第1話:震える手の医師
手術室の灯りは、まるで氷の刃のように白銀の光を床に落としていた。
氷室アサギの指先は微かに震えている。
手の甲にうっすらと浮かぶ血管が、微妙に動く。
白衣の袖がわずかに揺れるたびに、体温計や心拍計の数字が無機質に点滅する。
「心拍安定しています。続行を」
モニターから流れる声は冷たく、機械的だった。
だが氷室には、別の声が届く。
――『……ありがとう、先生』
幻聴だろうか。いや、違う。
十年前に消えた少女の声が、胸の奥で確かに響く。
記憶の奥底に刻まれた、あの日の声。
あの声は、誰にも届かないはずだった。
氷室は深く息を吸い、震える手をぎゅっと握り直した。
体温計の数字は冷たい緑の光を放ち、心拍モニターは規則正しく波を描く。
小さな胸の鼓動を目で追いながら、手術台の上の命を、自分の手で守ろうと決めた。
「切開します」
その声には力はなかった。
ただ、手を止めるわけにはいかないという意思だけが、体を突き動かす。
手術台の上の皮膚をメスで切り開く瞬間、氷室は目を閉じ、少女の声を心に呼び寄せる。
手の震えが意外にも正確さを生む。
微妙な振動が、神経と連動し、手術の精密さを際立たせている。
針を刺す瞬間、血管を通る血の流れを視覚的に捉え、手を微調整する。
誰も止められない集中力と、少女の声だけが氷室の道標だった。
「……患者は、データじゃない。私が救う」
その言葉は呟きではなく、胸の中で固く誓った決意。
手術台の上の小さな命に向けた、静かだが確固たる宣言だった。
背後で、監査官の冷たい視線が氷室を貫く。
「氷室先生……感情値、上昇。危険域接近」
警告アラームが小さく鳴る。
数字が赤く点滅し、危険を知らせる。
だが、手は止まらない。
震えは増しても、心の芯は揺らがない。
震える手の奥に、揺るぎない意思が宿っていた。
汗が額に浮かび、髪が顔に触れる。
だが氷室は拭わず、視線を手術台に固定した。
呼吸は浅く、胸の奥で少女の声が繰り返し囁く。
命を守るための道標、誰も教えてくれない正解。
「ここで止まったら、誰も救えない……」
指先に力を込め、皮膚を慎重に切開する。
モニターの波形は安定し、麻酔の効果も見極める。
手術室の空気は重く、機械音と心拍音だけが響く。
だがその重さが、逆に氷室の集中を研ぎ澄ませる。
手術中、氷室は一瞬、少女の顔を思い浮かべた。
長い銀糸の髪、儚く透き通る白い肌、そして穏やかな微笑。
それは現実の患者ではなく、記憶の中の存在だ。
それでも、手術の指先に力を与える存在だった。
切開、縫合、出血の制御。
すべてを無駄なく、正確に、だが震える手で行う。
奇妙なことに、震えそのものが緊張を和らげ、手をより敏感にしていた。
まるで手の震えが生命と呼吸を感じ取り、導いているかのように。
「……終わった」
長く、濃密な数分が終わり、手術台の上の命は守られた。
モニターの数字は安定し、アラームは消えた。
氷室は肩で荒い息をしながら、手をゆっくりと下ろす。
震えはまだある。だが、胸の奥の静かな確信が、手を止めさせなかった。
少女の声は、もう囁かない。
しかし氷室は知っていた。
あの声が、これからのすべてを導くことを。
手術室の扉を開けると、結城セイの冷たい瞳が氷室を見つめていた。
だが、その視線の奥には、僅かに温かさが隠されていることも、氷室は知っていた。
震える手を抱えながら、氷室アサギは、今日も世界の規範に抗い続ける覚悟を胸に刻んだ。




