第2話:裁定医の罪
手術室を出ると、廊下の蛍光灯が氷室の影を長く引き伸ばしていた。
冷たい光が、白衣の皺に影を落とす。
患者を救ったはずなのに、胸の奥には不穏な重さが残っていた。
「氷室先生、少し話がある」
声をかけたのは結城セイ。
いつも冷静な彼だが、今日は一層、視線に強さがある。
氷室は無言でうなずき、彼の後ろをついていった。
廊下を抜け、監査室へ入る。
壁には数十台のモニターが並び、手術室や病室の映像、患者のバイタル、医師の感情値がリアルタイムで映し出されている。
氷室はいつものように数字に目を向けるが、視界の隅に映る赤い点滅に息を呑む。
「今日の手術、感情値が規定を超えていた。報告が上に上がる」
結城の声は淡々としているが、言葉の重みは氷室の胸に刺さる。
感情値とは、医師が感情をどれだけ露わにしたかを数値化したものだ。
それを超えることは、制度上、“医師としての失格”を意味する。
「……規則は理解しています」
氷室は震える手を見下ろす。
手の震えは、感情の表れでもあり、技術の研ぎ澄ましでもある。
だが、数値としては“危険”と判定されるのだ。
救いたいという意思が、罪に変わる世界。
結城はモニターの一つを指差した。
「ここだ。手の震えが患者に悪影響を及ぼすと記録される。でも、実際はどうだった?」
氷室は目を細め、手術中の感覚を思い出す。
血管の微細な振動、心拍の微妙な変化、麻酔の効き具合。
すべてを手の震えとともに把握し、調整していた。
数字だけでは測れない現実がそこにあった。
「感情値が高い=危険、ではない」
小さな声で、氷室は呟く。
結城は静かに頷く。
彼もまた、制度の冷酷さを知っていた。
そして、氷室の手術が“技術的には完璧だった”ことも理解している。
「裁定医制度は正しいかもしれない。だが、人を救うのは規則じゃない」
廊下の向こうから、スタッフたちの足音が響く。
無機質な光の下で、氷室は再び手を握る。
震えは止まらない。
でも、胸の奥の意思は、規則や数字を超えて動き続ける。
ふと、記憶の奥底から少女の声が蘇る。
――『……先生、また会えたね。』
手の震えに伴って、胸の奥で微かに熱が走る。
その声が、氷室に告げる。
正しさと優しさの狭間で、揺れる世界で、手を止めるな、と。
「……理解した」
氷室は結城の目を見た。
そこには、冷静な監査官の影に隠れた、一瞬の信頼と共鳴が映っていた。
救いを求める手と、見守る目。
この二つの感覚が、氷室の胸に確かな支えを作る。
手術室を出たときと同じ蛍光灯の下で、氷室の背中は少しだけ軽くなった。
だが、その背後には、制度の目が厳しく光っている。
今日の“罪”は、明日への試練となる——。




