肌を、筋肉が裂けて行く。
「気配どころか、その実体すら消せるとは……言霊とは斯くに恐ろしき呪法よ!!」
霧綱の周囲を悪鬼は歩んでいる、歩いている筈なのだ。
しかし呪いこそ聞こえど、その醜悪な姿は見えぬ。
自慢の鼻も、耳も悪鬼の痕跡を捉えられない。
かなりの苦戦を強いられていた。
『これ程の鬼は見た事も無い、霧綱……体を寄越せ!!』
霧綱は力の限り首を振り、こう言った。




