拳だけじゃない
翌朝はあまりにも早く訪れた。
黄金色の光が部屋を満たし、静寂を破るように力強い声が響く。
—起きなさい、寝坊助たち!
そこに立っていたのはリリー。いつもの完璧な装いではなく、黒地に金のラインが走るスポーティなトレーニングウェア姿だった。
ユイ、リカ、美春は瞬きをする間もなく、リリーの片手の合図で青白い光に包まれ、次の瞬間には広々とした室内施設に立っていた。床はクッション材、柱には魔法の紋章、天井は空へと開かれている。
—ようこそ、私の訓練場へ —笑みを浮かべるが、その目に容赦はなかった。
三人ともジム用の服に着替えていた。
ユイは赤いスポーツブラと黒のショートパンツ。
リカは水色のパーカーに白いショーツ。
美春は深緑のスポーツウェア。
—状況はこうよ —リリーは軍人教官のように円を描きながら歩く—。美春、あなたは護身術を習うわ。力はないけど、もし混乱の中に巻き込まれたら、自分の身を守るくらいはできるようになってもらう。
—わ、わかりました… —美春は緊張気味に答えた。
—ユイ、リカ…あなたたちは私が直接鍛える。
そう言ってユイの前に立ち、まっすぐに目を見る。
—ユイ…まず最初に言っておくわ。手続きは全部済ませた。あなたの荷物はもうここに届いてる。
—は? —ユイが眉をひそめる— そんな簡単に?
—そうよ —リリーは笑みを浮かべるが、すぐに真剣な声に変わる—。でももう一つ。ボクサーとしての道はやめてもらう。
—はあっ!? —一歩引いて声を荒げる— なんでそんなことを?
—あなたの試合を見た。確かに強い。でも、そのスタイルじゃ正体を晒す危険が高すぎる。続ければ、必ず誰かが気づく。
—だから何? 私の人生に口出しするつもり?
リリーは一歩踏み込み、ユイの手を強く握った。鋭い痛みが手首から指に走る。
—っ…なにこれ…
—あなた、自分の体を大事にしてない。無茶な鍛錬と戦い方で、骨も関節もかなり消耗してる。このままじゃ、敵と戦った時にそれが命取りになる。
—チッ…
—私が治しながら、新しい戦い方を教える。もっと多様で、読まれにくいスタイルを。だからあのジムには戻らない。ここが新しいリングよ。
横でリカは息を飲んで見ていた。
—…あのリリーが、ただのレストランの“ボス”だと思ってたのに —小声でつぶやく。
—これは遊びじゃない —リリーの声が響く—。身元、持久力、戦略…それが命を守る。
—ボクシングをやめろ…? —ユイの声は怒りで震えていた—。それが私の人生だ。それが私なんだ。
—そう感じるのはわかるわ。
—わかってない! —ユイは一歩踏み出す—。他に何もない。ボクシングしか残ってないんだ!
—ボクシングはあなたの人生そのものじゃない。それは、あなたが選んだ生き方。でも、それだけがあなたじゃない。
その言葉は、みぞおちにストレートを食らったように響いた。
—一つの道だけが自分を形作ると思い込むのは…その道が途切れた時に一番早く自分を失う方法よ。
—黙れ! あんたに言う権利なんてない!
—過去の全部を知ってるわけじゃない。でも、一つだけ確かに言える。拳で倒せないものに直面した時、あなたは気づくはず。救えるのは拳だけじゃないって。
重い沈黙が落ちた。
—つまり、私に全部捨てろって言うのか…? —ユイの声が低くなる。
次の瞬間、ユイの拳がリリーの顔へと突き出された。
リリーは軽く頭を傾け、その拳を滑らかに受け流す。
—やめなさい、ユイ…
だがユイは攻撃を止めず、怒りを込めた拳を何度も繰り出す。リリーは受け流し、かわし続けた。
—戦うしかできないんだ!
—じゃあ、できないことを教えてあげる。
一歩踏み込み、ユイの胸の中心を軽く押す。体勢を崩され、ユイは膝をついた。
—…チッ… もういい! やめた!
—ユイ、待って! —リカが近づく。
—うるさい! レストランに戻して。今すぐ。
—望み通りに。
光が瞬き、次の瞬間には裏口に戻っていた。ユイは無言で外へ。
—ユイ! —リカが追いかける。
—一人にしないで… —美春が小さくつぶやく。
ユイは早足で歩き、ポケットに手を突っ込む。リカが追いつく。
—どこ行くの?
—家…
—怒ってるのはわかるけど、逃げても何も変わらない。
—じゃあどうしろって? あいつは私から唯一のものを奪おうとしてる。それがなかったら、私は何なんだ?
—あんたはユイ。私に立ち止まるなって教えてくれた子。拳だけの人じゃない。
—…戦わなかったら、私じゃなくなる。
美春が近くの公園に案内する。ユイはベンチに腰を下ろした。
—なんでそんなにボクシングが好きなの? —リカが尋ねる。
—それだけが私を支えてくれるから。
—それだけじゃダメだよ。
—何がわかる? 路上暮らしのお前に…
パシンッ——沈黙を破る平手打ち。
—あんたこそ何もわかってない! 生き延びるためにどれだけのことをしてきたか、わかる!?
ユイは言葉を失う。
—…ごめん。泣くなよ…お願いだ…
彼女を強く抱きしめた。
—もうやめて…戻ろう —美春が声をかける。
ユイとリカは手を離さずに歩き出す。二人の間で、何かが確かに変わっていた。