幻想の数日間.4
人の努力を指差して笑う者もいますが、認めてくれる人も必ずいるものです。
でもまずは、自分自身がその努力を認められる存在であれば…と思う、今日この頃。
スプラートが用意してくれた家は、元々彼女らが別荘で使っていた場所とだけあって、手広く、環境も整っていて、とても過ごしやすかった。
質の良い木材で出来た床や壁。高級そうな家具からはリラックスできる良い匂いが漂っているし、近くを流れる清流は飲み水として文句の付けようのないものだった。
陽が昇っているうちは、森からは鳥たちが歌う声が聞こえ、時折顔を覗かせる愛らしい獣たちの姿を見ることもできる。
月が浮かんでいるうちは、星々の瞬きを遺憾なく楽しむことができた。世界に二人だけしかいないのでは、と錯覚を抱いてしまう静寂の前では、意図せずともスノウの白い横顔に夢中になってしまう。
基本的には快適で、問題はない。ある一点を除けばだが…。
「ご、ごめん…」フルールは、テーブルの上に置かれた炭の塊を見つめて呟いた。「折角、頂いた卵だったのに…焦がしちゃった」
「し、しょうがないです、フルール様、私がやったらもっと酷かったと思いますし」
「酷いとは思ってるんだね…」
「あぁ、いえ、その…」
「いいんだ、事実だし」と言いながら、フルールは自分で焦がした玉子焼きをしげしげと観察する。
黄色い部分がほとんど見当たらない玉子焼きは、もはやダークマターと形容するのが相応しい様相を呈している。
台所に積み上がった必要以上の数の調理器具は、すべからく汚れが付いている。こうして実際に家事をやってみて、メイドたちの苦労が初めて身に染みて分かった。
「…よくよく考えたら、貴族令嬢の二人暮らしなんて、当然こうなるよね…」
身の回りのことは何もかもメイドたちに任せてきた身だ。料理の仕方なんて知らないし、洗濯の仕方だって知らない。部屋の片付けをいつしたらいいのかも分からない。可愛い鳥や動物たちが汚していく庭も、どうやって綺麗にしたらいいものやら…。
「すみません、私が不器用なばかりに」
「いやぁ、私も酷いもんだよ。使用人に甘えてばっかりだったツケが回ってきたね」
フルールは苦笑すると、カップを手に取った。
「はい、飲みなよ。片付けする前にさ」
現実逃避のために入れた紅茶はすでに冷めきっていたため、カップ自体に熱を込め、中身を温めた。自分の魔力ではこれが限界だが、ないよりマシと最近は思えた。
「ありがとうございます。フルール様の入れる紅茶は、いつも温かいですね」
「まあね。こんなふうに魔法でパパッと片付かないかなぁ」
振り返る部屋の中は、色々と散らかっている。自分たちの情けのなさに苦笑いしか出ない。
すでに新しい暮らしが始まって二週間。家事に四苦八苦していることだけを除けば、二人の暮らしは順風満帆だった。
他者からの干渉がない時間は、二人が久しぶりに手にした安息の時間だった。
スノウの口数も増え、今では自分よりも口を開くように変わっていた。それが彼女の本来の姿なのかもしれない。
引きこもって六年ほど経っていたらしいので、そのメンタルの回復力には驚いたほうがいい気もする。とはいえ、それは自分を対象に限定された態度でもあった。
稀にメイドが金貨や食料の入った袋を持って来るときは、スノウはさりげなく家に戻り、全く顔を合わせようとはしなかった。家の人間ではないからこそ、スノウもコミュニケーションを取る気になれるのかもしれない。
「フルール様、少しご相談があるのですが」
「んー…?どうしたの?」散らかった衣類を片付けながら、フルールは応える。「最近は少し肌寒くなっていますし、ローブか何かを買い足したいと思うのですが…その、街で買って来てはもらえないでしょうか?」
「ローブ?」と散らかった衣類を見渡しながら、フルールは怪訝そうに眉をしかめる。「服なら、スプラート様に沢山貰ったと思うけど、これじゃ足りないの?」
「え、ええ…あの…」
少しばかり言葉に詰まったスノウを急かさず、彼女が安心して先を紡げるよう、微笑んで首を傾げてみせる。何か言いたいことがあるなら、遠慮なくどうぞ、というサインだ。
「それは、あの家から持って来たものですから…」
その返答にフルールは得心する。
「なるほどね」
自分を見捨てるような家の思い出は、可能な限り遠ざけたいのか。それで何が変わるでもないのは分かっているが、その気持ちも理解できる。
フルールは快く頷くと、すぐに行って来ると告げて外出の準備をした。
玄関の扉を開け、閉める前にスノウのほうを振り返る。
「じゃあ、行ってくるね」
「はい、お願いします。私も夜に凍えずに済むよう、薪を沢山拾っておきます」
「うん、よろしく」ふと、扉を閉める直前に、どうしてかスノウのことをからかいたくなって、もう一度振り返る。「ああそうだ、私もヴェルメリオ家の端くれだからさ、寒かったら言ってよ。火の魔法でぎゅってして温めてあげる」
実際、体温くらいは上げられる。寒さに鈍感なのは、これができるおかげでもあった。
それを聞いたスノウは、さっと頬の上に紅葉を散らしてみせると、しどろもどろになりつつ視線を右往左往させた果てに、唇を尖らせて奥へと消えてしまった。
しまった、からかいすぎたかと頭をかいたフルールだったが、胸の奥には、とうに忘れ去られていた温みが戻りつつあるのを悟って、優しく微笑むのだった。
二人の家から一番近い街には、三十分ほど歩いたら到着した。久しぶりにメイドやスノウ以外の人間の顔を目撃して、何だか自分が世捨て人にでもなったような気になる。
スノウにお願いされていたローブは思いのほかすぐに購入することができた。例年、気温が落ち始める時期らしく、店頭は防寒具一色になっていたため、とても見つけやすかった。
寄り道せずに帰ろうかとも思ったが、折角時間にも余裕ができたので、フルールは少しばかりショッピングを楽しむことにした。
旬の果物を二人分購入した後、フルールは最後に本屋へと足を運んだ。
買うものは決まっている。料理の本と裁縫の本、それから、剣術の本だ。
新しい生活に早く馴染むためにも、自分なりの努力がいるとフルールは考えていたし、剣術に関しても、習う先を失ってしまったため、独学でいいから鍛錬を続けようと思っていた。
どうせ戻れはしないから、と信兵衛に一言も告げずにヴェルメリオ領を去ったことが、今になって申し訳ないことをしたと思えた。
本屋の店主は剣術の本を会計する際に、驚いたふうに顔を上げ、フルールの顔と背中の長剣を訝しがるように観察した。
「あの…」言いたいことは分かっていたが、あえて彼女は声をかけた。「どうかしました?」
「あぁ、いえ…珍しいものをお買いになられるなと思っただけでございます」
「そっか…やっぱり、女が剣術なんて変ですか?」
「多少は」と呆気なく言い放つ老人に、少しだけ苛立ちが募る。
しかし、おもむろに背を向け、本棚を漁って数冊の本を取り出した彼が続けた言葉にその苛立ちは霧散する。
「これも持ってお行きなさい。もちろん、サービスでございますよ」
「これは…?」
「剣術にまつわるものです。古い本ですが、ご興味があれば」
「あ、ありがとう!でも、いいの?」
「構いません。どうせこのご時世ですから、売れ残るばかりです。本にとって、誰にも読まれないことほど不幸なことはありませんから、どうぞ」
剣術を学ぶことについてこんなふうに扱われたことは初めてだったため、フルールは目を白黒させた。だが、そのうち老人が微笑むのを見て、心がすうっと軽くなった。
フルールは、代わりに購入していたフルーツを一つ、老人に手渡した。
遠慮する老人に、「貰ってばかりじゃ女が廃る。それに、妻に素敵な土産話もできたからさ」と伝えると、彼は少しだけ驚いたふうに目を丸くしてから、再び朗らかに笑った。
…さすがに、妻は飛躍しすぎだったかもしれないが、まぁ、良しとしよう。どうしても言ってみたかったのだ。
少しばかり立ち話していたフルールだったが、店の外が夕焼けで色づいていることに気付くと、「このあたりで失礼します」と老人に断って外へ出た。
「道中、お気をつけて。最近はよく若い女性が攫われているそうです。本当に、用心してお帰り下さいね」
どこまでも暖かく見送ってくれる老人に頭を下げ、フルールは帰路についた。
初めは、あんなにも温かい人間が暮らしているリアズール領は素敵だな、と呑気に考えていた彼女だったが、次第に老人が最後に残した忠告のことが気になって、険しい顔つきのまま早足で家へと向かっていた。
「…人攫い、か」
それを聞いて最初に浮かんだのは、その血肉を食うために人魚を攫うというおぞましい話だ。そして、次に浮かんだのが、若い女性を攫う、という部分から、スノウは無事にしているだろうかという心配だった。
詮無い心配だと分かってはいるものの、一度気になり始めると、粘性の高い蜘蛛の糸みたいにその不安はフルールの脳裏にこびりついた。
自然と、彼女の足取りが駆け足同然へと近づいていく。すぐにでも帰って、スノウの控えめな微笑を目にしたかった。
行きの時間よりも随分と早く帰り着いたフルールは、夜鳴き鳥の声に不穏さを覚えながら玄関の扉を開けた。
「スノウ、ただいま!」
…期待していた、『おかえりなさい』の言葉は聞こえてこない。それでますます不安になったフルールは、遮二無二なって部屋の中を探し回る。
寝室、倉庫、風呂場、客室、洗面所、クローゼット…砂漠で針を探すみたいに目を皿にして探し回るも、やはり、スノウの気配はどこにもない。
そういえば、薪を探しに行くと言っていた。帰って来ていないとおかしな時間ではあるが、慣れない森だ。もしかすると迷っているのかもしれない。
「もう、スノウってば、どこに行ったんだよ…!」
荷物を持ったまま、フルールは再び外に飛び出す。玄関のそばに掛けてあるランタンを持って、夜の闇を引き裂く姿は、リアズール領に多く住まう夜光虫を想起させるものだった。
山の向こうへと沈んでいく、大きく、赤く、不気味な夕日を見ていると、どこか物悲しい気持ちになった。
死ぬために編んだはずのロープで、自分が生きていることを思い出させられた日のことが、頭をよぎる。
独りで赤く燃える、物言わぬ夕日が夜を迎えるために沈んで行く様子は、とても死に近い…昔から、何となくそう考えていた。
陰鬱さが過去の影を呼び、その影がまた今に不穏な影を呼ぶ。それを振り払うために、スノウは心を落ち着かせる呪文みたいに、ぼそりと彼女の名前を呟く。
「…フルール様…」口にした憧れの彼女の名前が、冷えた暗闇の中に溶ける。
拾い集めた薪を所定の位置に運ぶと、玄関先にランタンを掛け直してスノウは家の中へと入った。
せめて、フルールが帰って来たときに気持ち良くくつろげるようにと、暖炉に火を入れて片付けを始める。服を畳む手際が悪く時間はかかってしまったが、まあまあ綺麗に片付いた。
食事の準備も…と思ったが、どうにもこれは駄目だ。包丁を持つと緊張で手が震える。魔力が練られないとはいえ衝撃に反応して自然発生する魔法障壁があるので、今の自分でも、刃は肌の表面をなぞることすらできないのだが…。
自分に出来ることをしたつもりで、ロッキングチェアに揺られて船を漕いでいたスノウは、玄関の呼び鈴が高い悲鳴を上げる声を聞いて跳ね起きた。
「だ、誰…」ドクン、ドクンと拍動する心臓。メイドだったら、呼び鈴は鳴らさない。扉の向こうに黙って荷物を置いて終わりだ。
息を殺して扉の前まで移動してから、そっと、耳を寄せる。
一瞬の静寂の後に、再び、呼び鈴が鳴らされた。
「っ…!」耳を寄せていたせいで、驚いてしまう。
無視を続けてしまおうか、とも思ったが、もしも、フルールの客だったら不味いと思い直し、いくらか深呼吸してから応答する。
「どなたですか…?」誰かが、扉の向こうで身動きをしたのか感じられた。「フルール様なら、今は外出中ですが…」
口にしてから、しまった、と思った。不審者かもしれないのだから、自分一人と知らせるべきではなかった。
だが、やがて聞こえてきた声は、六年近く閉じこもっていたスノウでもよく知るものだった。
「…私よ、スノウ」びくり、と驚きと同時に扉から身を離す。
静かで、落ち着いていて、知的で、でも冷たくて…。
リアズール家の地位を四大貴族の中で頂点にまで押し上げた母の血を、最も色濃く受け継いだ女。
スノウは静かにその女の名前を呼んだ。
「…ブリザお姉様」久しぶりに姉の名前を直接呼んだ。「何の用ですか…」
「少し、貴方と話したいことがあるの。ここ…開けてくれないかしら?」
「は…話したい、こと…?」
六年も自分を放っておいて、今さら何を話したいと言うのだろう。少なくとも、良い予感はしない。
たっぷり迷ってから、ほんの少しだけ扉を開ける。隙間から、ブリザの美しく成長した顔が覗いていた。
「久しぶりね。スノウ」
自分と同じ瑠璃色の髪に、夕焼けを吸い込んで赤と青に煌めくサファイアの瞳。
昔から、感情の読めない瞳だったが、それは今も変わっていないようだ。無表情と相まって、その瞳からは何も分からない。暗い水底を覗き込んでいるみたいだった。
「フルール様なら…」
「言ったでしょう。私は貴方に用があるの」
「私に…?何の用ですか」
「ここでは少し話しづらいわ。歩きながらでも話すから、少し散歩に付き合ってくれない?」
絶対に嫌だ、と顔には出してみせたつもりだが、ブリザはらしくない優しげな微笑で無理やりスノウを外へと連れ出した。
夜が、すぐそばまで来ていた。
振り返らずとも、妹が自分の後ろからついて来ていることを信じて疑わないブリザの背中を、スノウは酷く忌々しく思った。
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