防波堤-本当にお前の子供かい?
小説「防波堤」 第一話 (深化・最終版)
春特有の、どこか眠りを誘う柔らかな日差しが、産院の長い廊下に幾何学模様を描いていた。消毒液の匂いに混じって、ほのかにミルクの甘い香りがする。壁に掛けられた額縁の中では、様々な顔の赤ん坊が笑ったり、泣き叫んだり、あるいは小さな宇宙そのもののような静けさで眠っていた。その一枚一枚に、俺は数時間後、いや、もうすでに始まっている自分の新しい人生を重ねようとしていた。
数時間前まで、俺、高橋航平は会社のオフィスにいた。パソコンの画面に映る無機質な数字の羅列は、もはや異国の暗号にしか見えない。キーボードを叩く指は上の空。体は椅子に縫い付けられていても、心はとっくにこの産院へ飛んでいた。昨夜、陽菜の陣痛が始まってから、俺の意識は携帯電話の通知音に支配されていた。連絡が来るたびに心臓が跳ね上がり、胃の腑が締め付けられる。
「どうした、高橋。幽霊でも見たみたいな顔だぞ」
隣の席の同期が小声で尋ねる。
「いや、大丈夫…」
そう誤魔化そうとしたが、完全にバレていた。
「もうすぐだろ? ソワソワしすぎだって。こっちまで落ち着かねぇよ」
向かいの席の女性社員が苦笑する。その言葉を皮切りに、周囲から「無理もない」「人生の一大事だ」と温かい囁きが聞こえてくる。やがて、席を立った上司が俺の肩を叩いた。
「高橋。お前、もう仕事どころじゃないだろ」
有無を言わせぬ口調だが、その声には困惑と呆れ、そして確かな温かさがあった。
「いいから、もう行け。こんな所で心ここにあらずでミスされるより、奥さんのそばにいてやれ。後は俺たちがやっとくから!」
半ば強引に追い出される形で、俺は席を立った。申し訳なさと、それを遥かに凌駕する安堵と期待。同僚たちの視線に送られ、俺は産院へとひた走った。
そして今、俺は、数時間前にこの世に生を受けた我が子との対面を前に、汗ばんだ手を何度もズボンの生地で拭っている。心臓が、肋骨を内側から激しく叩いている。未知との遭遇を前にしたような、期待と畏怖が入り混じった高揚感。
隣には、母・和子が、まるで美術館の彫刻のように微動だにせず立っている。この祝福すべき瞬間に、どうしてこの人はいつも通りの、獲物を鑑定するかのような険しい顔ができるのだろう。
いつものことだ。俺の結婚を報告した時も、陽菜の妊娠を伝えた時も、表情一つ変えずにただ「そう」とだけ。あの時、値踏みするような冷たい視線が、俺を通り越して陽菜に向けられていたことを、今更ながら思い出す。陽菜が、居心地悪そうに少しだけ俯いた横顔も。
「航平。あなたも今日から父親なのよ。しっかりなさい」
母の言葉は、激励というよりも冷たい釘を打ち込む響きがあった。ああ、まただ。いつもの「お前には無理だ」「どうせお前も」という無言の圧力が、その短い言葉の裏に透けて見える。父の裏切りを知ってから、母は俺を通して、世界のすべての男を断罪しているかのようだ。だが、今の俺の耳には、そんな棘は届かない。それどころじゃない。
妻の陽菜は、昨夜から続いた長い陣痛の末、夜明け前に元気な男の子を産んでくれた。分娩室で俺にできたことは、ただ陽菜の汗で濡れた手を握りしめることだけだった。医療スタッフの冷静な指示が飛び交う中、俺だけが役立たずの異物のように感じた。自分の無力さに打ちのめされそうになった。だが、あの小さな命が産声を上げた瞬間、消耗しきった部屋の空気が震え、世界が祝福の光で満たされたような錯覚を、今でも鮮明に思い出せる。陽菜、本当にありがとう。お前はすごいよ。本当に、俺には勿体ないくらい、素晴らしい女だ。
陽菜を支え、この子を育て上げる。どんな困難からも、どんな心無い言葉からも、この新しい家族を守り抜く。それが、俺が自らに課した、父親としての最初の、そして最大の使命。そうだ、俺だけの「防波堤」になるのだ。この手で、必ず。
やがて看護師に呼ばれ、新生児室の奥にある個室へと通された。ガラス越しじゃない。手を伸ばせば、触れられる距離だ。小さなベビーベッドに眠る我が子は、想像していたよりもずっと小さく、しわくちゃで、顔はまだ赤かった。だが、それがどうした。この小さな体に、俺と陽菜の全てが凝縮されている。込み上げてくる感情に言葉が詰まる。そっと指先で頬に触れると、驚くほど柔らかく、温かい。生きている。俺の、俺たちの子が。命の重みと、どうしようもない愛おしさが、奔流となって全身を駆け巡った。守らなければ。絶対に。何があっても。
「なあ、母さん……見てくれよ。かわいいだろ、俺の子。俺、父ちゃんになったんだぜ」
この感動を、少しでも分かち合いたかった。あんたにとっても、初孫なんだ。色々あったけど、あんただって、心のどこかでは喜んでくれているはずだ。そんな温かい期待が、胸いっぱいに膨らんでいた。そうでなければ、おかしいじゃないか。
しかし、母の反応は、俺のそのささやかな期待を、音もなく、そして残酷に裏切った。
母は無言でベッドに歩み寄り、赤ん坊の顔を覗き込んだ。その表情に喜びの色は微塵もない。むしろ、何かを探るように、あるいは長年抱えていた疑念の答え合わせでもするかのように、執拗な視線を注いでいた。なんだ、その目は。まるで、骨董品の真贋を確かめる鑑定士のような、冷たい光。
一瞬、その眉間に深い皺が刻まれ、忌まわしい記憶でも呼び覚ますかのように、僅かに口元が歪む。それは、かつて俺が大きな失敗をしでかした時や、父の遺品の中から出てきた、母の知らない女からの手紙を見つけた時と、全く同じ表情だった。そして、再び赤ん坊に視線を戻すと、次に俺の顔を一瞥した。まるで、全てのピースがはまったパズルを完成させた者のように。
嫌な予感が、背筋を這い上がってくる。産院の暖房が効きすぎているのか、いや、冷や汗が首筋を伝うのが分かった。
冷たい確信に満ちた声が、静かな部屋に響いた。
「……似てないわね」
たった一言。祝祭の鐘の音を断ち切る不協和音だった。冷たい刃が、俺の胸の最も柔らかな部分を抉ったような衝撃。産院の暖房で火照っていたはずの肌が、急速に熱を失っていくのがわかった。ミルクの甘い香りさえ、急に色褪せて鼻につくように感じられた。さっきまで天にも昇るようだった高揚感が、鋭利な針で突かれた風船のように、一瞬にして萎んでいく。
「え……? な、何言ってんだよ、母さん。生まれたばかりなんだ。これからいくらでも顔は変わるだろ。そんなこと、あんただって分かってるはずだ」
声が震えた。空気が一変したのを感じる。必死に平静を装うとするが、心臓は早鐘を打ち、口の中がカラカラに乾いていく。冗談だと言ってくれ。そう願いながら母の顔を見つめるが、その表情は揺るがない。確信に満ちた瞳が、俺の言葉を、この幸福感を、まるで出来の悪い芝居でも見るかのように、せせら笑っている。やめろよ、そんな目で俺を見るな。俺の、俺たちの子を、そんな風に見るな。
「いいえ。そういう次元の話ではないのよ」母は静かに、だが有無を言わせぬ声で続けた。「遺伝子の主張というのは、生まれた瞬間から現れるものなの。特に、目元や、鼻の形……そういうものは、誤魔化しようがないの」
まるで生物学者か何かのような、妙に理屈っぽい口調。それが余計に俺を苛立たせ、同時に得体の知れない不安を煽った。
「……本当に、航平の子なの?」
頭の中で、何かが音を立てて砕け散った。冗談であってくれ。悪夢なら、今すぐ覚めてくれ。俺と陽菜の子だ。俺が、この目で、陽菜がどれほどの苦しみを乗り越えたかを見てきたんだ。それを、なんだって? この女は、自分の孫の誕生を祝う気など、最初からなかったのか? 怒りが込み上げてくる。しかし、それ以上に、母の言葉の裏に潜む、冷たい確信のようなものが、俺の喉を締め付ける。
「何言ってんだよ! 俺たち夫婦の子供に決まってるだろ! 立ち会いもしたんだぞ!」
荒くなる声を抑えられない。なんだよ、その言い方は! 陽菜を侮辱する気か! 俺たちの絆を、踏みにじる気か! しかし、母は怯むことなく、さらに冷酷な言葉を重ねる。その目は、得体の知れない憐憫の色さえ浮かべていた。まるで、真実を知らない愚かな息子を哀れんでいるかのような。
「あなたたちが急いで籍を入れたのは、この子ができたからでしょう? ……結婚の挨拶に来た時、陽菜さん、少し顔色が悪かったのを覚えているわ。あの時、もう分かっていたんじゃないの? そして、あなたは何も気づかなかった。いつだって、あなたはお人好しで、大事なことには気づかない子だったものね」
母の言葉は、俺たちの愛の始まりを、計算された計画へと貶める。陽菜のつわりを、別の意味にすり替えようとしている。そうだ、これは母の勝手な妄想だ。父に裏切られた過去の痛みを、俺たちに投影しているだけだ。そう自分に言い聞かせなければ、立っていられそうもなかった。
「いい加減にしろよ!」
怒りに任せて叫んだ俺を、母は射抜くような視線で黙らせる。そして、囁くように、しかし刃物のように鋭い言葉を、俺の鼓膜に突き刺した。
「だって、航平。母さんは……見てしまったんだもの」
見てしまった? 何を? 母が初めて俺の名前を呼んだ。その一言は、俺の足元を根こそぎ揺るがす、不気味な宣告だった。俺の知らない何かがあるというのか。いや、そんなはずはない。陽菜を信じている。陽菜が、俺を裏切るなんて、絶対にありえない。だが、実の母親が放った「見てしまった」という言葉の、どうしようもない重みが、鉛のように俺の心にのしかかり、呼吸を浅くさせた。頭の中で、結婚前の陽菜の、ほんの些細な言動や、時折見せた翳りのような表情が、意味もなく繋がりそうになるのを必死で打ち消す。違う、違うんだ。
希望に満ちていたはずの産院の一室が、一瞬にして疑念と不安が渦巻く、冷え切った密室に変わってしまった。俺が築こうと誓った「防波堤」は、まだ礎石を一つ置いたばかりだというのに、最も信頼すべきはずの人間によって、その内側から巨大な亀裂を入れられようとしていた。
ベッドの上の赤ん坊が、ふ、と小さな寝息を立てた。何も知らず、ただ安らかに眠るその無垢な顔。この重苦しい静寂の中で、そのか細く、しかし確かな命の音が響く。その音が、今はやけに俺の鼓膜を圧迫する。まるで、この小さな命が、これから始まる嵐の中心にいることを、俺にだけ告げているかのように。
そして俺は、その嵐の中で、ただ立ち尽くすことしかできなかった。この腕で、この子を、陽菜を、守り抜くと誓ったばかりだというのに。どうすればいい。何を言えば、この悪夢を打ち破れるんだ。言葉が、出てこない。ただ、焦燥だけが、俺の中で音もなく空回りしていた。
(第一話 了)