レンジの背後に潜む影
翌朝、ミハルはミツキの手を引いて保育園へ向かった。
ミツキは穏やかな表情だったが、園の中庭に入った瞬間、違和感を覚えた。
レンジがひとりでベンチに座っていたのだ。
他の子どもたちが遊ぶ中、彼だけが地面を見つめ、口を一言も発していなかった。
ミツキは立ち止まり、不安げに言った。
「ママ……レンジくん、なんか変。」
ミハルもそれに気づいた。
レンジの周りに漂う空気は、まるで重く冷たい“影”のようだった。
彼女は入り口で子どもたちを見守っていたアヤカ先生に近づいた。
「先生……あの、レンジくんに何かあったんですか?」
先生は小さくため息をつき、他の保護者に聞こえないように声を落とした。
「……難しいんです。レンジくんの家庭環境が、少し厳しくて。
お父さんがとても厳格で、完璧を求めすぎるんです。
お母さんも、あまり家庭にいなくて……プレッシャーをたくさん抱えているみたいです。
だから、時々そのストレスを他の子にぶつけてしまうんです。」
ミハルは目を伏せた。
誰にも見えない傷を抱えて育つことが、どれほど苦しいか――彼女は痛いほど知っていた。
「……そうだったんですね。やんちゃな子だと思ってたけど、そういうことだったんだ。」
アヤカ先生は悲しげにうなずいた。
「もちろん、彼の行動を許すわけではありません。でも……たぶん、本当は誰かに気づいてほしいだけなんです。」
その時、会話の一部を聞いていたミツキが、母の手をぎゅっと握った。
「……じゃあ、レンジくん、さみしいの?」
ミハルは娘の瞳を見つめ、優しく微笑んだ。
「うん。とっても、さみしいと思う。」
ミツキはぬいぐるみのウサギを抱きしめて、小さくつぶやいた。
「……ヒロトくんみたいになってほしくない。助けたい。」
ミハルはその言葉に胸を打たれ、そっと娘の髪をなでた。
「ミツキは優しいね。でもね……ひとりで癒せない痛みもあるのよ。」
別れ際、ミハルが園を離れる中、ミツキはもう一度だけ振り返った。
その瞬間、レンジが顔を上げ、じっと彼女を見つめた。
その瞳には、わずかに赤い光が宿っていた――ほんの一瞬だけ。
ミツキの心臓がどくん、と跳ねた。
彼の中に、“なにか悪いもの”が、生まれかけている気がした。
この章がお気に召しましたら、ぜひお気に入り登録、コメント、シェアをお願いいたします。
あなたの応援が、この物語を生かし続ける力になります。