運命の果実
こちら、幕間になりますので、時系列が少しずれてしまいます。
ご覧になられずとも本編に問題はありませんので、
ご興味のある方はどうぞ!
エルフと過ごすことを覚えたエリアは、瞬く間に別人の如く塗り替えられていった。
おどおどしていた口調も、あのベルモットとかいう女を真似るようになったせいで、やたらと堂々としたものに変わっていったし、エルフが来る度にコミュニケーションを図るべく行動を起こすようになったので、その引っ込み思案さや消極的さは見る影もなくなっていった。
私の知らない言葉を使い、私の知らない匂いを漂わせるエリア。彼女のそんな様子が、一体、どれだけ私の心を狂わせたか…知る者は少ない。
エリアが父のような生活に身を貶すのに、そうそう時間はかからなかった。そして、その生活がどんな汚らわしいものなのかは、数年も経ち、子どもと大人の狭間に至った私にはとても容易く理解できてしまった。
純なエリアを汚らしく染めた、汚泥のような存在。
それは私にとって、父、ウィンドル・ヴェルデでもあり、エルフという種族でもあった。
その日も私は、幸せそうな微笑みを浮かべながらヴェルデ邸から出ていくエルフたちを、二人の部屋の窓から睨みつけていた。
「二度と来ないでよ…」
直接、面と向かって言う勇気も持たない私は、そうやって日々を過ごすばかり。自分の犬小屋からしか吠え立てることのできない駄犬そっくりだと、自分で自分が嫌になる。
エルフたちの姿が森のほうへと消えていく。列の最後は、エリアと特に仲良くしているベルモットだ。
ベルモットは一度こちらを振り返ると、かなりの距離があるにも関わらず、手を振ってみせた。下にエリアでもいるのだろうと思っていたが、どうやら違うらしかった。
「死ね」と呪詛を吐いて数分後、エリアが私たちの部屋に戻ってきた。
「あら、ローレル。風の匂いでも嗅いでいたの?」
「え、うん、まぁ…」
私の気も知らないエリアは、にこにこと満足そうな面持ちで私の隣に並ぶと、指先をくるくると回して、緑色の美しい光の線を作った。
ヴェルデの血筋では、女が生まれてくると必ず双子だとされている。実際、家系図を遡ればそれが事実であることは疑いようもないのだが、その片方にしかヴェルデ特有の魔法、『風刃』は遺伝しない。
つまり、私は『風刃が遺伝しなかったほうの娘』というわけだ。
とはいえ、だからといって私がそれをコンプレックスにしているわけではない。私は、木や花を生み出せる魔法のほうが気に入っていた。まるで自分の子どもや友だちを作っているようで、暖かな気持ちになるからだ。
エリアと過ごす時間が減った代わりに、木花に話しかける時間も増えていた。そんな私を見て城の兵士どもは不気味そうにするから、私はそんなやつらが大嫌いだった。
「うふふ、幸せね、ローレル」
「…よかったね」
エリアを幸せにしているのが誰かなんて、想像したくもなかった。
唐突に、私の頬にエリアが触れた。
指先だけでなぞりあげ、最後に首筋をくすぐるような淫らな手つきに、びくっ、と私の体が反応する。
「聞いたわよ、ローレル。木の魔法、また上達したんですって?すごいじゃない」
「あ、ありがとう」とお礼を言いながら、私はポケットから果実を取り出した。
「あら、それってなにかしら?」
「これね、私の魔力で作った果実。この間、エリアがお土産に持って返ってきてくれた珍しい葉っぱと混ぜ合わせたんだよ」
「へぇ、すごいじゃない。花のほうも作られるのかしら?」
「もちろん。木の魔法ほどじゃないけど」
「まぁ!そのうち、ヴェルデの屋敷をたくさんの草花で埋め尽くせるようになるわね!ふふ」
「…そんなことしたら、お父様に叱られるよ」
「うーん…それもそうね」
エリアは人差し指を頬に添えて、考え込むような仕草を取った。そのあどけない姿に魅入っていると、不意に、妙案だと言わんばかりに彼女が手を叩いて笑った。
「そうだわ!いつか、エルフの森にある古城にお花畑を作りましょう!あそこなら、勝手に使ってもきっと誰にも怒られないわ」
「…うん」
邪気のない笑顔に、私も素直に頷くことができた。
そうだ。エリアは私を大事にしてくれる。エルフという存在と、己が半身である私とでは、根本的にその重要性が違うのだ。
きゅっ、とエリアの手を握る。エリアは頬を染めた私を見て、いたずらっぽく笑うと、淀みない動きでスマートに私の頬へと口づけを落とした。
びっくりしてキスされた箇所を手で押さえていると、今度は首に抱きつかれる。
「ローレルったら、甘えん坊ね」
「だって…エリアが好きだから…」
「ふふっ、私も好きよ、ローレル!」
その言葉で心に暖かな風が吹き、失われていた安寧が戻ってきたような気がした私は、ゆっくりとエリアから身を離した。
その瞬間、エリアの首筋に残ったいくつもの赤い痕が目に入った。
「エリア、虫に刺されたの?」
「え?――あ」
さっと、エリアの頬が赤くなる。そのせいで、なんとなくその痕の意味が分かってしまった。
ベルモットだ。あいつが、淫らな痕を残したんだ。
エリアはそれをさっと誤魔化すみたいに笑うと、「そうだわ。私明日はお父様と一緒にエルフの里に出かけるから」と告げた。
「え?」
私はさらなる驚きに目を丸くする。
「あ、明日は、エリア…」
「なにかしら?明日は何も予定がないでしょう?」
「あ――」
何も予定がない?
そんな、そんな、馬鹿な。
意地悪をされているんだ。そうに違いない。
「それともなに?貴方も一緒に来る?」
こんなことを言いながら、きっと、明日はあの場所に来てくれるんだ。
「…い、行かない」
「あぁそう」
ドシン、とベッドに飛び込むエリア。
「…明日が楽しみだわ、ふふ」
目を閉じた彼女は本当にお人形さんみたいだった。
邪気のない、純で愛らしいエリア。
明日が来るのが、生まれて初めて怖いと思った。
雨粒を降らす雲は、悲しい思い出を吸い込んだみたいな色をして、寂しい場所に蹲った私の頭上で広がっていた。
膝を抱えて縮こまる私の肌に、じっとりと濡れた服が張り付く。その厭さ加減に動き出すこともできないほど、今の私は落胆していた。
いや、落胆という言葉は生ぬるい。
これは絶望だ。
蹲る私の前には、綺麗な花飾りがかけられた墓石が建てられていた。
墓石には、メリオル・ヴェルデの名前――そう、今日は、母の命日だった。
「…お母さん、ごめんね」
降る雨は留まることを知らず、そのうち、低く恐ろしい雷鳴さえも連れて来る。
「…お父様も、エリアも…来てくれないみたい…忘れてるのかなぁ…」
忘れる?
忘れるなんて、許されるのだろうか。
大切な人の死を悼むことを。いや、もしかすると、その人と一緒に過ごした時間のことを。
母が死んだとき、神父が言った。
『貴方たちのお母様は、ヴェルデの美しい風となったのですよ』
その風は今、泣いているように思えた。
ひゅう、ひゅうと…耳元で雨の音に混じって響く音を聞いていると、私は知らず知らずのうちに涙を流していた。
今、エリアやお父様は幸せなのだろうか?
分からない。ただ、断言できることがあるとすれば、私は悲しみの底にあるということだ。
(どうして、こんなことに…)
私を苦しめるのは、なんだ。
エリアや父の顔を思い浮かべる。違和感があった。父のことは嫌いだが、全てが父のせいとは思えなかった。
やはり、この苦しみの根源にあるのは――。
「どうしたの、こんなところで」
甘い声にハッと我に返る。
母の声に似た響きを覚えた私は、弾かれたように顔を上げ、雨に濡れぬよう傘を差し出してくれている相手を見た。
そこにいたのは、私が日頃から憎悪をたぎらせている存在だった。
「ベルモット…」
「あら?私の名前…あぁ、エリアに聞いたのね」
サファイアの瞳がくりくりと動く。警戒心を緩めさせる仕草だったが、私は知っている。こいつは淫欲の悪魔だ。エリアを汚す、忌々しい女だ。
「エリアのところに行こうかなと思ったんだけど…用事があって屋敷に来たら、遠くから、貴方が見えたから」
私は何も答えない。答える言葉など持ち合わせていないと思った。
「…ねぇ、お名前は?ローレル、で合ってたかしら?」
これも同じ。無視する。
すると、しばらく雨音と雷鳴以外は聞こえない時間が流れた。
私もじっと俯いて耐えていたのだが、いい加減、消えてくれないだろうかという思いから、こらえきれず、ベルモットのほうを見上げてしまう。
ぺろり。
毒蛇みたいな赤い舌が、彼女の艶やかな唇の隙間から顔を覗かせていた。
続いて、捕食者のような瞳と視線が交差する。
(こいつ、やっぱり嫌いだ…!)
言葉にし難い嫌悪感と恐怖心から、無言のままに私は立ち去ろうとした。しかし、すぐさまベルモットに腕を取られ、近くの倉庫に引きずられてしまう。
「やっ…!」
「おいで、雨が強くなっているから、濡れない場所に行かなくちゃね」
ドンッ、と半ば放り込まれるようにして倉庫へと入れば、後ろ手にベルモットが扉の鍵をかけた。
掛け金が落ちる音は、まさしく、私の運命が決まった音だったのだが、それにも気づくことはできず、ただ、目の前の妖しい光を瞳にみなぎらせた女から距離を取る。
「ふふ、怯えているのね?大丈夫、怖いことなんて何一つないわ」
一歩、また一歩と距離を詰められる。その度に心臓の鼓動が駆け足になった。
「ち、近寄らないで…!」
「大丈夫だって。エリアや貴方のお父様がしていること、興味はなぁい?」
エリアの名前を出されて、一瞬だけ逡巡が挟まる。だが、こんな軽い調子でその歪んだ愛欲にエリアを引きずり込んだのだという怒りに背を押され、大声を発して抗う。
「ないっ!」近くの椅子を蹴り倒し、さらに私は怒鳴る。「消えろ!死ね!汚れたエルフなんかが、私に触れないで!」
刹那、ベルモットの美しい顔に冷酷な光が差す。
「生意気な子…。でも、私はエリアみたいに従順なタイプより、貴方のようにちゃんと抵抗してくれるタイプのほうが興奮するのよね」
「やっ、やめて」
言うや否や、ベルモットは濡れた私の服を無理やりに脱がそうとした。その乱暴な手つきたるや、エリアが嬉しそうに話す彼女の姿とはまるで違った。やはり、化けの皮を被っていたのだ。
「まあ、可愛い抵抗。その調子でお願いね」
めくれ上がる衣服、その隙間から忍び込み、無造作に私の体を撫で回すイモムシみたいな指。
何もかもが私を総毛立たせた。喉が潰れそうになるほど悲鳴を上げて抵抗するが、大人相手ではどうにもできず、一枚、一枚と服を剥ぎ取られ、ずらされていく。
甘く、生ぬるい吐息が顔にかかる。初めて、恐怖というもので体が痺れた。
そのとき、脱がされた私の上着のポケットから、ころり、と何かが落ちた。
「ん…?」
それの何がベルモットの注意を引いたのかは分からない。分からないが、彼女は私を抑え込んだまま、落ちて転がったそれを拾った。
「なにかしら、これ。果実?」
それは、私が魔法の実験にと思って適当に作った果実だった。
「美味しそうね」と嬉しそうに笑ったベルモットは、果実を一口に頬張った。そして、歪んだ笑みのまま咀嚼を繰り返すと、おもむろに無理やり私の唇に舌と、その果実の欠片をねじ込んだ。
「んうぅ」
酷い感触だった。果実は異常なほどに甘かったし、舌のざらざらとした感覚は吐き気を催すほどだった。
これを飲み込むこと自体が、どうしても我慢できなかった。だって、ベルモットの汚れた唾液を飲むのと同じだと思ったのだ。
運命を変える出来事は、次の瞬間に起きた。
「う、あ、れ…ぐっ、げほっ、げほっ!」
急に、ベルモットが血反吐を吐いて倒れ込んだ。
何が起きたのか分からず、彼女の様子を見ていると、その美しい体はあっという間に枯れ木のような物体に変わった。
うねうねと蠢く、枯れ木と花の怪物に変わり果てたベルモットは、そのまましばらくのたうち回っていたかと思うと、やがて動かなくなった。
「…ぁ、あ…」
死んだ――という、謎の直感があった。
私は急いで外に飛び出し、口の中の果実を吐き捨てた。それだけでは安心できず、水たまりの泥水すらも使って口をすすいだ。
「はぁ、はぁ…」
その直後に私の胸のうちに湧いた感情は、恐怖や後悔、罪悪感の類ではなかった。
「…は、はは、あはは、あはははっ!」
ベルモットが、エリアを毒すエルフの一人が死んだ。
「あはは!ざまあみろ、当然の報いだよ!汚らわしい、罪深いエルフめ!」
すさまじいカタルシス、そして、全能感。
この力があれば、私はエリアを汚す全てを消し去ることができる。
そうだ。私のエリアを守れるのは、私だけ。きっと、お母様との思い出を守れるのだって、今やもう、私だけだ。
私は泥水の中に膝をつき、篠突く雨を仰ぎ、稲光を浴びた。
「初めから、こうすればよかったんだね、お母様!こんな汚い世界、私の魔法で変えちゃえばよかったんだ!」
次の日から、私は少しずつ果実の改良と、それに伴う実験を進めた。
汚いエルフを、木と花に変える。
汚いものは、他にもある。
ただ、さすがに果実を食わせて怪物に変えるのはまずいだろう。誰がやったか、バレてしまうかもしれない。
毒性を調節して、少しずつ、弱らせる。
そうして、私とエリアだけの国を作ればいい。そうだ、エリアが言っていたあの古城に作ろう。
木と花が咲き乱れる、美しい世界を。
私は、扉をノックする。中から返事は聞こえなかったが、口元には三日月の笑みを浮かべ、そして、手には毒の入った料理を持って、扉を開ける。
「入ります、お父様」
邪魔者は、全部消す。
全ては、エリアと一緒に幸せな世界で過ごすため…。
本日も夕方に更新致します!
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