幻想の数日間.2
迫害のニュースを聞くと、どこか遠くで起きているような気になります。
ですが、あり方は違えど、一歩外に出ればあちこちに転がってるんですよね。
福祉で働く者として、見てみぬフリだけはしたくない、そう思うこの頃です。
スノウ・リアズールは、フルールが考えていた以上に言葉数の多い人だった。
もちろん、お喋りというわけではないが、初めて顔を合わせて以降、一日を待たずして部屋に入れてくれるようになったし、二、三日もすると、夜であれば一緒に部屋の外を歩き回ってくれるようになった。基本的には、質問にも答えてくれる。
それに口調も明朗だ。引きこもり、というワードから勝手に連想していたおどおどした様子は、スノウからは一切見られなかった。
それらしい様子と言えば、時折、瞳の上を滑る虚無の色ぐらいだろう。それも、彼女が独りでいるときぐらいしか見られない。自分といるときは基本的に聞き手になって、献身的な誠実さを示してくれた。
瞬く間に心を開いてくれるスノウに驚きはしたものの、とにかく対等の立場で互いを思いやってできる会話が楽しかった。信兵衛以外とは、ありえなかったやり取りだった。
そうしてフルールが二週間目の滞在を決めた頃、ヴェルメリオ家から帰宅を命じる手紙が送られてきた。
どうやら、スプラートが、スノウとの交流について父に感謝の手紙を送っていたようだ。父からの手紙も、珍しくお褒めの言葉があった。
一度戻って、しっかりと準備をしてからまたお邪魔するようにということだったので、もはや断る必要もなく、フルールはそれを受け止めた。
都合よく、父に使われている自覚はある。父はもう自分を娘ではなく、政略結婚の道具としてしか見ていない。
だが、それで良かった。こちらも、ヴェルメリオの在り方に対して一線引いた視点から見られるようになっていた。
(祖父のように、世界を変えるための戦いができなくても…私には、私の人生がある。それでいいんだ)
その変化を与えてくれたのは、何もスノウだけではない。ブリザやスプラートの、四大貴族として相応しいと思しき振る舞いが、彼女の中から奇妙なこだわりを取り去っていた。
自分は、彼女らのようにはなれない。地位や名声を何よりも重視し、家族を見捨てるような生き方は、死んでもできない、したくない。
一度、ヴェルメリオの家に戻ると伝えたときのスノウの様子を思い出す。
スノウはフルールが二度と戻って来ないのではと、不安そうにしていた。にも関わらず、縋ることもせず、何かを諦めたふうに俯いていた不憫さがとても愛らしく思えた。
こんなにも自分のことを必要とされる経験は久しかった。もう十年近く時を遡らなければ思い当たらない。それだけ、自分はヴェルメリオでは必要とされていなかった。
必ず戻って来てくれ、と涙と共にうわごとのように繰り返すスノウのことが、愛しくてたまらなかった。道中も、気付けばスノウのことで頭がいっぱいになっていた。
共依存、という言葉が頭をよぎる。歪な在り方かもしれないとも思ったが、そうならないほうが土台無理な話だとも開き直れた。
ヴェルメリオ領に戻ると、驚いた顔が馬車の停留所に待っていた。
フルールは馬車を降りて荷物を回収すると、言葉にし難い表情でこちらを見つめている相手に手を挙げて近寄った。
「まさか、シェイムを迎えに寄越すなんて…、珍しい」
「…お久しゅうございます。お姉様」
迎えに来ていたのは、フリルの付いた真紅のドレスに身を包む妹のシェイム・ヴェルメリオだった。
(父が次期当主様をわざわざ雑用に駆り出すとは思えない…。何か企みがあるわけじゃないよね…?)
他人行儀な反応を示した妹は、くるりとフルールに背を向けると家のほうへと歩き出した。フルールもその後ろを一歩下がって付いて行く。
ヴェルメリオ領内のあちこちでは、白い煙が上がっているのがいつでも確認できる。これは、ヴェルメリオ領が石炭や鉱物などに恵まれた土地で、それらの扱いに長けた種族や人間が多く存在するから見られる景色でもあった。
坂を上る道中から見える下層の作業場では、薄汚れたボロ布をまとって働く子ども、異種族たちの姿が見える。
本来は恰幅の良いはずのドワーフが痩せ細っている様を見れば、自然と朱で染められた裾からはみ出る血色の良い自分の腕に視線が落ちる。
自分は恵まれている。魔力に恵まれなくとも、食うものや着るものには困らない。埋められない穴があったとしても、それは生命を脅かすことはないのだ。
坂を上り終えたあたりで、おもむろにシェイムが口を開いた。
「私がお父様に頼みました。お姉様のお迎えに参りたいと」
「…シェイムから?」こくりと頷くシェイム。奇妙だと、すぐにフルールは顔をしかめた。
シェイムは出来損ないの姉を嫌っている。見下していると言ったほうが正しいか。直接そう言われたわけではないが、まともに顔も見ない、この他人行儀なやり取りを鑑みれば、そういう回答に行き着く。とにかく、世間話をしたくて自分と言葉を交わす場を設けたはずがないのである。
再び、無言で足を進めた。どこからか漂ってくる煙の臭いは、不思議と郷愁の念をもたらす。
「お姉様」
「なに?」
「私が、次期当主に決まりました」
何だ、釘を打ちに来たのか、とフルールは肩透かしを食らった気分で苦笑を浮かべる。
「知ってるよ。まぁ、当然だよね。別に驚きもしないよ」
「お姉様は、それで本当に良いんですの?」
足を止め、振り返って問いかけるシェイムの表情からは、嘲るような色は見られない。本気で言葉通りの問いかけをしているみたいに見える。
「良いも悪いもないでしょ。お父様が…みんながそう決めたんだから」
「…そうですの」ふ、と彼女が笑った。今回ははっきりと嘲りの色が見える。
一体、何を聞きたかったのだろう。そんなことを不思議に思っていると、不意に草むらの陰から、二人の痩せ細った人影が飛び出して来た。
「お待ちください、ヴェルメリオ様!」彼らが素早く地面に額をつけたことで、その尖った耳がよく見えるようになった。人間ではない。ホビットだろう。
さっと剣の柄に手を掛けて身構えたフルールとは対照的に、シェイムはわずらわしい羽虫でも見るように冷たい目で、堂々と前に進み出た。
「このシェイム・ヴェルメリオの道を遮るとは無礼な。誰だ、お前たちは」
「ホビットの代表として参ったものです。ヴェルメリオ様にお願い申し上げたく、無礼を承知で参りました」
「お願いとな?」口元に歪んだ笑みが見える。こんな顔をする妹の姿を、フルールは知らなかった。「どれ、申してみろ」
「はい」と答えた男は一見して分かるほどに震えていた。小さな体が震える様には、胸が締め付けられずにはいられない。
「ホビットやドワーフにのみ掛けられている種族税の軽減と、採掘スケジュールの見直しをお願いしたいのです」
「ほう、なぜだ?」と妹は続きを促す。
「税を払えるほどの仕事が上手く進められないのです。今年は雨が多く、地盤が緩んで落石や落盤が多くなっています。これ以上、無理な採掘作業を進めては、大勢の死人が出てしまいます!どうか、採掘スケジュールの見直しを…!」
「そうか、大勢の死人が…。それは困るな」
得心した様子で深く何度も頷きを繰り返したシェイムは、それなら、父に掛け合ってみようと笑顔で答えた。先ほどの歪んだ笑みはない。何かの見間違いだったのかとフルールがほっと胸を撫で下ろしかけていたとき、シェイムは、「ただ、条件がある」と付け足した。
「条件でございますか?」
「そうだ。最近私は、新しい魔法の研究中でな、有事のときのためにあらゆるデータが欲しいのだ」シェイムは静かな動きで、視線を男の隣の女に向けた。「…まだ、ホビットの焼き加減は見ていない。その女で試させてはくれないだろうか?」
あまりに脈絡のない頼みに、シェイム以外の三者は愕然として凍りついた。しかし、やがて彼らは酷く怯えた様子を見せると、さらに深々と頭を下げて叫んだ。
「ご、ご容赦下さい!私の身は構いません、妻は――」
「私は女の焼き加減が見たいのだ。分かるか」
言葉をぴしゃりと遮ったシェイムに、ますます彼らの顔は真っ青になる。
本気なのか、とシェイムの横顔を見つめる。そこには邪悪さこそあれど、冗談やおどけた様子は一切見られなかった。
「お、おい、シェイム!」とフルールがシェイムの肩に手を掛けようと手を伸ばす。すると、それを予期していたかのような鋭い視線が自分へと向けられた。
「フルール・ヴェルメリオ…、貴方は黙っていてもらおう」
チリッ、と伸ばした指先が熱くなった。見てみれば、ほんの少し、爪の先が焦げている。ほんのわずかな空気の隙間を焼いたのだと察し、フルールはぞっとした。
凄まじい熱量、そして、緻密な魔法制御力だ。こんなわずかな範囲を焦げさせるなど、自分では逆立ちしたって真似できない。
生まれて初めて姉のことを呼び捨てにしたシェイムは、十五になったばかりのあどけない顔を平伏す二人に向けて続ける。
「何を迷う。その女一人の命で大勢の命が救われるのだ、安いものだろう。それとも、大勢の命よりも、その女一人の命は重いか?」
何て残酷な問いかけをするのだろう。人として見ていられない。
正義の心は疼いたが、体は竦んで動けなかった。
自分が飛び出したところで何になる。シェイムは姉を焼くことに一切の躊躇を覚えないだろう。そうなれば、スノウとの約束も果たせない。
あぁ、言い訳ばかりが水底から湧き上がる泡の如く浮かんでくる。
「ど、どうか、私の命を――」繰り返し、妻の助命を請うていた男の隣で、突如として女の体が燃え上がった。
想像を絶する悲鳴、それから、男の聞くに忍びない懸命な声。
片手を突き出して薄く笑うシェイムは、「時間切れだ」と愉快そうに告げる。
妻の火を消そうとした男性も、着ているボロ布に引火して、炎に包まれる。
ホビットの、小さな体が燃える。
体がきゅっと丸まっていく様子が、とても恐ろしく感じた。
これが、ヴェルメリオの炎なのか。
人の命を虫けらのように焼き尽くし、美しく輝く炎が…。
ホビットもドワーフも、先々代のヴェルメリオ当主と共に立ち上がった種族だ。
かつての友を焼く炎は、どこまでも美しく、どこまでも惨たらしく、パチパチと音を立てる。
不意に、肖像画に描かれていた祖父の姿を思い出した。あらゆる種族と笑い合い、炎を宿す長剣を背負う彼の姿を。
それでようやく我に返ったフルールは、急いで上着を脱いで彼らに駆け寄り、その火を消そうとはためかせた。少し離れたところで、「無駄なことを…」とシェイムが呟いているのが聞こえた。
…実際、妹の言う通り全ては無駄だった。
小さくなった二人の体は黒い炭に変わり果てており、そこには生命の残滓すら感じられない。
焼殺された哀れな領民の前に、フルールはがくんと膝を落とし、涙を流す。
「…どうして、どうして、こんな…」フルールは、初めて自分の無力さの本当の意味を知った。
「ヴェルメリオの新たな治世の邪魔をする者は、消さねばなりません。もう二度と、ヴェルメリオは失うわけにはいかない、そうでございましょう?」
「シェイム、お前、自分のやったことの意味が――」
「人を焼くことの意味など、魔法も扱えないお姉様などより深く理解しています」
その発言に、驚き、目を見開く。
「…これが、お姉様が選んだことの結果ですわ」
声のほうを振り返ると、無感情な顔つきになったシェイムがこちらを見つめていた。
「――そして、私に押し付けたことでもあります」
ゆっくりと立ち去っていく妹。その後ろ姿には、かつて肖像画に描かれていたヴェルメリオ家の気高さも、優しさも、慈しみもなかった。
お目通し、ありがとうございました。