幻想の数日間.1
こちらより、二章となります。
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その日から、フルールは数日間、隣の部屋で過ごしていた。
初めは、本当に誰か住んでいるのだろうかと疑わしくなるほど、隣の部屋は静寂に満ちていた。だが、その静けさに慣れてくると、時々、誰かが隣の部屋の中を動いている音が聞こえてくることに気付いた。
毎日、『おはよう』から『おやすみ』まで、フルールは必ず声をかけるようにしていた。手紙で自分のことを書き連ねてもみたが、差し込んだ手紙が回収された様子はなかった。
そのうち、フルールは夜中に待ち伏せするのはどうだろうと考え出した。
雪女のような風体で館の中を歩き回っていることがあると耳にしたため、部屋を出たのを見計らって、自分も外に出てみてはどうだろうかと考えたのだ。
しかし、それも実行に移そうとしているうちに無理があることが分かった。
スノウも毎夜毎晩外に出ているわけではないから、夜中の間、ずっとそれを待って扉の前で待機しておくということはほぼ不可能なのだ。自分もどうも睡魔には弱いようで、気付けば自室の扉の前で眠っていた。
最初は色んな人が自分の様子を見に来ていたものだが、今ではすっかり、ブリザと食事を運んでくれるメイド以外は顔を見せないようになっていた。
彼女らも、決してフルールを鼓舞しようとしているわけではない。メイドは仕事で、ブリザは自分の顔を見に来たと言ってくる。
フルールはすでに、この家に抱いていた幻想を破り捨てていた。
体裁と権力の維持、ただそれだけしか彼女らの眼中にはない。…ブリザは違うようだが。
事態が動いたのは、フルールが隣の部屋に泊まり始めて一週間が経った頃だった。
半ば意固地になったフルールが次に起こした行動は、いっそ、スノウの部屋の前で眠る、というものだった。
これなら扉が開けば、勝手に目が覚める。風邪を引かないか心配したものの、体の丈夫さにはちょっとした自信があったフルールは、周囲の反対を押し切って作戦を決行した。
夜更けになれば気温も下がる。湿気の多いリアズール領では、窓は白く染まり、寒々とした様相が夜の中に描かれていた。
時刻は深夜二時過ぎ。寝袋の中で横になっていたフルールは、扉の軋む音で目が覚めた。
(あ、開いた…!)むくり、と体を起こす。
まず、暗闇に透ける白い指が見えた。その後、病気みたいに青白い顔をした少女の顔が闇の中に浮かび上がった。
瑠璃色の髪、雪女みたいに白い肌、枯れ木みたいに細い手足、暗いブルーの瞳…。
(間違いない、スノウ・リアズールだ…!)
失望と無気力に親しみ、感情を殺したような顔つきが徐々に驚愕と不安で染まっていく。見開かれる瞳に映るのは、己の姿。
鏡だ、とほぼ反射的にフルールは考えた。
ブルーのレンズの向こう側に、怯え竦む己の姿が映っている。
スノウは慌てて踵を返して自分の部屋に逃げ込むと、扉に鍵を掛けようとした。
また閉じこもられてはたまらない、とフルールも慌てて追いかけ、扉の隙間に足を差し込む。
「痛ぁっ!」思い切り挟まれて悲鳴を上げてしまったが、そのおかげでスノウが扉から身を離してくれた。
恐怖で息が上がっている声が聞こえる。申し訳ないと思いつつ、フルールはゆっくりと足を踏み入れた。
扉を開けてみて、スノウ・リアズールは仰天した。自分の部屋の前に寝袋を敷いて眠っていたらしい女が、こちらを見つめていたからだ。
一瞬、異常者が屋敷に忍び込んでいるのかとも想像したが、すぐに彼女が最近ずっと扉の前で挨拶してくる人間だと直感して、スノウは脱兎の如く室内に逃げ戻った。
しかし、扉を閉めないと彼女が入ってくることに気づき慌てて戸を閉めたところ、鈍い衝撃が手に伝わってきた。
「痛ぁっ!」
「ひっ」
どうやら、足を挟んでしまったらしい。自分は悪くない。だが、これではもう部屋の奥に逃げ込むほかない。
急いで布団のシェルターに飛び込む。すると、遠慮がちではあったが、迷いのない足取りで女が中へと侵入してきた。
(何というふてぶてしさ…。人の部屋に、よくも土足で…)
彼女は部屋の中をさっと眺めると、近場の木椅子に腰掛けた。降り積もった埃が舞うのが、天窓から差し込んでくる月光によってはっきりと目視出来た。
しばらくは、そうして互いに無言の時を過ごした。穏やかな時間なんてものではない。この女が何者なのかが分からない以上、警戒の解きようもないのだ。いや、警戒は絶対に解かないけれど…。
最近、毎日のようにドア越しに声をかけられていたことを思い出す。手紙らしきものも貰ったが、恐ろしくて触れずにいた。声だって、分厚いドアのために聞き取りづらかったのもあるが、耳を急いで塞いでいたため、何と言っていたのかは分からなかった。
新手のカウンセラーか、家庭教師か、宗教家か、はたまた若き女医か。何だって構わなかった。別に自分は誰の手も借りるつもりはないし、信じるつもりもない。
ただ、こんな形で執拗に接触を試みられたのは初めてのケースだったため、困惑はあまりに酷い。
やがて、女がゆったりとした口調で言った。
「スノウ、で名前合ってるよね?」
想像していたよりも若い感じの口調だ。自分の名前を呼び捨てにするのも、今までの連中とはまるで違う。
次に発せられた女の言葉のおかげで、一体、この人は何者なのだろう、というスノウの疑問は、思いのほかすぐに解決することとなった。
「私、フルール、フルール・ヴェルメリオ。スノウのご両親に世話になってるヴェルメリオ家の娘…の、出来が悪いほう」
――フルール・ヴェルメリオ…!
その名前に、スノウは思わず相手の顔を見上げる。
(知っているわ、フルール・ヴェルメリオ…。確か、かつての反乱に協力した火の四大貴族の長女で…、そう、魔法、魔法の才能が全くない人。ずっと前に、私と一緒に遊んでくれた人で、私と…!)
あの頃の記憶が颯爽とした風に乗るように蘇る。
十年ぐらい昔、オークを植えたばかりの庭に下りて、魔法の練習でもしようかと思っていたら、この人、フルール・ヴェルメリオがいた。
魔術の才だとか、家柄とかが縁遠い年齢だったから、自分はフルールと遊んでもらった。彼女が太陽みたいに温かい掌で華冠を編み込んでくれたことは、今でもはっきりと思い出せるほどに美しく、透明感のある思い出だ。
たった一度きりしか来てくれなかったし、母がヴェルメリオ如きの家にこちらから出向くなどあり得ないと切り捨ててしまったせいで、彼女との記憶はそれだけになっていた。けれども、自分はフルールのことを度々思い出していた。
特に、自分がトラウマのために魔法を使えなくなって家族に見捨てられた頃、魔法の才がないと揶揄されながらも、努力を続けている彼女の話を聞くときは、尚のこと鮮烈に思い出していた。
希望だった。地位は違えども、同じ四大貴族の娘として生まれ、同じように家から見捨てられて者として。
「…し、四大」
スノウは勇気を振り絞って声を発した。だが、後に言葉は続かず、ただヴェルメリオの名前に反応したみたいなふうになってしまった。
「そうそう、四大貴族のヴェルメリオ。…まぁ、スノウのところと違って、私のところは没落寸前貴族だけどね」
自嘲気味に笑う姿に、確信する。
彼女は自分と似ているが、あくまで似ているだけだ。似て非なるものだ。
フルールの表情の中には、確かな希望が残っている。自分が彼女の話を聞く度に脳裏へと描いた理想像の面影がある。
また少しだけ顔を出す。その様子を曖昧な微笑みで見つめていたフルールは、言葉を重ねた。
「はは、とにかくさ、そんなふうに怯えなくていいよ。言い方は悪いけど…四大貴族のお嬢様としては似た者同士だろうし」
(似た者同士…!)
そうだ。我々は似た者同士だ。
言葉の響きに胸が踊った。この人なら、先の見えないトンネルみたいな現実を変えてくれるのではないかと、何の根拠もなく思った。
暗闇の中、光に向かって手を伸ばすように、スノウはさらに顔を覗かせて問いかける。
「何の用で来られたのですか?」
「あー…まぁ、気になるよね」
思わせぶりな返答だ。言いづらいことの様子である。
フルールはそうしてしばらく逡巡していたが、やがて、何かを決意した感じで椅子から立ち上がった。
(もしかして…あのときの約束を果たしに…!)
夢でも見るかのような心地で、スノウは片手をフルールに向けて伸ばした。
ずっと、待っていました、という言葉は飲み込み、問いかける。
「…もしかして、約束を…」
「や、約束?――あぁ、そっか。もう知ってたんだね。何だ、私だけ知らされてなかったのかぁ」
フルールは姿勢を低くして、こちらの手を取った。驚くほどに温かい彼女の掌に感銘を受けて強く握り返す。だが、瞬時にフルールが昔の約束を覚えていないことを悟り、失意に沈んだ。
(そうね…あんなの、子どものすることだもの。でも…)
頬にすら触れられる距離にフルールがいた。頭の中で思い描いていた理想像に近い彼女の姿に、失意を押しのけるほどの形容し難い昂揚感が湧き上がる。
そして、その昂揚感はフルールが発した言葉を聞いてさらに強まることとなった。
「「わ、私なんかが許嫁で不服とは思うけど…これからよろしくね、スノウ」
一瞬、何を言われているか分からなかった。
時間が経っても、フルールの言葉は理解不能なものとして凍りついたままだったので、こちらから何のアクションも起こせずにいた。すると、その動揺を察したらしいフルールがぺたんと座り込んでから、苦笑いを浮かべた。
「あ、はは!こんなこと急に言われても、困るよね。うん、いや、気持ちは分かる。私も話を聞いたときは頭が真っ白になったもん」
気を遣ってくれる、暖かな言葉。
一体、いつ以来だろうか。こんなふうにきちんと目を見て話をしてもらえるのは。
魔法が使えなくなった自分は、この家にとって、両親にとって、姉妹にとって、不要の存在だった。
虐げられるのではない、それならそのほうがマシだったかもしれない。
心を貫いたのは、度重なる無関心。いないものとして扱われる、肉体の存在と相反する矛盾。
いてもいなくても変わらないのなら、自分からいなくなってやろうと考えたこともある。
でも、死ぬ勇気もこの身には宿らなかった。固く縄を結べても、それを見つめ直して震えるばかりだった。
唯一の楽しみは、窓の外や廊下から聞こえてくるメイドたちの噂話、とりわけ、フルール・ヴェルメリオに関するもの。
内容の多くがフルールを揶揄するもの、哀れむものだったが、こうした逆境の中でも自分のように引きこもらず、表に出て戦えていること自体が尊敬の念を抱かせるものだった。
十年前も、温和で優しい人だった覚えがある。フルールは何も変わっていない、と根拠のない確信すら湧いた。
(そんな彼女が…憧れ、夢描いていたフルール・ヴェルメリオが私の許嫁…)
夢みたいだと思った。救いのない、味を感じなくなった現実が気まぐれで見せた夢なのではと。しかしながら、これが幻ではないことは、フルール自身がくれた温もりが証明してくれていた。
(生きていて…良かった)
心が勝手に考えると同時に目頭が熱くなり、数年以上干ばつが続いていた瞳の上に涙の雨が降った。
「え、えっ!?そんなに嫌だった?そ、それはそうだよね、魔法も使えない没落貴族の娘なんて、嫌に決まってるよね…」
違うんだと伝えたくて、スノウは、ぎゅっ、とフルールの服の裾を掴んだ。それでもまだ自虐的な言葉を繰り返すフルールにきちんと気持ちを伝えたかったが、緊張と興奮、喜びや不安が絶え間なく心の中で激しく渦巻くせいで、上手く言葉が出てこない。
もしかすると、単純にしばらく人と話していないからなのかもしれない。きちんとした声の出し方を忘れていたとしても、不思議には思わなかった。
でも、体ぐらいならいくらでも動く。スノウは首を激しく左右に振った。
「違うの…?」それを見て、フルールが訝しがるように呟く。「じゃ、じゃあ、女だったから?」
また首を振る。困惑したような声がそばから聞こえてくる。
「えっと…、あー…もしかして、タイプじゃなかったとか?それとも、無理やり部屋に入ったから、それで怒ってる…?」
自分が否定する度に、ああでもない、こうでもないと自分が嫌われている理由を真剣に考えるフルールのことが、スノウは素敵に思えてたまらなかった。
たとえ、約束のことを覚えていなくても…そんなものは、何の問題にもならない気がした。