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雪桜の華冠  作者: null
二部 二章 戦う理由

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37/53

戦う理由.3

 走り出したアネモスを追ってたどり着いたのは、この世の暗黒をインクにして紙に書きなぐったような場所だった。


 街路樹みたいに並び立つ鉄格子。錆なのか、血なのか分からないもので染まった鎖付きの寝台。空になった皿、石畳の溝を這うおぞましい虫。


 こみ上げる吐き気に耐えるので精一杯だった。もしも、目の前で愕然と立ち尽くすアネモスがいなかったら、胃の中のものを撒き散らしていたに違いない。


(ここは、牢獄、監禁場所だ…。攫ってきたエルフたちの…)


 攫われたとはいえ、エリアはエルフを気に入っている様子だったから、性愛の対象として欲望をぶつけていたとしても、こうした仕打ちは行っていないと思っていた。


 だが、実際は違った。目の前の惨状がそれを如実に物語っている。


 目を背けたくなる光景に心をかき乱されていると、不意に、アネモスの膝ががくんと落ちた。


「あ、アネモス…」


 立っていることもやっとになったらしい。ショックで虚ろになった瞳は、もはや何も見てはいない。


 桜倉はアネモスの肩を支え、立ち上がらせようとした。今は、この場から遠ざけることが一番大事だと考えたのだ。


 しかし、アネモスが背を向けている格子の奥に人影が横たわっているのが見えて、思わず大声を上げてしまう。


「アネモス!人が、エルフが倒れてる!」

「え…」


 肩を激しく叩かれたことで我に返ったらしい彼女は、桜倉の導きに従い格子のほうを確認した。そして、丸々と目を見開くと、金切り声を発して、倒れたエルフに呼びかけた。


「アイボリー…アイボリーね!生きてるの、ねぇ、返事をして、アイボリー!」


 アイボリー、それが倒れたエルフの名前だろう。この様子からすると、どうやらアネモスの知り合いらしい。


「下がってて、アネモス。格子を叩き切ってみる」


 格子にしがみつき、懸命に呼びかけを続けるアネモスをどうにか下がらせると、桜倉は魔力を長剣に込めてから、渾身の力で格子に叩きつけた。


 錆びた扉は一度では壊れなかった。しかし、緋色の火花を迸らせた二撃目を受けた途端、粉々に吹き飛ばされた。加減次第ではアイボリーが怪我をしていたかもしれない、と桜倉は少しぞっとした。


 錆が粉になって舞っている中、アネモスはアイボリーに駆け寄る。


 桜倉もそれにならったのだが、近くで見るエルフの姿は枯れ木のようで、一体どれだけの間、食事を与えられていなかったのかと想像するだけで苦しくなった。


 アネモスが必死に呼びかけている間、桜倉はポケットに入れていたパンを小さく千切っていた。そうしながら、部屋の中を観察した。


 一言で言えば、まともな衛生状況ではなかった。ルーナが遠くからでも臭いに気づくだけはある。


「い、息はあるけど…駄目よ、酷い栄養失調…!このままじゃ、あ、アイボリーがっ…!」

「うん、うん、分かってる。待ってて、水とパンを――」


 カズーラに貰った小さなボトルを取り出そうとしていると、横からぬっと手が伸びてきた。


「早く飲ませてあげて」


 声の主はルーナだった。その向こうには、吐き気をこらえているのであろう雪希が体を丸くしている。


 アネモスはルーナにお礼を言うこともなくボトルをひったくると、倒れたエルフを抱き起こし、砂のように乾いた唇に水を注ごうとした。だが、見ているのもかわいそうになるほど手が震えており、上手く口に入れてあげることができずにいた。


 そんな中、誰よりも早くルーナがアネモスに手を貸した。ボトルを優しく取り上げ、代わりに注ぎ込んだのだ。


「もう焦ることはないよ…見てて、こうするんだよ」

「ご、ごめん、ありがとう…」


 さすがのアネモスも今ばかりは小言を言えないようだ。むしろ、こんなときでも動揺しないルーナを頼るような目つきで見ていた。


 やがて、アネモスの腕の中でアイボリーが小さくうめき声を発した。そして、ルーナ以外のメンバーが希望に目を輝かせる中、ゆっくりと目蓋を上げた。


「アイボリー!」

「…あ、アネモス…様?」

「あぁ、良かった…!」


 ぎゅっ、とアネモスがアイボリーの今にも折れそうな体を抱きしめた。そのサファイアからは、透明な涙の粒がこぼれ落ちている。


「貴方だけでも生きていてくれて…本当に、良かった」


 一刻も早く、衰弱しきったアイボリーを里に連れ帰らなければ、とアネモスがその華奢な背中で彼女を運ぼうとしたときだった。


「お、オークウッド様は…里におられますか?」アイボリーの問いかけに、アネモスが一瞬停止してしまった。「あぁ…!やはり、ここに来てしまったのです…ね」


「そんなことアイボリーは気にしなくていいから…。里に戻って、栄養のあるものをしっかりと摂るのよ」


 そう言って、アネモスは彼女を背負おうとした。たしかに、これだけ痩せ細っていればアネモスでも背負えるかもしれない。


 だが、アイボリーはその提案には乗ろうとせず、身動き一つしないままアネモスの背中を見つめて、弱々しい口調でさらに言葉を紡いだ。


「あの悪魔たちが行っていた所業は…私たちが思っていた以上に、身も凍るようなものでした…」

「喋らなくていいから、早く乗って」

「私もここに来て、あまりに多くの仲間の悲鳴を耳にしました。ですが、何よりも恐ろしかったのは――」

「乗りなさいっ!」


 ぴしゃり、とまるで雷が落ちたかのような怒声が轟いた。アネモスの高い声質と相まって、どこまでも響くみたいに、キーン、と耳鳴りがする。


 一瞬訪れる静寂。叱咤されたことでアネモスの指示に従うかと思ったアイボリーだったが、彼女はゆっくりと首を左右に振り、拒絶の意志を示した。


「どうして言うことを聞かないの!?」


 アネモスがヒステリーに問いただすも、アイボリーはもう何の反応も示さず、浅く呼吸するだけだ。


 その様子は、風が止み、止まりかけている風車を彷彿とさせるものだった。


 やがて、言葉をマシンガンのように紡ぎ続けるアネモスをルーナが片手を出して制した。落ち着き払った瞳には、諦観が浮かんでいる。


「聞いてあげなよ。大事な人なら、なおのこと」


 そして、再びアイボリーは語り出した。ただ、今度はさらに弱く、ゆったりとした口調で。


「何よりも恐ろしかったのは…仲間たちが、あの悪魔の果実を…涙を流しながら食べている声を聞くことでした」

「…悪魔の、果実?」言葉を発さなくなったアネモスに代わり、桜倉が繰り返す。

「はい…。そ、そこの皿に、黄土色の果実が乗っているのが見えますか?」


 アイボリーの言葉に従い、一同が視線を動かすと、確かに床に置かれた皿の上に濁った色をした果実がぽつんと置かれているのが見えた。


 掌に収まるサイズの果実だ。これだけ衰弱しているのに食べなかったのが、改めて不思議に思った。だが、それはアイボリーが息も絶え絶えに続けた説明を聞いて、納得せざるを得なくなる。


「それは、あの悪魔の片割れ、ローレルが万養樹の葉と、自らの魔力を練り上げて作ったものです。それを食べれば、食べれば…」


 アイボリーの表情が大きな悲愴に染まる。言葉にならない悲鳴をどうにか抑え込もうとしているのが分かる。見開かれた瞳だって、十分な水分さえあったのであれば、大粒の涙を流していたことだろう。


 食べればどうなるのか、みんながその言葉の先を待った。だが、その誰もが、言葉の先に広がるのは光ではなく、鬱屈とした闇であることは察していた。


「――見るも恐ろしい、無残な花と枯れ木の化け物になってしまうのです」



 一瞬、アイボリーが何を言っているのかが分からなかった。いや、違う。分かりたくなかったのだ。


 だが、間を置かずして雪希が発した、「あれが、そうだというのですか…」という言葉を聞いて、嫌でも理解させられた。


 花と枯れ木の化け物。


 森の中で出会い、そして、先ほども中庭で刃を交えた怪物。


 あぁ…あれが、あれの全てが…ヴェルデ令嬢たちの犠牲者。


 あの思わず耳を塞ぎたくなるような悲鳴が、犠牲者たちの嘆きであり、救済を求める声だったなんて…。


 その事実に、くらくらと立ち眩みがした。とても立ってはいられない、と格子にもたれかかろうとすると、とっさに雪希が体を支えてくれた。


「ご、ごめん」


 雪希の顔も見られないまま、謝罪だけが反射的に口から出た。


「構いません。桜倉、もう手遅れだったのです。自分を責めないで下さい」


 もう手遅れだった?


 そんなの、何の慰めにもならないじゃないか。


 頭の整理が追い付いていない中、アイボリーは急き立てられるように言葉を重ねる。


「あ、あの悪魔の恐ろしいところは…く、空腹で死にかけている人の前に、あれを、あの果実を置いて行くことです。そして、あいつは、それを見て悶える私たちを、天使のような笑顔で観察するのです…!」


 アイボリーが血反吐を吐くように語る言葉には、すさまじい臨場感があった。今、格子の外側に、笑顔のローレルが屈み込んでいる気すらした。


 やがて、アイボリーは大きく息を吸うと、ゆっくりとアネモスへと身を委ねた。背中に乗ったのではない。どこか、体の一部でも彼女に触れさせていたい…そんな懸命な想いを感じた。


「…最期に、アネモス様に会えてよかった」

「あ、アイボリー…」


 アネモスの喉が言葉に詰まっている一方、瞳は酷く多弁だった。


 悲しみ、憤り、迷い、困惑、苦しみ、そして、後悔。


 そんな激流の中でも、彼女は何とか笑顔を浮かべた。桜倉はそれを斜め後ろから見ていて、なんて強いのだろうかと驚いた。


「そんなこと言っちゃ駄目よ、アイボリー。貴方は私と一緒に帰るの。ほら、掴まって、私と、一緒に…」


 アネモスは、アイボリーの骨と皮だけの手で自分の肩を掴ませようとした。だが、何度やっても、虚しくアネモスの背をこぼれ落ちるだけだ。ちょうど、彼女の頬をつたう流星のように。


 すると、ルーナが横から口を挟んだ。


「アネモス。もう彼女、あんまり喋れないと思う…。だから、聞いてあげて」

「あ、アンタ…!」


 じろり、とアネモスはアイボリーを抱きかかえたままで下からルーナを睨みつけた。だが、ルーナの瞳が真剣そのもので、そして悲しみに染まっていたから、なくなく顔を伏せて黙り込んだ。


「…アネモス様…ずっと、心配していました。だって、貴方は…いじっぱりで、強がりのくせに、寂しがりなんですから…でも…」


 こくり、こくりと頷くアネモス。涙は際限なく流れている。


「あぁ、こうして、友だちができたんですね…。良かったぁ…」


 すぅ、とアイボリーの視線が桜倉たちに向けられる。


「この人を、どうか、お願いします…」


 遺そうとしている。


 想いを、言葉を、役目を。


(…遅かったんだ、私たちは…!)


 桜倉は拳を固く握った。


 しかし、ここでこの想いを継げなくて、何が『世界を変える』だろうか。


 この現実と、私は戦わなければならないのだ。


「もちろん、私に、私たちに任せてよ」


 桜倉の堂々とした口調にアイボリーは安心しきったように弱く微笑んだ。こうして追い詰められていても虚勢を張れる自分のことを褒めてやりたいと思った。


「…アネモス様」

「なぁに?」


 アイボリーとアネモスは、そうして互いに見つめ合っていた。時間にしてどれほどであっただろうか。永遠に近しく、そして、一瞬にも近しかった。


 やがて、アイボリーの瞳から光が消えた。


 意思が消えると同時に、命が潰えたことは言葉にせずとも誰もが分かった。


 …そう、言葉はなかった。


 彼女らの終わりに、言葉はなかったのだ。


 肩を震わせるアネモスを、一同はしばらく見守っていた。だが、一分も経たないうちにルーナだけが格子の外に出た。


「ルーナ」と意図を問うように桜倉が声をかける。

「…私は行くよ、ここにいても、意味ないから」


 その発言を聞いた瞬間、カッと頭に血が昇った。そして、気づいたときにはルーナの頬をはたいていた。


 ルーナの瞳に驚きはない。むしろ、甘んじて誹りを受けるといった感じだ。今回は、こうなることを分かっていて冷たい発言をしたようだ。


「どうして、そんなことを平気で言うんだ…!」

「事実だからだよ、桜倉。死んだ人間は蘇らない」

「そんな話はしてないっ!」


 普段と違い、無感情な顔つきのルーナにますます苛立ちが募る。


「どうして、アネモスの痛みを想像しないんだっ!アネモスは…アネモスは、今、この瞬間、大事な友だちを亡くしたんだぞ!」

「悪いけど、喪失の痛みなら桜倉より知ってる」


 きゅっ、と胸が締められる。きっと、ルーナの言う通りだと思ったからだ。


 自分も母親を亡くしているが、まだ幼い頃だったし、こんなふうに救いのない終わり方ではなかった。


「でも、それを乗り越えられない人は、この先に来たら駄目だと思う。だから、置いて行く。それは、桜倉や雪希だって同じだよ」

「そんな、急に立ち上がれないだろっ…!」

「そうかもね。でも――」


 ルーナの瞳が細められる。そこに映るのは悲しみだ。


「悲劇は、いつだって急に起こる。待ち構えられる悲しみは、悲劇とは呼ばないよ」


 そう言うと、ルーナは背を向けてしまった。その背中を追える強さが、今の自分にあるとは思えず、桜倉は立ち止まった。


 そんな桜倉の横を、風のように誰かが通り過ぎていく。


「置いてくんじゃないわよ」


 アネモスだった。目は涙で赤くなっているが、立ち姿はしゃんとしていて、とても美しかった。


「私も行くに決まってるじゃない。ばか」

「あ、アネモス――」


 無理をするなと引き止めようとすれば、逆に雪希の手でそれを制される。


「ここは経験者に任せましょう。大きな喪失を知らない私たちでは、おそらく、分不相応な役回りです」


 きゅ、と雪希の手が自分の手を掴む。冷たいが、熱くなっていた心を冷静に戻すのにはちょうど良かった。


 二人に続くようにして、雪希が桜倉を引っ張った。慌てて雪希の足取りに合わせて歩く自分が、どこか滑稽に感じられた。


「私たちも続きましょう。こんなところで、立ち止まるつもりはない。そうでしょう?」

「…うん」


 自分に嫌気が差しつつも、雪希に従う。彼女の強さを、ひとかけらでもいいから分けてほしいと思った。


 ドスドスと荒々しい足取りでルーナの横を抜けて、奥へと進むアネモス。彼女を見て、ルーナは目を丸くしていたが、ややあって駆け出し、隣に並ぶと、真面目な顔で声をかけた。


「怒った?」

「はぁ?喧嘩売ってんの?」

「いや…桜倉たちからよく空気が読めないって、注意されるからさ」

「あぁそう。多少の自覚はあるのね」


 ゆるりと、アネモスが歩調を緩めた。合わせたのだ、ルーナの足取りに。


「でも、いいわ。許してあげる。普通ならひっぱたいてやるところだけど、運が良かったわね、アンタ」

「運が良かった?」

「ええ、そうよ」


 パシン、と乾いた音が通路に木霊す。アネモスが自分の掌を拳で打っていた。


「アンタなんかより、もっと頭にキてる奴がいるのよ。そいつを先にぶん殴らないと、何を殴ったってきっと気が晴れないわ」

読みづらかったり、もっとこうしたほうが良い、という意見がありましたら、是非お寄せください!


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