雨の予兆
これにて二部は完結となります。
氷漬けにされかけてから三日後、エルフの里を出て、一週間ほどが過ぎた頃のことだ。
一同は、すでにリアズール領に入っていた。移動したエンバーズの拠点はヴェルデ領側ではなく、ヴェルメリオ領側だとは聞いていたので、さらに一日をかけて、一路は拠点近くへとやって来ていた。
偶然にもその道は、桜倉がフルール・ヴェルメリオとしてスノウ・リアズールに会いに行った道と同じだった。
あのときは、許嫁って一体…とか、もう自分は本格的に『ヴェルメリオ家』にはいらないんだな、とばかり考えていたから、この道を流れる水の美しさなんか、見向きもしていなかった。
だから、今はこの大きな流れの荘厳さに、ついテンションが上がっていた。そしてそれは、雪希以外の二人も同様だった。
「わぁ、大きな川ね。向こう岸があんなに遠くに見えるわ」
「本当だね!ねぇねぇ、浅瀬なら泳いだりしてもいいかな!?」
尻尾を振り振り、目をきらきらさせて問うルーナに、「やめときなさいよ」とアネモスが呆れた声を出す。
「えー、いいじゃん。アネモスだって、泳ぐの好きでしょ?」
「…まぁね。でも、こんな道沿いは嫌よ。今は人影がないからいいけど、そもそも私とあんたは、人間共からすると異種族なんだから。下手すると通報されるのよ」
「ぶー、人間どもぉ」
「その言い方はやめてよ…」と桜倉も苦笑しながら会話に入れば、その横から雪希が、「そのときは私たちの奴隷とでも言いますか」などと冗談を続けた。
すると川に近いところを歩いていたルーナが二人に駆け寄って来て、弾けんばかりの笑顔で言った。
「えー、なに、雪希ってば、奴隷の私にやらしいことでもさせるつもりぃ?」
鬱陶しい絡みに雪希は閉口した様子でため息を吐く。
なにかとルーナには厳しい雪希なので、喧嘩が始まらないかとそわそわした桜倉だったが、雪希の対応は思いのほか余裕のあるものだった。
「貴方にさせることなんて、肉体労働に決まっているじゃないですか」
「ひぇ、獣人差別だ」
「獣人云々ではありません。貴方だからです」
「えぇ、あんなスケベな服着てるアネモスのほうが好みなの?」
不名誉な表現に、「誰がスケベよっ!エルフの伝統衣装なのよ、これ!」とヒステリックにアネモスが叫ぶも、雪希もルーナも気にせず話を進める。
「…貴方の頭の中はそういうことしかないのですか?そもそも、私の好みは桜倉のようなタイプです」
急に名前を出されて、「え」と声を出してしまえば、それによってまたルーナに茶化されてしまうが、赤面している自分と違って、雪希は堂々としたものだった。
涼しい顔で、「何か問題でも」と述べる彼女を見て感心するのは、何も桜倉だけではない。アネモスも、どこか羨望に近い眼差しで雪希を見つめていた。
「…何か」とそんなアネモスを見て雪希が問う。
「え、あ、いや、別に…」
別に、とかなんとか言いつつ、ちらちらと窺うような視線をやるアネモスを、初めは雪希も無視していたのだが、見かねたのだろう、小さな吐息と共に、「言いたいことがあるのなら、率直に」と冷淡に言葉を紡いだ。
ストレートな物言いに、一瞬、アネモスが怯む。しかし、すぐに負けん気の血を騒がせると、無駄に偉そうに胸を突き出して言った。
「べ、別に。あんたは、その、女の人が好きなこと、隠さないのね!…って、思っただけよ」
「どうして隠すのです」
「え…?」
「自分の心の在り方を、どうして隠す必要があるのですか?もちろん、言う必要があるかどうかは別として、『隠そう』とする理由はありません」
「それは…」
淡々とした雪希の発言に、アネモスが言い淀む。
桜倉は、今のアネモスの気持ちが分かる気がした。
雪希のこういう、一見儚げに見えても、その実、鋼鉄の棒が一本通ったような強靭なエゴは、自分の優柔不断さというか、迷いというか、とにかく、そうした類のものを強く、眩しく照らし過ぎる。自分が弱い者に見えてしまうのだ。
だからこそ、この鮮烈な輝きの前に、自己嫌悪に陥ってしまうこともある。
そのうち雪希は、何も答えようとしないアネモスを横目で見て、物憂げな目つきをした。少し珍しい姿だった。
「…エルフと人間のしきたりは違うということですか…」
「まあ…そうよ。あまり、その、そうね、歓迎はされないわ、きっと」
女の人が、女の人を好きなんて…と蚊の鳴くような声で付け足したアネモスの瞳に、雪希はいっそう、瑠璃色の瞳を暗くして、明らかな同情を示した。
「…おつらかったでしょう」
「は?あ、いや、私は、別に…」
「いいのですよ」と雪希は努めて穏やかな声を発する。「アイボリーさんとは、そういう関係だったのでしょう?」
「う、な、なんで…」
「分からないはずがありませんよ。――そして、そんな存在を失った、その喪失の痛みも、察するに余りある」
さっと、アネモスの面持ちに悲しみの影が落ちる。しかし、同時に希望を求めるような光も差した。
こういうとき、意外とルーナは大人しい。大事な話かどうかの空気は察することができるようだ。
「ご安心を、アネモス。貴方が貴方の意志で生き、進む、その道を、私は否定したりはしません。――その道が私の行く道と違えない限りは――ですが」
最後の補足は酷く冷ややかで、鋭利な刃のような声音で発せられたものではあったが、それ以外に関しては、優しいとさえいえる話し方であった。
彼女が自分以外にこんな声を出すのは珍しい。いや、思い上がっているとかではなくて、実際にそうなのだ。
雪希は基本的に他人に対して無頓着で無関心でありながら、敵対的な者には冷酷だ。
まるで、世界がそうだったから、自分もそうする…とでも言わんばかりに…。
「大きな喪失を越えて、こうして何かを変えるための行動に出ている貴方の強さを、私は心から尊敬します。アネモス」
雪希はそれだけ言い残すと、言葉も発さずに足を止めたアネモスを置き去りにしていく。桜倉だけは足を止めて彼女を待ったが、ルーナも鼻歌なんか歌いながら追い越していく。
「私もだよ、アネモス」
蛇足かもしれないな、と思いつつ、小首を傾げて付け足せば、アネモスはまた目を丸くしてから俯いた。
ジロジロと見るのは野暮だな、と桜倉も歩き出す。
後ろから、「ありがとう」と小さな声が聞こえたが、誰も振り返りはしなかった。
「そろそろだよ」
陽が傾き始め、その光に朱色の輝きを帯びだした頃、ルーナが地図を見ながらそう言った。
今はもう、街道からは外れて歩いていた。エンバーズの拠点に近づけば近づくほど、兵隊たちの姿がちらほらと増え始めたからだ。
こんな危険なところに移動したのか…灯台下暗し、と言いたくなるような場所に設えたのかもしれない。
そんな呑気なことを、誰もが考えていた。
思えば、里を出てからの四人旅は戦いこそあれど、どこか平穏で、革命のためなんかじゃない――それこそ、ただ、友人同士で旅をしているみたいだったからなのかもしれない。
だからこそ、油断していた。
自分たちが足を踏み入れている場所は、すでに『氷水』のリアズール、その領地であることに。
森を進み、丘を越えて、一行は拠点を見下ろせる場所に辿り着いた。
そして、そこで見たものに、四人は息を飲んだ。
「ど、どういうこと…?」
桜倉がそう呟き、見つめた先、そこには、もはやただの瓦礫の山となったエンバーズの拠点があった。
瓦礫のあちこちには、白い何か――いや、氷結した跡が残っていた。氷漬けにされたのだ、拠点が、あるいは、仲間たちも…。
「…お母様か、あるいはお姉様が…すでにここを…」
言葉は尻切れトンボで途絶えた。ルーナが飛び出し、斜面をすごい勢いで下り始めたからだ。
「ルーナ、待って!」
桜倉が叫んで彼女を止めようとするが、ルーナは落下するような勢いで下まで移動すると、我も忘れた様子で辺りの瓦礫の隙間を覗き込み始めた。
「誰か、誰かいない!?ねぇ、みんな――藍さんっ!」
私たちも、と桜倉や雪希、アネモスがその後を追う。まだ、これをやった人が近くにいるかもしれないとは分かっていたが、今の状態のルーナを一人にすることはできなかった。
ルーナは、色んな人の名前を呼び続けていた。しかし、返事はなく、また、探した限り骸があるようにも見えない。
拠点だけが見つかり、壊されたのかもしれないという希望的観測も抱きはした。だが、少し瓦礫をひっくり返したり、その辺りの地面を観察したりすれば、嫌でも血痕らしきものが見つかってしまった。
「桜倉」
瓦礫をあさっていた桜倉の背後から、雪希が話しかけてくる。
「雪希、そっちはどう?」
「誰もいません。ただ…襲撃を受けてから、おそらく、数日は経過しているようです」
「数日?でも…」
辺りに散らばっている氷の痕跡。あれはまだ溶けていない。いくらリアズール領の気温が低めだとはいえ、数日も経って溶けていないのはおかしいだろう。
雪希は桜倉の視線を追って、何が言いたいか悟ったらしく、次のように言った。
「リアズールの『氷水』の魔法は、その気になれば数カ月だって物体を凍らせることができます。私は…綺麗に凍結することではなく、凍結したものの破壊のほうが得意ですが、お母様やブリザお姉様は、前者のタイプです」
スプラート、ブリザ。彼女らの名前が出て、あの人間の体を凍りつかせる力を思い出す。
「じゃあ…」
「襲撃自体は数日前でしょう。生き残ったものは逃げたのか、捕えられたのか…」
逃げたならいい。でも、捕えられたのであれば…。
ブリザは、平気で人の体を氷漬けにしたり、四肢を削ぎ落す、などと言ったりする人間だ。もしかすると、非道な扱いを受けているのかもしれない。
「生きてるよ」
横から口を挟んだのは、興奮した様子で顔を赤くしたルーナだ。
「藍さんが、みんなが簡単にやられるはずがない。エンバーズには四大の魔法とまではいかなくても、十分に戦闘魔法を使える人間だっているんだ。藍さんみたいに、獣人相手でも圧倒できるくらいの剣術使いもいる。だから、だから!」
「落ち着きなさいよ、ルーナ」
段々とヒートアップしてきたルーナの肩を、アネモスが軽く掴む。
「ここにいたって、何も分からないじゃない。今は情報収集をしなくちゃ、そうでしょう?」
「アネモス…」
息を荒げていたルーナも、アネモスの言葉を受けたことで次第に冷静さを取り戻し始めていた。だからきっと、続く言葉は、『そうだね』とか『ありがとう』とかだったはずだ。
だけど、その言葉は続かなかった。
なぜなら、二人の間に言葉を割り込ませた者がいたからだ。
「…どなたですか」
声は、とてもか細い感じがした。少なくとも、自信たっぷりというわけではない。今にも消えそうな感じだ。
ゆっくりと、桜倉やルーナ、アネモスは振り向いた。
振り向かなかったのは、雪希ただ一人。その目は大きく見開かれ、硬直していたのだが、誰も気付くことはなかった。
「獣人に、エルフ…それに、人間。エンバーズ、ですね…。本当に、戻ってくるなんて…」
10mほど離れた位置にいたのは、年端も行かない少女だった。
「申し訳ないですが…エンバーズであれば拘束させて頂きます。抵抗はしないで下さい。無意味に傷つけたくはありません」
凪いだ感情のまま言葉を紡ぐ少女は、ゆっくりと、桜倉へと視線をやってから眉をひそめていたが、同じようにして桜倉も相手を見つめていた。
身長は150センチと少し。顔のあどけなさからいって、シェイムと同じ十代半ばか前半くらいだ。
スカイブルーのスカートに、銀の装飾が入った濃いブルーの上着。幼さに対して厳格な服装――いや、そんなことはどうでもいい。
特筆すべきは、髪色と、瞳の色。
海底を映したような、暗い、青。
まさか、と桜倉は隣の雪希を見やった。それでようやく、彼女が動揺しているのが分かった。
雪希、と名前を呼びかけたそのとき、少女が疑うような声を発した。
「あれ…?あ、貴方…もしかして…」
こちらに気付いたのだ。ということは、つまり、そういうことなのだろう。
少女は声を震わせ、ごくりとつばを飲んで言った。
「ふ、フルール…ヴェルメリオ、様…」
瑠璃色の瞳と髪、彼女は、やはり…。
「知り合いなの?」
「あ、えっと…」
桜倉がアネモスの問いかけに答えようとしていると、不意に、雪希がくるりと振り返ったのだが、その顔には、何かしらの決意を固めた者の残酷さが宿っていた。
少女は雪希の顔を見て、再び、いや、先ほど以上に驚愕した表情を浮かべた。
「う、嘘、ど、どうして…どうして…!?」
一同の視線が、雪希に集まる。
「ちょ、ちょっと、雪希、あんたも知り合い?」
雪希と少女は、じっと、互いに見つめ合った。一方は死人でも見るような目で、もう片一方は冷たい拒絶的な目で。
「雪希、どうなの?」珍しく、沈黙に苛立ったふうにルーナが問う。「こいつは仲間なの?そうじゃないの」
仲間か、敵か。
もしも自分が雪希の立場だとしたら、なんて残酷な問いだと胸が苦しくなるところだったが、すでに覚悟していたことだったのか、雪希は、あえて作ったのであろう無感情な面持ちで口を開いた。
「四大貴族の一角、リアズール家の三女――レイニー・リアズール」
その言葉は、氷のように冷ややかなまま、形を目に見えない剣へと変える。
「私たちの敵です」
ご覧頂いた方、ありがとうございました。
また、このような拙い文章にブックマークをつけて下さっている方々、とても励みになりました。ありがとうございます!
また時間を置いて続きを作成し、物語自体の完結まで頑張るつもりなので、
評価や感想を頂けるとこれ以上ない喜びです。
もちろん、低評価でも構いません!その際は、面白くなかった点を教えて頂けるとありがたいです!
色々とお願いばかりで恐縮でしたが、ひとまず、ここまでお付き合い頂き、ありがとうございました!
それでは、またどこかで…。




