身勝手の轍②
現れたのは制服を着た女子だった。
(あの人……どこかで)
その女は、すぐさますみれの方に近づきだす。
「ねえ、すみれ……」女はなぜか情緒的だった。「なんで……吹部辞めたの?」
(え……!?)
「君、昨日の……」
その女はハクを見るなり、目を見開きながらそう言った。
「私、この人と音楽することにしたんです」
そう言ったのはすみれ。『この人』とは、おそらく自分のことだろう。
女の表情が急に曇りだす。彼女自身も、その発言に頭が追いついていない様子だった。
「……は。何……何よそれ。すみれ、さすがに勝手過ぎるでしょ?」
「勝手じゃないです。昨日ちゃんと退部届け出しました」
「違う! そういうことじゃない!」
その女の口調には明らかな怒気が含まれていた。
怒りが爆発してしまうのを何とか抑えているようだが、もう爆発するのも時間の問題であろうか。明らかに感情の方が前に出過ぎてしまっている。
すみれに向ける、そのとてつもないほどに威圧的な目つきは、当然ハクを委縮させるのに十分で口出し一つできたものではない。
ただ一つ。疑問に思うことがあった。
――この人は、どうしてこんなに怒っているのだろう。
彼女はもう退部したと、そう言っている。
だったら、もう自由同然じゃないか。なぜ彼女を自由にさせてやらないんだ。
そう思うと、少しだけ憤りを覚えた。
けれど、その憤りを言葉にするまでには至らなかった。それを言葉にするのはあまりに無責任過ぎると感じたから。
「コンクール……」女は言った。「十月のコンクール。どうしてもあなたが必要なの、すみれ」
女は、そっとすみれの手を掴む。
「今ね、代わりの人が弾いてるの。けど、はっきり言ってあれじゃ金賞なんて絶対取れない。あの自由曲にはすみれのピアノがいるの。あれはすみれあっての演奏なの。だから、ねぇお願い。戻ってきてまた一緒にやろ? 一緒に金賞目指そう? ……ね?」
「すいません」
すみれが言い放ったその言葉は、申し訳なさの欠片も感じ取れないほどに冷たかった。
「金賞とか、そういうの興味ないんです私」
「金賞とか……」
彼女はついに怒りを抑えきれなくなった。
「あの時みんなで金賞目指そうって言ったじゃん!! 今年こそ取るぞって!!」
握りしめられたすみれの手が、荒々しく揺れ動く。
「すみれ。本当にこのままでいいの? 去年の……あんな終わり方のままでいいの? 悔しくないの? ……ねえ、お願いすみれ……吹部、辞めないでよ……一緒に――」
するとすみれは、今まで握りしめられていた右手をすっとほどいた。
まるで決心したようなまっすぐな顔つきで、すみれは女の目を捉える。
「私は金賞を目指そうだなんて、一言も口にしてません。興味もないです。それに――」
すみれは一瞬だけハクに視線を移す。
「私、今やりたいことあるんです。申し訳ないですけど、もう吹部に戻る気はありません」
涙をにじませている女に対し、すみれははっきりとそう断言した。
「申し訳ない……?」
だが女は、それで納得するわけもなく……
「申し訳ないって何!? すみれ絶対そんなこと思ったりしてないよね! 見下してたんでしょ……最初から。自分だけピアノが飛びぬけて上手いからって、それで注目されて私たちみたいな才能ない人たちのことなんかどうでもいいって思ってるんでしょ。そこにいる男だってどうせ、自分と同じ才能があるから気にかけてるだけで」
「違います勝手に決めつけないでください……!」
なぜだろう。自分は怒りに身を任せてそんな発言をしていた。
突然の発言に、女は自分に目を向けた。
「なんでそう、人のことを勝手に判断しようとするんですか……!?」
半ば怖さにやられた状態での発言。そこにはもちろん、己の弱さも表れていたと思う。
「うっさい!! 大体あんた誰なの……!? なんにも知らないくせに口挟もうとしないでよ」
「何も知らずに口を叩いているのはあなたもじゃないですか!?」
「は……」
まさか言い返してくるとは思わなかったのだろう。女は口をぽかんと開け、瞳を空にした。
すると、女は急に顔色を変えだした。
まるで虫を見る目で、自分たちをぼおっと見つめだして、
「あー、もう呆れた。あんたたちみたいなろくに何も通じ合えない人と絡んでた私の方がバカだった」
女の口調が豹変する。
「帰って……」女は言った。
その声はあまりにも小さく、聞き取れなかった。
「早くここから出てって!! 消えろっ!!」
「……!」
怒りがこみあげてくる。
もう一度、この何もわかっていないクソ女に言い返してやりたかった。けれど――、
「ハク」
その瞬間、諦観を含んだ声が自分をやさしく呼びかける。
背中に、優しい彼女の手がゆっくりと添えられる。
理由はわからない。こころからの安心を得られたのはこの時だった。
「行こ」
手のひらが、やさしく前に進むことを促す。
あたかも彼女は、もうこれ以上言っても無駄であると言っているようで。
「………」
やがて自分たちは、音を立てることなくただ静かにその場所を去っていった。




