侍女の誘惑
謁見は終わり、村人たちは家へ戻り、レイスたちも休息のために退いた。
ハルトは側室に一人残り、ウンブラの計画を記した魔導コンソールのコードを静かに見直していた。
その時、扉をノックする小さな音がした。
そして、控えめで柔らかな声が響く。
—「失礼します、旦那様……アルマンド様の侍女、エラーラと申します。」
ハルトは視線を上げた。興味深そうに。
イゾルデは慎重な足取りで入ってきた。
手にはワインとパンの乗った盆を持ち、
金髪は白いコイフに隠され、仕草もまるで本物の侍女のように素朴だった。
彼女は深く一礼し、ハルトの目を見ようとしなかった。
—「旦那様にお仕えするよう命じられました……でも、もしお許しいただけるなら、感謝も申し上げたくて。
貧しい者がこんなに自由に歩ける国を、私は初めて見ました。」
ハルトは黙って彼女を観察し、その言葉を受け入れるように聞いていた。
エラーラ——いや、イゾルデは一歩近づき、声をさらに低くした。
囁くような艶を含んだ口調で言う。
—「あなたのようなお方なら……きっと、数多くの誘惑があるのでしょう。
権力、富、女……それに飲まれてしまうことはありませんか?」
彼女は盆をテーブルに置き、身を屈めながらついに彼の視線とぶつかった。
——その瞳は、ただの侍女のものではなかった。
鋭く、観察するような視線。
まるで一瞬一瞬の反応を測り、心の奥を読み取ろうとする女王の眼だった。
(見せて、ハルト。あなたが本当に正義を語る王か、それとも——
欲望に落ちる、ただの男か。)
だがハルトは目を逸らさず、ただ穏やかに微笑んだ。
—「面白いな。
“侍女”のはずが、まるで女王のような問いかけをする。」
その言葉に、イゾルデの心臓が一瞬だけ高鳴った。
だが、彼女は表情を崩さず、役を続けた。
ハルトは静かに立ち上がる。
その動きには欲望も怒りもなかった。
ただ静けさの中に、鋭さと重みが潜んでいた。
—「エラーラ……だったか。」
—「俺の世界で学んだことがある。
“本当の力”とは、持っているものじゃない。
——捨てられるもののことだ。」
彼は彼女の肩をかすめるほど近くを通り抜けた。
その背中に声を投げかける。
—「金では俺を買えない。恐れでは俺を縛れない。
——そして誘惑は……」
振り返り、鋭い眼で彼女を見つめる。
—「……仮面に過ぎない。俺はそれを引き剥がす術を知っている。」
イゾルデは驚きを隠すように再び頭を下げ、
従順な侍女の演技を続けた。
だが内心では、静かに微笑んでいた。
(……面白い。
簡単には崩れない。
本当に、今まで出会った男たちとは——違うのかもしれない。)
彼女が静かに部屋を後にするとき、ハルトはその背を見つめていた。
その目に浮かぶのは、疑念。
(あの女……侍女の口ぶりじゃない。
普通の人間の話し方でもない。)
“ゲーム”は、今始まったばかりだった。
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