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下弦の月に見守られた再会は、巡回の光を見つけたリズの一声で終わりを迎えた。
「今度こそ行くから。……これ、後で読んでね」
去り際に渡されたのは宛名もない質素な封筒で、それに気を取られている内にリズの姿は消えていた。
封筒が手元になかったら、きっと願望が見せた幻覚を疑っていただろう。
肝心な封筒の中身は、実家に向かう途中、馬を休ませている間に読んだ。
『あれだけ言っておいて勝手に居なくなるなんて酷い』『待たされた代わりに、サジュレスの絶景が楽しめる場所に連れて行ってくれないと許さない』みたいなことが、不慣れな文字で綴ってある短い手紙だった。
俺が送った一通目の手紙の返事を律儀にも、リズはこうして俺に渡してくれた。
真っ赤になった目元を弟たちに散々からかわれて、でもそれさえ気にならない様子の俺を家族揃って気味悪そうに見ていた。
それから俺たちは、王都に与えられた自宅のベランダや、王城で借りた客室のバルコニーで、月のよく見える夜に顔を合わせるようになった。
その頻度は週に1度か2度ほどで、次を示し合わせる訳でもなく会いたいと思った時に部屋を出て、時に手ぶらで、時に酒やちょっとした食べ物なんかを持ち寄って、気の向くままに寄り添い合った。
待ってみても会えない日だって当然あって、そんな時は置き手紙や小さな贈り物を俺の家のベランダに残した。
街で見かけた月と星空の意匠が刻まれた銀のバングルとか、『お返し』とメモの添えられたミサンガとか、名も知らないオレンジの花で作られた花冠とか、『今度は花で指輪を作る方法を教えてあげる』と書いたメッセージカードとか。
最初は俺の置いたバングルで、バングルの代わりに手作りだろうミサンガがあった。花冠の代わりには次の約束を置いた。
飽きることも贈り物に困ることもなく、やり取りは繰り返されている。
俺が数日の繋がった休みを取れた時や、地方に遠征を命じられた時にはそれを伝えて、手紙の通りに綺麗な景色を肩を並べて見るようにした。
そんなこんなで、やっと届いた俺の遺書を王都の自宅に隠したり、いつの間にかサジュレスの国王夫妻には2人の年子の王子がまれたりした頃、俺に3ヶ月の長期休暇が与えられた。
「やっと色々落ち着いてさ、来月から丸々3ヶ月も休んでいいって」
一時は『このまま城に骨を埋めるんだ』って悲観するくらいずっと仕事漬けの頃もあったけど、やっぱ上に立つ人って飴と鞭が上手いんだなって……なんて茶化してみても、空気はどこかずっと上手く吸えそうになくて。
「……3ヶ月、どうしたい?」
みっともなく言葉尻が震えそうになるのを必死に誤魔化したつもりだけど、リズの耳にはどう聞こえていただろうか。笑顔は引き攣っていないだろうか。
「行こう。あの湖」
「だな」
ほんの少しの落胆によく似た感情と、実家で中身を見られる前に回収した遺書を見つけやすい引き出しの1番上に仕舞った自分の英断への賛辞。掴めた心の動きはその2つだけだった。
ーーーーー
事前に、休暇中は友人とユーフォレアへ観光に行くのだと、ローレンス陛下に告げてあったから、ついでに親書を託されて使用料を取られるタイプの整備された道を無料で利用する許可がいただけた。許可証と一緒に2頭の馬も。労働への対価の一環らしい。
そんなわけで今回は、騎士として乗馬訓練を受けた俺以上に危なげなく手綱を操作する、フードを目深に被ったリズと共に馬を走らせている。
まともな国交が始まったばかりの二国間を結ぶこの道は折々で様々な人たちによって使い倒されているところなので、最近のサジュレスはともかくユーフォレアからの人目を避けるためにもフードを外せず、リズの髪が風に靡く様を見られないのが残念だ。
しかし、前回の旅路とは比べるべくもないほど快適である。人が通れる場所を求めて遠回りする必要も無い。付き人を大勢連れている高貴な方ならば必要とされる頻繁な休憩も、実力者2人の身軽な旅であれば最小限で済む。
この調子だと、国境への片道にかかる期間を3週間程度まで縮められるかもしれない。以前は国境を超えるまでに寄り道を含めて半年かかり、世間一般でも寄り道抜きの最速でひと月はかかるという話であることを考えれば、かなりの快挙である。
そこから湖までは1週間もあればたどり着く。合計で1ヶ月だ。
「陛下と共に妃殿下を迎えに行った時より短い……」
万能の権化のように見える陛下だが、長時間の乗馬に耐える精神は持っていても肉体がそれに追いついてくれないらしく、片道でひと月を少し超えていた。
「何か言った?」
「ああいや、何でもない」
自分の成長と、自分たちの一般からの乖離具合に慄いていただけだ。わざわざ雑談にするほどのことでもない。
勇者として遠征を命じられ、遠征先でリズとの時間を捻出するために工夫してきた色々がこうして旅路に活きているという話も、本人にするものではないだろうし。
「ならいいや」と前を向いたリズに置いていかれまいと、真剣に前を見据ることに集中した。
魔物避けもしっかりしてある道だから夜間もしっかり体力の回復に専念でき、サジュレスからの親書をユーフォレアの国王へ渡すために王城への1泊を余儀なくされようと、湖の最寄りの町で以前利用した宿に部屋を借りた時点でも、俺の休暇は2ヶ月丸ごと残っていた。
「次の満月は明日だって話だけど、どうする?」
どうせの帰路にかかる時間を考える必要はないのだから、『次の次の満月』や『次の次の次の満月』を待ったっていい。
それに、滞在が延びるほど一緒にいられる時間も長くなる。
旅をしていた頃のような気楽さを味わえるだろうし、俺の人生で『リズと居た時間』が占める割合がその分だけ増える。これだけ心を占有されていても人生で見るとまだ4分の1程度なんて有り得ないし、割合が足りてない。「どうしてもっと早く」なんてどうしようもない事は言わないから、せめてその割合が逆転するまでは。
そんな願望を横に置いておいて、彼女の付き添い人である俺は判断をリズ本人に任せ、ベッドの上で護身用のナイフの切れ味を確かめる。
手持ち無沙汰になればその度に武器の手入れに精を出していたために、手の中のナイフは触れる前でも切れそうなくらいきらめいている。
「明日、行こう」
「わかった」
ナイフの表面が急に陰った。
俺がナイフを仕上げ用の布で拭うのを、リズが背中越しに見ている。話しかけてくるでもなく、ただ視線だけが突き刺さる。
「どうかした?」
「……何でも」
「そう?」
「……うん」
今後の憂いも必要ない状況でも、口に出せない言葉というのは変わらないものらしい。
この休暇中、どうにも俺たちはぎこちない。
ーーーーー
真夜中と言うより明け方に近い、そんな時間帯。
私は時折雲に隠れる月光を頼りに隣のベッドで眠るエリックに近づいた。
ここまでの疲労もあり、心労もあり、エリックは私の気配にも気づかないくらい深く眠っている。
「……エリック、私ね。私、大切なものはもうひとつも残ってないと思ってたの。でも、違った。いつの間にかあなたがその『大切』になってた」
家族も、幼い私の宝物も、全部手放した。思い出も色褪せて久しかったはずだった。
それなのに、あなたとの日々が輝いていた。気づくのが随分と遅くなったけど、あなたとの日々だから輝いて見えた。
「……ごめんね、大好きだよ」
予行練習の独り言のような告白。想いは乗せても届けるつもりのなかった言葉。
「俺も好きだよ」
それなのに、返事があった。
夢現で出た寝言はない、輪郭のはっきりした返答だった。
「──ひぅっ!?」
現実を飲み込み、喉が可笑しな音を立てた。
「っ、ふは、あははっ!」
脱兎のごとく自分の寝台に逃げ込み繭になった私をエリックが笑う。面白くて可愛くて仕方ないという具合に、私の両親がそうしていたように。
「ごめん。寝たフリしてたから、全部聞いちゃってて。聞いてない事にした方がいいのか悩んでたらあんなこと言われたものだから、思わず」
返事しちゃった、と悪戯っぽく。
布団で隠れているから見えないが、きっと彼は大人びた顔立ちで子どもみたいな表情を浮かべていることだろう。
私が何より好きな表情のひとつでこちらを見ていることだろう。
「……やっぱりエリックなんて好きじゃない」
こんなの嘘っぱちで、笑われて拗ねて、八つ当たりじみた意趣返しのつもりで言っただけ。
「えっ! やっ、ごめん! 俺が悪かった! だから機嫌直して、リズ!」
それなのにエリックが、私の言葉で面白いくらい一喜一憂するものだから。
「……ふっ、ふふふ」
もうちょっとワタワタさせるつもりだったのに、思わず吹き出してしまった。
なんだか隠れているのも馬鹿馬鹿しくなって布団から出て、私の笑い声で気が抜けたように緩く困り眉で微笑むエリックと向き合う。
「やっぱり好きじゃない、なんて嘘言ってごめんね」
「ううん、俺こそ笑っちゃってごめん。つい、反応があんまりにも可愛くて」
いつものエリックの「可愛い」に、やっぱり私の頬は熱を持つ。持て余す感情に振り回されまいと唇をきゅっと引き結んで、せめてもの抵抗でエリックから斜め下に視線を逃がす。
「……また、その照れ顔が見られて良かった。この旅の間ずっとぎこちない感じで、こんなに好きな表情なのにもう二度と見れないのかと思ってたから」
今回は珍しく「可愛い」の追撃がなくて、代わりに寂しそうな呟きがあった。
その声色に釣られて私の眉も下がる。
「……このくらい、これから何度だって見せてあげるけど?」
出会ってからかなりの付き合いになったのに、エリックが相手でも独り言以外で素直になるのはこんなにも難しい。
むしろエリックだからこそ難しいのかもしれない。随分と下手くそな私の甘え方を笑って受け止めてくれる人だから。
「これから何度だって、って……」
「あの湖に行きたいのは変わらないけど、それはあの物語の舞台が見たいだけであって、これからの人生への悲観はもう私の中に残ってないの」
もう『死にたい』なんて思っていない。切り出し方がわからなくて伝えるのが随分と遅くなってしまったけれど、王城のバルコニーで再会するずっと前からそうだった。
それに、あの日にエリックが居なくならなくても、私はきっと彼を道連れには死ねなかった。
『一緒の最期』はともかく、『私のせいで最期になる』のは受け入れられなかっただろうから。
「明日は結構歩くことになるんだし、もう寝よう」
寝不足で足元の悪い獣道を進むのは怪我のもとになる。
そう言って逃げるようにベッドへ戻れば、
「……そう、だね」
心ここに在らずのエリックの声がして、布団に潜る音が聞こえた。




