雪華は咲く.1
六章の始まりです。
エピローグを除けば、一部はこの章で終わりですので、今しばらくお付き合い下さい!
夜も更ける頃には、すでにグラビデ領の国境を越え、ヴェルデ領に足を踏み入れていた。
全く知らない世界に来たという感覚はあるが、実際に目の前に広がるのは、ここ数日変わらず、青々とした木々ばかりである。
夜が深くなれば、寝床を探す。野宿することも少なくないが、点々と存在する民家や廃屋、運が良ければ村落で部屋を借りられたので、そうそう悪い環境ばかりではなかった。
とはいえ、ルーナは多くの場合、野宿を強いられた。グラビデ領の辺境ならまだしも、ヴェルデ領において獣人は、警戒されるべき存在であったからだ。
ルーナはあまり深く考えてはいないようだが、フルールとしては、仲間を森の中に置き去りにするくらいなら、自分も野宿したほうがいいと思っていた。だが、日毎増す疲労感に顔を青くするスノウを見ていると、そうも言っていられなくなった。
…それにしても、獣人のタフネスさには驚かされる。彼らは山の中を歩こうが、満足な食料が得られなかろうが、まるで疲れた様子を見せない。人間とは体の作りが根本から違うのだということがハッキリと分かる。
そうして、ヴェルデ領についてから、一日が経過した朝のことだ。
寝起きでぼうっとしているスノウを起こし、三人で朝食を済ませていると、ルーナが言った。
「多分、今日の夕暮れ時にはエルフの里に着くよ」
その報告に、スノウがあからさまな喜びを示して応じる。
「本当ですか?」
「うん。思ってたより魔物の襲撃も少なかったし、数日くらい前倒しで到着できそう。…スノウも頑張って歩いてくれたしね」
ぴょこ、と耳を動かしあどけなく笑うルーナの言葉に、スノウも「あ、ありがとうございます」と口にする。
リアズール領にあるエンバーズの拠点から、森や山間を歩くこと早一週間。ようやく、舗装されたまともな道が彼女らの前に現れた。道行く人がいれば、突然森の中から現れたフルールたちにびっくりしたことだろう。
その頃には太陽もすっかり西に傾いてしまっていた。相変わらず眩い陽光を放ってはいるが、遠くの空に浮かぶ鉛色をした分厚い雲を見るに、この晴れ間は長くは続かないようだ。
「さぁ、もう一時間くらいだよ」と道に出るなりキャスケットを被ったルーナが言った。
おそらくは、耳を隠すためのものなのだろう。全身をすっぽり覆う外套を羽織ったこともあって、尻尾もぱっと見ただけでは分からない。
こうしていると、本当に人間と変わらないように見える。…いや、多くのものが自分たちと変わりはしないのだろう。
それなのに、見た目や生まれ、能力、価値観の違いだけで排斥してしまえる人間という生き物が、フルールにはとても恐ろしく思えた。
「…まだ、そんなに歩くのですね」俯くスノウのそばにより、フルールが気遣う。
「大丈夫?スノウ」
「あ、はい。大丈夫です。ありがとうございます、フルール様」
はにかむスノウに胸が高鳴る。自分にとってはこちらが表の顔だが、ルーナにとっては逆だ。
「私にもそういう顔してくんないかなぁ」とぼやくルーナを、じろりとスノウが睨みつける。ここ一週間ですっかり見慣れた光景だった。
「そう言えば、スノウには偽名いらないの?」ふと気になってフルールは聞いた。「あぁ!ごめん、ごめん。藍さんから、そんなこと言われてたんだった!」
東堂が用意していたのは、『雪希』という名前だった。
それは、これまた彼女の国に伝わる古い言葉だったらしいが、ルーナが肝心の意味を覚えていなかったため、なんとなく、必要なときに名乗ればいいか、というぐらいの感覚で話は終わってしまった。もちろん、ルーナは東堂が決めたその呼称を律儀に守るらしかったが。
三人はしばらく道を歩き続けた。
フルールが物珍しい草花を見つけては立ち止まったり、ルーナが二人のことをからかったり、それに対してスノウが目くじらを立てたりと騒がしい道中であった。
風の四大が治める土地に入ったとだけあって、頬を撫ぜる風はとても優美だった。目を閉じれば、花の匂いがしそうな気さえした。
ややもすれば、これが虐げられた者たちの復権のための旅だということを忘れてしまいそうになるほど、穏やかな時間だった。
だが、ちょうどエルフの里に繋がる入り口にさしかかった辺りで、その時間も終わりがやってきた。
「待って」
唐突にルーナが片手を出して言った。
「何、また魔物?」
「違う。人の気配がする」
次第に赤みを帯び始めている陽の光が、森に影を落としていた。その中に紛れ込むようにして、ルーナが素早く移動した。フルールたちもそれに続いて移動する。
道中、ルーナが説明してくれたことだが、エルフの里は一般人の出入りは禁じられているらしい。
フレア・ヴェルメリオは反乱を起こす前、エルフの里も訪れていた、ということがこの禁止令が出される原因になったようだ。まぁ、彼らはフレアに力を貸さなかったようだが…。
とにかく、そういう背景があることを考えると、エルフの里の入り口近くで人に会うのはあまり喜ばしいことではない。なぜなら、相手は違反者か、それを取り締まる者かのどちらかになるからだ。
ルーナの肩越しから、その視線の先を追う。そうすると、遠くのほうに一団となっている人々の姿が見えた。
夕焼けを弾く白い鎧…つい一週間前にも見た、統一国家エレメントの騎士の鎧だ。
「あれがあんな数いたら、私たちだけじゃどうしようもないよ」
「そうだね…」と生返事をするルーナに、フルールは問いを重ねる。「森にそれて、気づかれないように里に入れないの?」
「それは駄目です」答えたのはスノウだった。「エルフは人と不可侵条約を結んでいる種族です。許可もなく足を踏み入れれば、撃ち殺されます」
「う、撃ち殺される?」
「そういう約束をしているのです。…彼らは弓の名手ですから」
そういう約束…とはまた物騒である。
「あぁ、なるほど!だから私、前に入ろうとしたとき殺されかけたんだね」
明るい表情で得心しているルーナだったが、顔と言葉の内容が合っていなかった。こういうところが、時折彼女を不気味に見せるのだ。
さて、どうしたものだろうかと頭を悩ませていると、「後ろからも、人の気配が近づいてくるよ」とルーナが耳と尻尾を立てて口にした。
振り返れば、確かに自分たちが来た道を見慣れぬ緑の鎧を着た一団が闊歩してくる。
「ヴェルデ爵の兵士…」スノウがうわ言のようにぼやくのを聞いて、フルールは目を細めた。
(あれが、風の四大の兵士…)
彼らが相手では、グラビデで獣人の少女たちを助けたときや、エンバーズの拠点で統一国家の魔法騎士と戦ったときとは、剣を交える意味が大きく違ってくる。
今までは、そうしなければならない状況だった。そうしなければ、あまりに尊いものが失われていた。
しかし、今回は違う。
今回は、必要に迫られたための選択ではない。
自分が、自分の意志で剣を抜くことになるのだ。
(戦えば、もう後には退けない…。四大貴族と――お父様やシェイムとも事を構える覚悟をしなくちゃいけない)
ぎゅっと拳を握るフルールの横顔を、スノウが気遣わしげに見つめていた。ルーナのほうは、そんな仲間たちの様子にはまるで気付かず、淡々とした口調で、業務的に言葉を放つ。
「挟み撃ちが一番マズイよ。どうする、やるの?」
自分を奮い立たせるためにも、勢いよく頷きたい衝動に駆られたフルールだったが、「それでは無駄死にします」というスノウの言葉で冷静に戻り、ため息と共に首を振った。
「そうだね、戦力差が大きい。戦うだけ無駄だよ。…でも、このままでもいられない。やっぱり私は、森に逃げ込むしかないと思う」
「ですが、フルール様」
「分かってる、危険なんでしょ?」と遮るようにして言う。「でも、ここにいても殺されるだけだ。それなら、相手が事情を聞いてくれる可能性に賭けて、森の中に入ったほうが得策なんじゃないかな」
それでも、スノウは躊躇してみせた。このまま回れ右して迷い人のフリをしたほうが安全なのではと考えていたのだ。
だが、獣人であるルーナがいる以上、少しでも調べられたら一発で終わりだ、という説明をフルールに重ねられたことで、スノウも渋々頷き、提案に乗った。
「だったら、気付かれる前に行こうよ」
やはり、くぐってきた修羅場の数が違うのか、それとも、単純に深く考えないタイプだからなのか、ルーナだけが何の不安も逡巡もなく、再び森の中へと入っていくのであった。
撃ち殺される、という言葉に対し、森の中はぞっとするほどの静寂に包まれていた。
どこまでも続く青々とした風景は変わらなかったが、生い茂る木々からは、次第に穏やかさや、心地よさというものが奪われつつあった。
エルフの住まう森は、フルールらの知らないものでいっぱいだった。
極彩色の花、奇妙な形をした木の実、人の影が輪郭を帯びたみたいな細木…。
何もかもが不気味であった。先ほどまでの優しい風も、全てが幻だったみたいに消えている。
「…気味の悪い森」そうスノウが呟けば、ルーナが素早く言葉を返す。「私が前に来たときはこんなんじゃなかった。もっと、すっごい綺麗な場所だったんだけど…」
「綺麗というより、むしろこれは醜悪ですね」
遠慮のない言葉だったが、その場にいる誰もが内心は頷いていた。
しかし、その不気味さは氷山の一角に過ぎなかった。本当のおぞましさは、三人の前に魔物が姿を現してから分かることになる。
初めは、人の悲鳴かと思って身構えた。誰かが助けを求めている、そんな声色に聞こえたのだ。
だが、直後、彼女らの前に姿を見せたのは、およそ人とはかけ離れた、全身に花を咲かせた異形であった。
「何、こいつ…?」
フルールが、相手の姿の気味悪さに言葉を失っていると、また魔物が一つ悲鳴を上げた。
聞いていると心が擦り切れるような――生きながらに焼き殺されるホビットたちの声を思い出すような、そんな声だ。
「桜倉!来るよ、構えて!」
ルーナが警告するや否や、花の化け物は両手を前に突き出した。
まだ距離があるのに、何をするつもりなのかと、長剣を抜き払いながら警戒していると、不意に、魔物の両手の先から先端の尖った蔦が伸び、フルールとルーナを串刺しにしようと迫ってきた。
「くっ…!」
危うく貫かれそうになったところで、どうにか剣を盾にすることができた。ルーナのほうは抜刀せずとも、ひらりと身を翻してかわすことに成功したようだ。
「フルール様!」
「大丈夫!下がってて!」
案ずるスノウに声をかけたフルールの横を、疾風のようにルーナが駆けて行く。
「牽制は私に任せて!」ルーナが独特な鞘滑りの音を響かせ、二本の剣閃を解き放ち魔物に躍りかかる。「桜倉は、隙を見つけて叩き斬ってね!」
返事を待たずに相手の懐に飛び込んだルーナは伸びた蔦の下を潜ると、素早く背後に回り込み、一閃、抜き放った。
響き渡る、耳を塞ぎたくなるような悲鳴。反射的に身が竦んだフルールとスノウだったが、やはり、ルーナは気にする素振りもなく、持った二刀を暴風のように振り乱した。
刃が蔦を刻むほど、樹液や花びらが宙を舞った。その都度轟く絶叫は、こちらの精神を削ろうとするかのようだった。
花の魔物は一切動きを止める様子はなく、ルーナを狙って振り返った。
ぶん、と空を裂く音と共に、蔦の形をした腕がルーナの頬をかすめる。
「へへ、やるねぇ」
薄っすらと、頬に赤い線が浮き上がる。彼女はちろりと赤い舌を出して血を舐め取ると、ふわりと後方宙返りをして間合いを離した。
魔物の注意は、すっかりルーナに釘付けになっている。斬りつけるのであれば、今が絶好の機会となるだろう。
(隙が見えた…!)
長剣を引きずりながら加速する。森の柔らかい地面を抉る切っ先が、ガリガリと音を立てた。そのため、魔物は一瞬だけこちらに注意を戻しかけたが、その隙をルーナは見逃さなかった。
「どこ見てるのっ!」
ルーナは、二本の太刀を交差させた状態で一気に間合いを詰めると、絶妙な間合いでそれを切り開いた。
バツの字を描き出す剣閃を背後から受けて、ぐらり、と魔物の体が前後に揺れる。
「てえぇい!」
下がった魔物の頭に向けて、兜割りの要領で長剣を振り下ろす。
人や獣型の魔物を斬りつけたときと比べて、まるで手応えがなかった。少なくとも、命あるものを仕留めたという実感はない。
斬撃を受けた魔物が、地面に倒れ込む。どうやら、もう動けないようだ。
末期の痙攣が終わったのを確認してから、スノウがフルールの元へと駆け寄って来た。
「フルール様、お怪我はありませんか?」
「うん。大丈夫だよ」
「…あぁ、良かったです」
スノウもいつもの魔物とは違うと直感していたのだろう。そういう心配の仕方だった。
彼女の冷たくも柔らかい指先が、自分の掌をそっと包んだ。
緊張から火照っていた体が冷える心地よさ。同時に、形容し難い心のくすぶりがあって、背筋がぞわりと粟立った。
「今のは、ただの魔物なのでしょうか?」スノウの問いかけに、刃の状態を確認していたルーナが答える。「多分、違うね。前来たときはいなかったし…それに、何ていうか…」
ルーナは腕を組み思案げな顔をした。珍しく真剣な顔つきだったが、こういう表情をしていれば中々端正な顔立ちなのだと分かる。
「魔物としての意思っていうか…縄張りとか、敵意とか…あぁ、そうだ、本能を感じなかった」
「本能?」
「うん。生きてる感じがしなかった」
フルールには、ルーナの言いたいことが何となく分かるような気がした。確かに、さっきの花の魔物からは感情が感じられなかったのだ。
どんな魔物も、命の危機が迫れば必死になって抵抗するか、逃げるかする。だが、あの魔物にはそれがなかった。
「…貴方の表現は独特すぎて、分かりづらいです」
同意を求めてこちらを向いたスノウに、フルールは曖昧に微笑んだ。そうしながらも、花びらだけを残して土塊になりつつある魔物の残骸に視線を落とし、得も言われぬ不穏な予感に唇をきゅっと引き締めるのであった。
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今後とも頑張りますので、よろしくお願いします…。




