「オフィスの男」
オフィスの朝は、壁の色と同じくらい灰色だった。
キーボードとコピー機の絶え間ない音が空気を満たし、そこに機械コーヒーの古びた香りが混ざる。
昨夜、あの奇妙な結晶を見つけた男――ヒロシ・タケムラは、自分のデスクで書類に目を通していた。
その表情は冷たく、無機質……いつも以上に。
丸眼鏡に曲がったネクタイの同僚が、脇にファイルを抱えて近づいてくる。
「タケムラ、この報告書、引き受けてもらえるか? こっちは別件が急でな。」
彼は目を合わせず、すでに「はい」と言われる前提で口にしていた。
タケムラは無表情のまま顔を上げる。
「……そこに置いておけ。」
「助かる。」
男はファイルを置くと、返事を待たずに去っていった。
タケムラは数秒ほどそのファイルを見つめ――何も言わずに作業を続けた。
文句を言うことはなかったが、その声に漂う冷たさは無視できないものだった。
二時間が過ぎ、休憩時間になる。
タケムラは洗面所へ向かった。
そこにはケンジ・モリタがいた。
数週間前から「優先事項がある」と称して小さな雑務を押し付けてくる同僚だ。
彼は鏡の前でネクタイを直していた。
「ああ、タケムラ。」
片口を上げて笑う。
「時間があるときでいいから、俺の書類も見といてくれよ。ほら……このあと会議で出なきゃいけないからさ。」
その声色には、ほとんど嘲るような響きがあった。
タケムラは黙ったまま、視線を逸らさない。
沈黙に気づいたケンジの表情が、わずかに強張った。
ケンジの身体は完全に変貌し、青い光を放つ機械の部品が冷たい音を立てながらまだ位置を整えていた。
呼吸は、低く唸る電気音に変わっている。
タケムラは、まるで新たに完成した道具を吟味する職人のような目で彼を見つめた。
「お前には……俺のために、とても特別なことをしてもらう。」
その声は不気味なほど落ち着いていた。
ケンジは微動だにせず、プログラムを待つ機械のように立っていた。
「今夜――会社のシステムに侵入しろ。顧客データベースと社内連絡先のリストをすべてコピーしろ。そして……サーバーから完全に消去する。
修復不可能なエラーに見せかけろ。」
ケンジは瞬きをし、その命令をコードのように処理した。
「目的は?」
タケムラはわずかに口元を緩めた。
「混沌だ。
混沌は、日常が閉ざしている扉を開く。」
ケンジはうなずく。
「命令、受領。」
タケムラは洗面所を出ようと向きを変えたが、途中で立ち止まり、肩越しに振り返った。
「ああ、ケンジ……もし誰かがお前を止めようとしたら――」
「はい、マスター。脅威は排除します。」
「それでこそだ。」
タケムラは出て行き、機械化されたケンジが新たな金属の腕を調整する冷たい音だけが残った。
オフィスでは日常が続いていた……だが、そのビルの奥底では、すでに腐敗が始まっていた。