雪華は咲く.4
一部もほとんど終わりがけ、お付き合い下さい。
シムスの体は、冗談みたいな勢いで吹き飛ばされると、乾いた土の上に転がった。
五体満足だったし、派手な出血は見られなかったが、目に見えないところに限界がきているのだろう、彼女は立ち上がろうとしては崩れてを繰り返すありさまだった。
ただ、それはこちらも同じだ。
「ふぅー…う、うぅ…痛たた…」ほぼ二人同時に地面に腰を下ろした、ルーナとフルール。
俯いてお腹を擦っているフルールと、両足をしきりに擦っているルーナは、口々に体の限界を口にすると、曇天を仰いでから互いに見つめ合い、やがて、勝利の喜びに破顔した。
「いやぁ、風の魔法だったっけ?すっごい魔法だったね。刀で受け止めたのに、体が吹っ飛んだかと思ったよぉ」
「はは、同感。あれだけ吹き飛ばされると、むしろ感心するよね」
「うん。あぁー…無理に跳んじゃったから、足が動かないや」
「え、大丈夫なの?」
「ま、痛みに慣れればそのうち歩けるよ」
考え方がいかにもルーナらしい。いや、獣人らしいと言ったほうがいいのだろうか。
戦いが終わったのを確認したスノウが、二人のほうへと寄って来る。その顔は不安な色を残してはいるものの、わずかながら、彼女らと同じ勝利の余韻も感じさせるものだった。
「フルール様、お怪我は大丈夫ですか…?」
「うん、こっちは大丈夫。スノウこそ、背中の傷は大丈夫?」
「ええ、先ほど申し上げたようにたいしたことはありません」
フルールが疑わしい顔をしたことに気づいたスノウは、儚く微笑みながら背を向け、傷を見せた。彼女の言うように、傷は浅く、血はもう止まっていた。
それよりも、衣服を切り裂かれたことで露出しているスノウの肩甲骨、青白い背中の皮膚のほうが、フルールの注意を引いた。病的な白さは、スノウの美しさを際立たせる重要な特徴だ。
「ちょっとぉ、雪希ぃ、私のことも心配してよぉ」
唇を尖らせたルーナがそう言うと、スノウは一瞬だけ険しい表情をしたのだが、ややあって、少しばかり考え込む素振りを取ってから口を開いた。
「…まぁ、一応、労ってはおきます。――お疲れ様でした」
「はいはいっ!お疲れ様です!」
どうでもいいことだが、自分はまだしも、スノウの偽名には凄まじい違和感がある。
さて、とルーナがゆっくり立ち上がろうとする。もう痛みに慣れたのか、と不思議に思い顔を見ると、やはり、まだ無理をしているようだ。
「ちょっと、肩貸すよ」
「いや、大丈夫。桜倉には別の仕事があるでしょ?」
「別の仕事…?」
ルーナの言い分が理解できなかったフルールは、こてん、と首を傾げる。それを見て、何故かルーナはおかしそうに笑った。
「ほら、あの人にとどめを刺さなきゃ」指さしたのはシムスのほうだ。「生かしておいたら、ろくなことにならないし。ここじゃあ捕虜にもできないからね。サクッと殺っといてよ」
まるで虫でも潰すような物言いに、フルールは衝動的に反論した。
「ちょっと待ってよ…。何も殺すことはないじゃん」
「何で?」
「無駄な殺生はよくない。奪わなくても済むものを、わざわざ奪う必要なんて無い。そうでしょ?」
「よくないって…あぁ、『善』くないってこと?」
そう言うと、ルーナは肩を竦めた。
「申し訳ないんだけどさ、そういうモラルの話は、モラルの通じる平和なとこでやってよ」
珍しく、心の底から辟易するような口調だった。どうしてか、それがフルールは悔しくて、食い下がるように応じた。
「そういうのがまかり通っているのが嫌だから、ルーナもエンバーズにいるんじゃないの?」
「まぁ、そうだよ。国を作るとか、難しいことは分かんないけど、家族や仲間を大事にできる――そういう世界になればいいな、って思ってる」
「だったら…」
「でも、それを世界に求めるのは、平和になってからの話」笑顔の消え去った彼女の顔は、とても残酷な世界で生きてきた者のそれだった。「桜倉、いい?今は争いが当たり前の時代だよ。生き残りは殺さなきゃいけない。じゃないと、私たちがいつか足元をすくわれる」
「ルーナはそうしなよ。私は、そんな言い分には従わないから」
「…あのさぁ、桜倉ってば、これから先のことを甘く見てない?」
「む、甘くなんて見てないよ。必要なときは冷酷にだってなるつもりだし。ただ、今はそれが必要とは思えないだけ。そうそう簡単に誰かの命を奪えるなんて、まともじゃないよ」
フルールも、毅然として自分の意思を示したつもりだった。しかしながら、ルーナはそんな彼女を見て引き下がるどころか、少し嘲笑するみたいに口元を歪めた。
「『減らしても、またすぐ増える』でしょ」
こればかりは、聞き捨てならなかった。
そういうのが許せなくて、自分はこの道を歩き始めたのだから。
「ルーナっ!」
フルールは感情に突き動かされるまま、スノウの制止を振り切ってルーナの襟首を掴もうとした。だが、ルーナはその驚くべき反射神経をもってして、逆にフルールの手首を掴んだ。
赤みがかった瞳が、静かな闘争を宿してフルールの桜色の瞳を覗き込んで告げる。
「まともじゃない、ね。…初めにそういう理屈を持ち出したのは、君たち人間のほうだよ」
「え…?」
最初は、ルーナが何を言っているのか分からなかった。だが、人間、という言葉が表す種族の隔たりを想像したとき、自然とその言葉の意味が理解できてしまった。
(…そうだ、ルーナもまた、虐げられてきた人たちなんだ…)
どんなに明るく振る舞っていても、彼女が死と争いの大地で踊っている事実に変わりはない。そして、そうするに至った暗い理由があることもまた、疑いようはないだろう。
軽んじられながらも、ぬくぬくと育ってきた自分に何かを反論する権利があるとは思えない。ただ、だからといって、この刃を無抵抗な人間の脳天に振り下ろせるような気もしなかった。
「…あまり、フルール様を責めないで下さい」珍しく、ルーナに対して気遣わしげな視線を向けたスノウが、祈るようなか細い声で続ける。「優しい方なのです。分かってあげて下さい」
てっきり、スノウも自分と同じような意見を口にすると思っていたため、彼女の命を見限るような言動には、フルールも目を丸くした。
結局、シムス・ウィンダを葬る役目は、足を痛めたルーナが行うこととなった。ルーナが自分を見るときの、呆れたような、だがどこか、羨んでいるような瞳がどっちつかずの自分を責めているようで、フルールは目を逸らした。
スノウからの肩を支えようかという提案を蹴ったルーナは、よたよたとシムスに近づくと、宵の口に見える明星みたいに明るい笑顔を浮かべる。
「中々歯ごたえがあって、楽しかったよ」するりと抜いた太刀を、倒れ込んだシムスのうなじに当てて、ルーナが言う。
「戦闘狂め…」
「うん、まぁ…戦いは好きだね。もちろん、純粋なものに限ってだけど」
何か言い残すことはあるか。そう問いかけたルーナに向け、シムスは難しい顔をした。だが、やがて小さく首を振ると、観念したように目を閉じた。
ルーナが太刀を振りかぶったとき、もう見ていられない、とフルールは背を向けた。だからこそ、ルーナが弾かれたような勢いで自分たちのほうへと後退し、足の怪我のために尻もちを着いたことに、すぐには気がつけなかった。
「…あれは」フルールとは違い、スノウはきちんとその最期の瞬間を見届けようとしていた。
そうして、彼女は見た。
暗雲の下を、規則正しく並んで歩く白銀の鎧を。そして、その先頭に立ってやって来る女の、禍々しい黒を。
「ふん、随分と派手にやられたようだな」
白騎士を連れた女は、何とか体を起こしたシムスに向けて、小馬鹿にするようにそう言った。
「…も、申し訳、ありません」
悔しそうに謝罪するシムスに唾でも吐き捨てるかのように鼻を鳴らした女は、全身を包む黒の外套を翻し、打ち捨てられた亡骸、動けない兵士を睥睨する。
「はっ、安心してくれていいよ。そもそも期待なんざしてない。お前たちも、所詮はあいつら能無し貴族共の駒というわけだ。揃いも揃って雑魚ばかり、虫酸が走るよなぁ」
侮蔑を含んだ汚らしい口調とは裏腹に、とても美しい女だった。
流れる烏の濡れ羽色の長髪はまるで静かな夜のようだったし、漆黒の瞳もオニキスみたいで、覗き込んでいると吸い込まれそうだった。
女は統一国家の騎士らに向けて、「ゴミが腐臭を放つ前に、とっとと片付けろ」と顔も見ずに命じると、次はフルールらのほうを振り返った。
一人、一人、何かを探るように三人の顔を睨みつける。その鋭く、冷酷な視線は、最後にスノウのところでぴたりと止まった。
「…ついさっき、とんでもなく密度の濃い魔力を感じたんだが…、どうやら、その陰気臭い女のものみたいだな」
すっ、とその瞳が細められるのが見えて、フルールは半ば無意識でスノウと女の間に立った。
「何だぁ?お前は」低く、威圧的な声だった。
「その言葉、そのままそっくり返すよ」長剣を腰構えにして、相手を睨みつける。「人をじろじろと眺める前に、名前くらい名乗ったほうがいいと思うけど」
「名乗れ、だって?」
女は歪な笑みを浮かべ、低い含み笑いを発した。見る者にとても不気味な印象を与える笑みだ。
「何がおかしい…!」苛立ち混じりで告げるフルールに、後ろから、ルーナが静かな、だがとても緊張した口調で忠告する。「桜倉、そいつはやばい。逃げたほうがいい」
振り返れば、青い顔をしたルーナと目が合う。尻尾も耳も垂れてしまい元気がない。本能的に何かに怯えているというのが、一見して分かった。
「ふぅん、獣人のほうは、相手との力量差が分かるくらいの腕はあるらしいな。――が、一方、お前はあまりに酷いものだ。ケチャップの最後の残り滓みたいな魔力しかなければ、剣士としての技量も浅い…」
「な、何…!?」
明確な嘲りを感じ、全身に力が入る。
「むしろ、哀れみさえ感じちまう。なぁ、教えてくれ、どんなふうに生まれ育てば、そんなにつまらない力が得られるんだ?」
魔法が使えない自分を馬鹿にしてきた全てと、女は似ていた。そうした忌々しい社会や人々が一つに集まって具現化したみたいだとさえ思えた。
「いやいや、よそう。そんなものを聞いても時間の無駄だ。お前が重ね続けたものと同じでよ」
どこまでも自分を馬鹿にしてくる女の態度に、フルールは我慢の限界を越えて剣を構えた。後ろでルーナがそれを諫めるも、彼女の頭は怒り一色で染まっており、まるで聞こえていない。
「人の人生を、笑うなっ!」
薄く笑った彼女の顔には、確かに憐情の意すら感じられるものがあった。だが、それがますますフルールの神経を逆撫でる。
「そっちこそ、一体全体、どういうふうに生まれ育てば、そうやって人を馬鹿にして見下すことが当たり前になれるんだよ」
今までだって、ずっと馬鹿にされてきた。
剣術を磨くことも、残り滓と揶揄される魔力を掌に手繰り寄せることも、とにかく、陰で嘲笑われてきた。
ヴェルメリオ家という名前だけが、形ばかりの誇りを守った。それがなければ、自分はもっとハッキリと蔑まれていたことだろう。
それがようやく…ようやく、最近になって報われたような心地になっていた。スノウが認めてくれて、エンバーズという居場所が縋り付ける使命感を与えてくれた。
だからこそ、今、目の前の女がこちらに向けてきた侮蔑と哀れみの意思が、我慢ならなかった。
「へぇ?ならば、どうするんだ?」
「構えろ!お前の傲慢を、叩き潰す!」
憤りのままに戦いの火蓋を切ろうとするフルールに、ルーナとスノウが重ねて制止の声を上げる。
「フルール様、この数を相手には――」
「心配する必要はない」女はスノウの言葉を遮ると、どこから出したのか、禍々しい輝きをまとう短剣を構えた。「手出しは無用だ。――さぁ、正してみせてくれよ、私の傲慢とやらをよぉ」




