図書館
図書館、これはメタファーとして最適なものである。本、棚、通路、これらの要素が図書館をより深みのあるものに仕立て上げている。図書館とはなんだろうか。そこには本がある。本が図書館の主構成要素であること間違いないが、本だけでは図書館になり得ない。本は、一般的になんらかの規則を持って配列されている。それらの規則によって本は秩序立てられている。そしてそれを支えるのが書庫棚と通路である。図書館は、配列規則なしには立ち行かない。当然、本もなくてはならない。規律を失った図書館は、ただの本置き場である。本なき図書館は、空っぽの入れ物である。棚と通路は、本の存在によって初めて意味を持つのである。しかし、その意味は本が直接与えているのではない。規則も同様である。棚や通路が意味を持つには、本や規則の介在が不可欠である。また、本や規則も、棚や通路無くしては無意味である。
本はそこにあるだけで、意味を持ち得るかのように思われるかもしれない。本だけは特別で、あらゆるものの存在に先立つのではないかと。しかし、おそらくそんなことはあり得ない。完璧な一冊の書物が存在しない以上、全ての書物は、それぞれの関係性の中にのみ存在する。ある一冊の書物を例に挙げる。その本はそれ自体で有意味であるかのように振る舞っている。しかし、それは偽りである。その書物が完璧な書物(神羅万象あらゆるものを記述しうるもの)であれば、話は別であるが、それはユートピア的な概念である。そんなものは存在しないので、それ単体を切り取っても無意味である。本は、本と本の連関性によって初めて意味を持ちうるのである。時間的背景を多く含む本が、通路や棚などで空間的に位置付けられることで、初めて我々に観測される形をとるのである。空間的な配置によって、初めて現在に顔を出す。本は時間的な側面を多く持つ。書き手の文字は、全て未来へと向かっている。一方、読み手の文字は、全て過去へと向かう。本自体が時間を持っているわけではない。本と本との関係性によって、擬似的に時間を持っているかのように錯角しているだけである。時間はこの世界では観測されない。関係性の中においてのみ立ち現れる。しかもそれは、時間そのものではない。ただの錯覚である。