トレイと秘密のあいだで
ドアの鈴のチリンという音が、その日の始まりを告げた。
店内は暖かなランプに照らされ、ベルベットのカーテンで飾られた、まるでファンタジーの物語から抜け出したような空間だった。磨き上げられた木製のテーブル、あり得ない風景を描いた絵画が並ぶ壁、そして魔法の curiosities(もちろん偽物だが、雰囲気作りには完璧)が詰まった本棚。
「さあ、みんな」
カウンターの後ろで身なりを整えながらリリィが言った。
「笑顔、背筋をまっすぐ、そしてお客様は王様か女王様のようにもてなすこと」
最初の注文を受けたのはリカだった。若いカップルが入ってきて、興味深そうにメニューを眺めている。
「ラディアントカフェへようこそ」
完璧なお辞儀と共に挨拶する。
「まずは“星のフルーツティー”か、“魔法の泉のレモネード”はいかがでしょうか?」
「わぁ、それは面白そうね」テーブルの女性が微笑んだ。
その頃、ユイは少し緊張していた。3人組の青年が入ってきて、その中の1人が茶化すように言った。
「おや?お前って…」
「違います」ユイはすぐに遮り、ぎこちない笑顔を作った。
「いらっしゃいませ。ご注文は?」
不器用ながらも、トレイを落とすことなく注文を取る…と思いきや、グラスのひとつが滑り落ちそうになり、リカが間一髪でキャッチした。
「ちっ…借りができたな…」ユイが小声で言う。
「もちろん」リカは楽しげに返す。
一方、ミハルは慣れた手つきで優雅に接客していた。常連客の帽子をかぶった年配の男性がウィンクする。
「今日はいつもより輝いてますな、ミハル嬢」
「ありがとうございます、山田さん。いつものですね?」彼女は流れるようにメモを取った。
奥のテーブルでは、少年が棚の剣の飾りを興奮気味に指さしていた。
「ママ、ママ!ほら、魔法ヒロインの剣みたい!」
ユイとリカは一瞬だけ気まずそうに目を合わせる。
カウンター越しにリリィが全体を見回す。
「初日にしては悪くないわね…でも、まだまだ改善の余地あり」
「えっ!まだ何も壊してないのに!」ユイが抗議する。
「まだね」リリィは片口を上げた。
午前中はトレイを運び、客との会話を交わし、小さなハプニングもありながら過ぎていった。休憩時間になる頃には、3人とも汗をかき、疲れてはいたが――どうにか乗り切った、という達成感を味わっていた。
ラディアントカフェの裏手は、表のホールよりもずっと静かだった。
小さな中庭には、アイアン製のテーブルとイス、香り高い花々を植えた鉢が並び、スタッフの休憩場所として使われている。
ユイ、リカ、ミハルの3人は椅子に崩れ落ち、同時に深いため息をついた。
「…たぶん、背中が折れるわ」
ユイは背もたれに体を預けながら言った。
「それはヒールで歩き慣れてないからよ」
制服のスカートを整えながらリカが返す。
「おめでとう、お姫様!」ユイがふてくされたように鼻を鳴らす。
ミハルは、持ってきたアイスティーのポットを落ち着いた手つきで注いでいく。
「昔バイトしてたときに学んだのは、リズムが大事ってこと。走れば疲れるし…ゆっくりすぎれば遅れる」
「きれいな言い方だけど、私はウェイトレス向きじゃないわ」
ユイは一口飲みながらぼやいた。
そのとき、横の扉が開き、リリィが姿を見せた。
エプロンは外していたが、その優雅さは少しも消えていない。
「休憩中、かしら?」
彼女は片口を上げた笑みを浮かべる。
「じゃあ楽しんで…と言いたいけど、その休憩はあと…ちょうど2分で終わりよ」
「え?」リカが怪しげに目を細める。
「それって、何か変なことに巻き込む気じゃ…」
「変じゃないわ。訓練の一環よ」
リリィはテーブルに、小さな青白く輝く透明の結晶を置いた。
「このキャプターが1時間前、小さな異常を検知したの。ブラックアビスの痕跡かもしれない」
ミハルの表情が引き締まる。
「もうそんな早く…?」
「問題が自分から玄関を叩くのを待っていたら、手遅れになる」
リリィの声は真剣だった。
「…先にご飯食べちゃダメ?」
ユイがため息混じりに言う。
「食べてもいいわよ」
リリィは意味ありげに笑う。
「でも、道中でね」
「つまり、走りながら食べろってこと?」リカが眉をひそめる。
「その通り」
リリィはリボンで包んだ小さな弁当箱を渡した。
「行くわよ、ラディアント☆マジカルウォリアーズ」
ユイとリカは顔を見合わせ、思わず少しだけ笑みをこぼす。
一方のミハルはすでに立ち上がっていた。
「…よし。じゃあ、また仕事の時間ね」