幻想の数日間.5
「家族は互いに支え合わなければならない」というのは、そういう家に生まれた人間が持つ『家族幻想』なのかなぁ、と考えさせられる毎日を過ごしています。
愛されることが当たり前の家に生まれた自分は、恵まれているのでしょうね。
辺りはすっかり暗くなっていた。夜空の星だけが美しく瞬きを発していて、枝や葉、くぼみで足場の悪い地面を青くぼんやりと照らしている。
スノウは、ブリザに連れられて鬱蒼とした森の奥へと足を踏み入れていた。
奥へ奥へと、より闇の濃いほうへと臨むようなブリザの背中に何度か声をかけてみたものの、彼女は全く反応せず、憑かれたように進み続けるだけだ。
まるで…彼女にしか見えていない光が遠くにあって、この闇から抜け出すためにそうしているかのようだ。
どれほど歩いただろうか。少なくとも、運動不足の体が重々しい疲労感を覚えるほどの時間は経っていた。
すると、二人の行く先に一軒の山小屋が見えてきた。木こりでも住んでいるのかと中で揺れている燭台の炎を遠目から観察していると、ようやく足を止めたブリザが振り返り、こう告げた。
「到着よ、スノウ」
まただ。また、ブリザらしくない笑みだ。会わない間に表情の作り方は随分と変わったようだ。
気を取り直し、スノウは姉に問う。
「ここって、木こりの小屋か何かですか?」
「いいえ」必要最低限の動作だけで、ブリザは首を左右に振る。「お母様に、私専用に建ててもらった小屋よ。内緒の話をするのにはちょうど良い場所ね」
「内緒の話…」と怪訝な表情を浮かべるスノウに、ブリザはぎこちなく苦笑してみせる。「そう警戒しないで。貴方のことを放っておいたのは、悪いことをしたと思っているわ。でも、あれ以外にどうすることもできなかったのよ」
言い訳がましい台詞に辟易とするが、例の一件で引きこもりになったのは、もちろん自分にも責任がある。こちらだって見限ったつもりなのだ。今さらとやかく咎めようとは考えていない。
叫び声を上げても、ここでは誰も来てくれないだろう、と周囲の木々を見て不安に思ったが、そもそも、今や次期当主としての地位を確立させたブリザが、自分に危害を加える理由などないことを思い出し、我ながら想像力豊かなものだと自嘲する。
「…フルール様が帰って来られる前に、済ませて頂けますか?」
「ええ、大丈夫よ。時間はかからないから」ブリザはまた先頭に立って歩き出すと、「家では出来なかった話がしたいの」と付け足して小屋の扉を開けた。
スノウも警戒しながら足を踏み入れる。
中は、ワンルームとなっていて、リビング兼寝室と、カーテンで仕切られた向こう側にキッチンがありそうだ。
また、シンプルな家具がいくつか揃えてあった。とはいえ、どれもリアズール家御用達なのだろう質の良い家具ばかりではある。ダブルベッドは最近まで使われていたのか、シーツが乱れていて、触れれば温みが残っていそうなものだ。ただ、暖炉がないからなのか、異様に寒い気はする。
「とにかく、そこにかけて頂戴。珈琲も準備するわ」
「飲み物は結構です」
「あら、どうして?温まるわよ?」
「…そういう気分ではないので」本当は、ただブリザからの施しを受けたくなかった、というのが本音だ。
スノウがそう応えると、ブリザは残念そうに了承し、スノウと隣り合う形でベッドにかけた。
遠い昔を思い出す親密な位置取りに、スノウはとても大きな不快感を覚え、一席分距離を離した。
初めブリザは、何気ない世間話から話題に挙げていた。
これからの時期は寒くなるだの、二人暮らしはどうだだの…とにかく、自分にとってはどうでもいい話だ。
そう、自分とフルールだけが知っていればいいだけの、ただそれだけの話だった。
とうとうまともな相槌も打たなくなったスノウを見かねて、ブリザは肩を竦めた。
「もう、堪え性のない子ね」
今さら、お前に使う時間などないのだ。
口に出来る勇気があれば、スノウはそうしていただろうことが自分でも分かって拳を握る。それが出来なかったのは、勇気がないからだ。いつも、それが自分には足りなかった。
やがて、ブリザは立ち上がって窓枠に手を乗せると、本題に移り始めた。失われた最初の十分ほどの時間が全くの無駄だったことを思うと、何かを憐れみたい気持ちに駆られる。
「…スノウ、貴方、まだ魔法は使えないの?」
その一言を聞いて、スノウはため息を吐きたくなった。
(六年ぶりに妹が出て来ても…話したいことは結局、どこまでいっても『それ』なのね)
この人に期待しても無駄だな、とスノウは瞳を伏せて頷く。
「本当に、間違いないのね?」
しつこく食い下がってくるブリザが鬱陶しくて、何度も浅い頷きを繰り返していると、奇妙なことに、ブリザは安堵した様子で微笑んだ。
「…そう、ごめんなさいね。こんな話をして。心的外傷によって魔力が練れなくなるのは、多くの場合一時的なものだと聞いていたから」
「…そう、ですか」嬉しそうな態度を続けるブリザに、呆れたような口調でスノウは続ける。「何だか、戻っていたら困るみたいな言い草ですね」
それを聞いたブリザは、驚いたふうに目を丸くしてから、泣き笑いみたいな顔をしてみせた。
とても表情が豊かになった。だが、それはあくまで仮面の使い方が上手になっただけだ。感情のほうはそうではない。不思議とそんな確信があった。
直後、ブリザはスノウの考えが正しかったことを証明するかの如く、表情と発言とが一致しない言動を示す。
「ええ、困るわ」
「…え?」
「むしろ、どうして困らないと思ったのかしら。貴方に魔力が戻れば、両手を上げて喜んでもらえるとでも思った?」
初めは冗談かと思った。しかし、じっと向けられる凍てついた視線に、そうではないことを悟る。
「貴方は、あの狭い牢獄で大人しくしていれば良かったのよ。そうすれば、誰にも迷惑をかけなかった。…いえ、違うわね。どこにいても、どのみち迷惑をかけるのだから。初めから誰かがこうしておくべきだったのね」
「お、お姉さま…?」すっと立ち上がり自分を見つめるブリザから、異様な気配を感じる。
「ごめんなさいね、スノウ。…貴方がそうして自由にしていると、私が安心して眠れないのよ」
正気だが、まともではない。
正気と狂気の境が、なくなっている。
すっ、とブリザが片手を上げた。すると、瞬く間に冷気が部屋中に立ちこめ始めた。
「運が悪かったと思って、諦めて死んで頂戴」
そこから先は、ほぼ反射的に体が動いていた。
身を屈め、向かいの壁に飛びつくように立ち上がる。
ブリザの手から伸びる氷の剣の切っ先が、先ほどまで自分が座っていたシーツの上を貫いていた。
「あ…」
喪失する現実感。だが、問答無用で振り払われた剣に、転げ落ちるように壁からカーテンで仕切られた部屋のほうへと逃げ込んだ。
冷気がやけに強くなると同時に、掌が何か冷たいものに触れた。ツルツルとした感覚、これは氷だとすぐ分かった。
間髪入れずに切り裂かれたカーテン。その隙間から漏れてくる燭台の光に照らされて、その冷気をまとう結晶の全貌が露わになっていく。
結晶の中に閉じ込められているものを見て、スノウは咄嗟に息を呑んだ。
「こ、これは…!?」
氷の中に入っていたのは、若い女性だった。服装からして領民なのであろうが、精一杯洒落込もうとしていたのが、彼女の着ているフリル付きの服からして察せられる。
到底、生きているとは思えない。微動だにしていないし、瞬きもしていない。いや、そもそもこんな凍てついた棺桶の中で生きていられるはずがない。
あまりのおぞましさに、ブリザがいるほうへと後ずさりしてしまう。ブリザは氷の棺桶を見てもたじろぐどころか、愉快そうに、満足そうに微笑み、スノウを見下す。
「…そうね、貴方にお礼を言わなければならないことがあるとすれば、それは、六年前のあの日、私の眼前で小うるさい犬を氷漬けにしてくれたことね」
びくっ、と肩が跳ねる。あのときの嫌な光景が去来する。
徐々に氷に侵され、悲鳴とも怒鳴り声ともつかない声を発しながら氷の棺桶に包まれ、そして、自分が魔法の制御を失ったために砕け散った我が家の犬――キャシー。
愛していた。どこまでも自分の後ろをついて回る、信頼の瞳が大好きだった。
裏切ったのは、私だ。
殺したのも、私。
当時の私は驕っていた。魔力において自分に右に出るものはいなかったから、氷の膜で包んでみせるくらい、簡単にできると思っていたのだ。
「確かにアレは、貴方という天才が凡人に見せた芸術だったわ。ただ、試すにはあまりに幼すぎたというだけ。経験を積み、試行を繰り返せばもっと上手にできたはず。だって、私ができたのだもの」
「…じゃ、じゃあ、これは…」
「ええ、そう。綺麗でしょう?」氷の棺桶を一瞥したブリザが、ふっと、微笑んだ。「私はね、ああして永遠を切り取るのよ。貴方に出来なかったことを、より完璧な形で仕上げるために」
最後の祈りでも口にするみたいに、穏やかで、相手を慈しむような声音だった。
かざした手に、仮初の慈悲を練り込むように、ブリザの手に魔力が集まっていく。
「コツは、ゆっくり、ゆっくりやること。神経の一本一本を凍らせるように。そして、氷の中に余分な空気を入れないようにね」
パキパキと音を立てて、足の先が凍てつき始める。
逃げなければ殺される。それが分かっていても、スノウの体は恐怖と驚愕で竦んで動かなかった。
不意に、あの日に編んだロープのことを思い出した。それを震えながら見つめる部屋の片隅、赤い夕日が残光を差し込ませていた。
――これで、何もかも終わりだ。
かつて自分が望んでいた、永遠の終わり。そこには、安寧など微塵も存在していなかった。
諦めが頭のほとんどを支配しかけたその瞬間、小屋の外から、聞き知った声が響いてきて、スノウもブリザも体を硬直させた。
「スノウ、どこにいるの!」フルールがスノウを探し始めて、小一時間が立っていた。
ただの薪拾いでこんな森の奥まで来たとは思えないが、誰かが落ち葉を蹴り上げて進んだ形跡があった以上、スノウが森に入ったことは間違いないはずだった。
やがて、森の中にぽつんと小屋が建っているのが見えた。燭台の光が確認出来るし、しかも、中からは人の声らしきものが聞こえてきていた。
スノウではないかもしれないが、少なくとも人がいることは間違いない。木こりでも住んでいるなら、スノウを見ていないか尋ねてみよう。怪しい奴が中にいても、一応帯剣もしているし、追い払うことぐらいは容易いだろう。
そう考えたフルールは、声を上げながら小屋に近づいた。
「スノウ!そこにいるの?」
すると、フルールの声に反応したみたいに、おもむろに扉が開いた。しかも、中からは期待していたとおりスノウが飛び出して来るではないか。
「スノウ!」
良かった、という安堵の気持ちと同時に、どうしてこんなところまで勝手に出歩いたのか、と初めて彼女に対して怒りの念が湧いた。
それを突きつけ、二度とこんな勝手で危ない真似をしないように約束させなくてはと考え、フルールは口を開く。
「もう、勝手にこんなところに来たら危ないじゃんか…――」
距離が縮まったことで、フルールは月光を頼りにしてスノウの表情を確認することができた。そこでようやく、妙なことに気付く。
スノウの様子がおかしい。
普段は、常に何かニヒリズムを感じさせる陰りをまとっている彼女だったが、今は何かに対して明らかに怯えていた。
足をもつれさせながらこちらに駆け寄ってくる姿は、何かから逃げているかのようで、瞳の揺れ方は気の動転を表しているみたいだ。
スノウが、口をパクパクさせている。自分の名前を呼ぼうとしているのだと、フルールは直感する。
スノウを迎えに行くため、勢いよく地を蹴る。左手は背負った剣の柄を握り、いつでも抜刀できる準備をしておく。
異常事態が起きているのは間違いない。もしかしたら、噂の人攫いが小屋の中にいて、スノウは隙を突いて逃げ出してきたのかもしれない。
「スノウっ!おいで!」
懸命な思いで、フルールは叫んだ。すると、それを聞いたことで呪縛が解けたのか、スノウも必死に叫び返す。
「ふ、フルール様!」
走り寄ってきた彼女を右手でしっかりと抱きとめる。不気味なほど冷えたスノウの体に、心臓が縮こまりそうになる錯覚を覚える。
「スノウ、一体、何が…!」
受け止めたスノウに事情を尋ねようとした刹那、小屋のほうから大きな音がして、壁を突き破りながら数本の剣が飛んできた。
「きゃあっ!」と身を屈めるスノウ。それに対して、フルールは素早く剣を抜くと、彼女の盾になるみたいにして前に出た。
縦に回転しながら迫り来る剣を、抜き放った長剣で一閃薙ぎ払い、明後日の方向に弾き飛ばす。続く二本目、三本目も、逆袈裟、袈裟斬りと弾いてみせる。
フルールの身長にそぐわない長剣が空を切る音は、突風のようだった。
(今の感触、本物の剣じゃない…!魔力の剣だ!)
キッ、と小屋のほうを睨みつけ、フルールは怒鳴り声を発する。
「そこにいるのは誰だ!姿を見せろ!」
長剣を両手に握り、真っ直ぐ小屋のほうを向いていると、不意に、中から女の声が聞こえてきた。
「…つくづく運の良い子。王子様の迎えが間に合ってしまうなんてね」
再び、剣が飛んで来る。今度は回転していない。矢のように真っ直ぐ飛び、しかも、それらは全てフルールの後ろで固まっているスノウを狙っていた。
「くそ…よせっ!」
フルールも、スノウを守るべく長剣を遮二無二なって振り回した。だが、今回は剣に刃をぶつけることが出来ても、それらを弾き飛ばすことはできなかった。むしろ、フルールの腕のほうが反動で上下左右に揺れた。
どうにか軌道を逸らすことには成功し、スノウは無事だった。ただ、その濃密な魔力の前に背筋を冷や汗がつたうことは避けられなかった。
やがて、小屋の中から一人の女が現れた。闇に溶け込んでいて初めは年格好すら分からなかったが、月明がその横顔を照らしたとき、ようやくフルールはそれが誰かに気づいた。
「ぶ、ブリザ様…!?」
二章はこれにて終了です。
明日からは三章目が始まります。
少しずつ戦闘シーンも増えますので、そちらもお楽しみを…。




