第3話:監査官・結城セイ
氷室アサギが手術室を出てから数分後、監査室の扉が静かに開いた。
黒髪短髪の結城セイが現れる。
冷たい瞳の奥には、今日の手術の結果を評価する光が宿っていた。
しかし、その視線は単なる評価ではなく、氷室の“震える手”を読み解くためのものだった。
「氷室先生、少し話そう」
声は低く、抑制されている。
だが響きは鋭く、空気を振動させる。
氷室は無言で頷き、彼に従って廊下を歩く。
歩くたびに、靴の音が凍りつくように響いた。
結城の目は、手術中の映像を追っていた。
氷室の手の震え、目の動き、呼吸のリズム。
そして、手術台の上で揺れる心臓。
数字だけでは測れない、感情の波を読み取ろうとしている。
「手が震える理由、わかっている」
氷室は立ち止まり、結城を見た。
「……知っているのか?」
「知っている。それが危険だと思われるなら、規則は守れ。だが、技術的には完璧だった」
結城は淡々と言うが、その声には揺らぎがある。
ただの監査官ではない。氷室の震えを理解し、共鳴できる唯一の存在。
「どうして……」
氷室の声は小さい。
震えを理由に叱責されるのが怖いのではない。
自分の優しさが罪になる世界で、誰も理解してくれないことを知っているからだ。
結城は手を差し出すわけでも、肩に触れるわけでもなく、ただ目を見据えた。
その瞳の奥にあるのは、冷徹な監査官の目ではなく、理解者の視線だった。
「手を止めるな。感情値なんて、関係ない」
言葉は短く、冷たくもある。
だが、氷室には温かく響いた。
胸の奥で、少女の声と重なり、震える手をさらに強く支える。
二人は無言のまま廊下を歩き続けた。
足音は廊下の白銀の光に吸い込まれるように消え、
その背後に、監査システムの赤い光だけが脈打っていた。
結城が初めて言葉を続けた。
「氷室先生、君が今日救った命――
それは規則ではなく、君自身の意思だ。
誰も理解できないかもしれない。
だが、僕はわかる」
氷室は軽く息を吐く。
震える手は止まらない。
だが、胸の奥には確かな支えが生まれていた。
自分の優しさを、誰かが信じてくれる。
そして、その瞬間、氷室は確信する。
自分の手は、まだ止まらない。
誰かを救うためなら、規則も、数字も、何もかも超えて進む――。
廊下の奥、監査室の赤い光が二人の影を長く引き伸ばす。
その影の先に、まだ誰も知らない出来事が待ち受けていることを、
氷室も結城も、まだ知らなかった。




