鬼と獣
弟が牢に閉じ込められるまでは、何をするにも一緒だった。
それだけに傍に居ない事は苦痛だけだった、だからこの国の因習を断ち切ろうと出来る事は全てやった、それなのに……
目が覚め、外に出ると日は沈んでいた。人では無くなったと悟る。
『絶望したか?だが諦めろ、これが汝が選んだ道だ……人に戻れず、ただ黒狼が放った瘴気を追い、黒狼の企てを防ぐ、それだけが汝の生きる道だ。』
白狼に小言を言われる前に、霧綱は白狼の言葉を遮った。
「分かっている、何を成せば弟の元へ辿り着く?」
訊ねる必要は無かった、鼻腔に吐き気がする様な異臭が漂っている。
今まで嗅いだ事の無い匂いに霧綱は顔をしかめた。
『匂うだろう?黒狼の瘴気と人の怨念が混じった鬼とも魍魎とも言えぬ存在が跋扈しておる。汝はただそれを斬り捨てろ、何も考える事は無い、ただ斬り続けろ、それが弟への標となる。』
霧綱は駆ける、異臭を放つ異形の元へ、生温い風が吹く中、一陣の冷たい風が京を駆け抜ける。
妖よりも醜く、悪霊よりも恐ろしい化生の戦いが始まった。
目の前の男が懐かしむ様に語る、顔は布に隠れて見えない……だが、その口調は何処か郷愁を帯びた声だった。夢物語、空想、非現実、その際たる物が目の前に居る男だ、何で俺は地面に腰を降ろし熱心に男の話を聞いているのだろうか。その男が布をで隠した口を動かす。
「はは、些か聞き苦しいかと思うが、そこは承知してくれると私が楽になる、この話は文献などと大それた代物は無い、それ故にこうして集まった者に聞かせ、語るしか手立ては無いのだ。しかし、この様に話をするのは何度やっても慣れぬ物だ……さて、時間はまだまだある。続きと参ろうか」
再び、俺達はこの男の話に釘付けとなった。誰一人、男の話を遮ろうともせず、ただ静かに聞く……その言葉が途切れるまで。
「ぎゃああぁぁぁ!!」
新月の晩、人も歩かぬ筈の晩に。悲鳴が響く、牛車の行方を遮るのは、身の丈3丈は有ろう巨体で、至る所から汚濁に塗れた血を流している、その鬼の前に獲物として見定められたのは。
哀れで、麗しい姫君だった、そしてその姫君は、自身の身に起こりうる全ての事を拒否していた。
牛車の隙間から覗く醜く恐ろしい鬼に、姫君を守る筈の武官は全てその鬼の腹へ消えて行く。帳から鬼の緩慢な動きが見える、血に塗れたその腕が牛車の籠を引き剥がされた時、それを見たのだ。苦悶の顔のまま、虚ろな双眸で姫を。
鬼の口から逃げる事も叶わずに武官はそのまま鬼の口の中へと消えた。骨と皮のみの顔、歪に揃う牙その全てが大きく、夢幻ではないと姫に悟らせていた。
泣き喚く事も出来ず、ただこの悪鬼が去る事を祈るが、それも儚い夢だと知る。鋭い、大きな爪がゆっくりと動く。人など容易く握り潰し、引き千切り、裂く事が出来るであろう鬼の手が目前に迫る。
あまりにも恐ろしく、これから我が身に起こる事を見ぬよう、姫はその目を瞑った。
その時、身の毛が凍る様な感触と、得も言えぬ感覚が哀れな姫を包む。殿方に抱かれている様な感覚だが、それにしては余りにも冷たく、そして荒々しい扱いだった。頬を温い風が撫ぜる、今まで感じた事の無い感覚に姫は目を開ける。
そこには人とは思えぬ程の優麗な顔を持つ男が居た。
「済まぬ、我等の不始末に巻き込むとは、思わなんだ。眠れ姫君よ、宵の恐れは全て夢幻だと悟り、眠るのだ」
心の底から響く美声に、姫は心を奪われた。姫の眼に残るのは全てこの男だけになった、人には無い耳、それはまるで獣の様な形状をしている。




