雨の日
「どうしたのかしら?」
里美の母。玉江 智子は、引っ切り無しに掛かっていた電話の受信記録を見て首を傾げた。
相手は中島 由美の家の電話番号だった。
「きっと、今日は泊まるんだよ。さあ、明日も朝一で配送センターへ行かないといけないし、もう寝よう」
玉江 隆は妻の智子とダブルワークをしていた。
年は30歳で智子も同じである。
隆は朝はコンビニの配送センターへと行き、今度は肉の配送センター。何でも二つとも大手運送会社の仕事なのだそうだ。
智子はスーパーのレジ。夜も別のスーパーでレジをしていた。大抵、夜遅く帰っては里美の寝室で、娘の寝顔を見てから就寝するのが日課だった。
一日、14時間の厳しい労働は娘の寝顔を見れば事足りる。
「晩飯いらないよ」
隆は薄いパジャマ姿で、キッチンでビールを開けて智子へ手を振った。
疲れで食欲のないことは勿論。
毎日、スーパーの賞味期限切れの商品を食しているので飽きていたのだ。
「あなた。食事をしないと……三食とらないと力が出ないって」
智子は大き目のネグリジェを着て、キッチンの椅子に凭れ掛かり、冷蔵庫から取り出したスーパーでいつも貰うおにぎりを食す。
「俺はこれがいいんだよ」
テレビは無い。
単に電気代が惜しいのだ。二年前に会社をリストラになってからというもの。今まで共働きで生活費や学費から家の20年ローンなどを支払ってきた。里美がもう少し大きくなれば、今の現状を知ってしまうだろう。そうなる前に、何とか良い就職先を見つけたかった。しかし、このご時世。なかなかうまくいかず。腰の痛みに耐え忍び休日も返上して、二人は仕事に従事していた。
「あ、ビールのお摘み。おにぎりの明太子なんてどう?」
「ああ、くれ。腹が減っていなくてもつまみはほしくなるんだな」
隆はやや肩幅が広く筋肉質の巨漢だった。
無精ひげが生えわたり、その垢抜けた顔はどこか精悍な顔も兼ね備えている。高校時代からラグビーをしていた。体を作り月給が50万もの大手広告会社に大学卒業後入社。けれど、とある事情で社長と大喧嘩して失業をしてしまった。智子とは大学時代にできちゃった結婚をしている。ややめんどくさいことが苦手な性格だった。
智子はというと、やや肩幅が広く長身でメガネを掛けていた。髪はもじゃもじゃだがストレートヘア。少々近眼の才女のようだ。大学院まで行けそうと意気込んだ矢先に里美が生まれた。
「そういえば、明日の天気予報。ラジオで聞き忘れたわ。あなた知ってる?今日は雨だったから、きっと、晴れるとは思うけれど……」
「俺も聞きそびれたよ。肉の配送の時に助手席の寺田が愚痴ばっかりで、仕事の不満や給料の不満ばかり延々と話していたからな」
智子は冷蔵庫からもう一つのおにぎりを取り出した。
「そういえば、寺田さん。子供が三人になったんだってね。家は一人っ子でよかったわ。生活するのにも可愛い笑顔を独り占めできるのも。やっぱり、一人の方が……」
智子はそう言うとしんみりした顔をした。
隆はビールの入ったコップを傾けている。
「うーん。可愛さってやつは一人でも三人でもあるんじゃないかな?俺は確かに一人っ子のほうもいいけど……里美には弟がいてもいいと思った時もある。はしゃいでいる声ってやっぱり多い方がいいだろ?」
「うーん。そうかも知れないわね」
智子はいきなり真顔になった。
智子は結婚してから二年前までは専業主婦であった。
今ではその時の経験……といっても、買い物だが。それを微力ながら仕事に活かしている面があった。
たまに割り振られる品の補充の時に(二つともよく買い物をしていたスーパーなので)細かい品物の場所が正確に解り、間違いがないようである。
「ふー。疲れたな……。これ飲んだら寝るわ」
隆は一気にビールを喉へと流すと寝室へと向かう。
智子もおにぎりを二つ食べ終わった。
朝
目覚まし時計の音が主役の時間がやって来た。
午前6時だ。
初秋の熱気の中。目覚まし時計の音が鳴り響く。
隆は寝起きはいつも不機嫌だった。本音を言ってしまえば里美も仕事が出来ればとも思う時がないわけではない。
憂鬱の頭の中では、度々浮き上がる考えだった。けれど、仕事を終えて家に帰って来る時にはその気持ちはなくなってしまう。不思議なことだ。
隣の智子もパイプ式の安物のダブルベットから起き上がる。
目覚まし時計は一番遅い智子が消す役割だった。
この家は二階建てなのだが、今日は新聞もとらない家に誰かが、しかも午前6時という早朝にやってきたようだ。
隆たちはいつもラジオだけを頻繁に使っていた。
引っ切り無しにドアを激しくノックし、「玉江さん! 玉江さん!」と呼んでいる。
さすがにこれはなにか起きたのだろうと、隆はだるい体を引きずって、薄い皴だらけのパジャマ姿でスリッパを引っ掛け。玄関のドアを開けた。
相手は寝間着姿の中島 由美の母であった。
「玉江さん。里美ちゃんが……」
「え……?!」
まだ、ぼやけている頭を振りながら、里美が怪我でもしたり、最悪、交通事故にでもあったのだろう。一瞬、そんな考えが浮かんだ。
表情が青ざめていくにつれ、寝ぼけている頭がしっかりとして来た。
「あなた! どうしたの! 一体何が!?」
飛び起きた智子がオーバーにヒスを起こしそうな声を発し、玄関へと走って来た。
新築の一戸建ての床は、ミシリと言った。
「と……玉江さん……。警察には昨日の午後に連絡を取ったのだけど、里美ちゃんが近くの川に落ちちゃったのよ……早朝から警察の人と消防の人。それと、消防団の人たちが捜索をしてくれるわ……。あの暴れ橋で……。毎日、通学しているから大丈夫だと思ってたのに……。こんなことになるなんて……」
中島 由美の母は涙目で切迫している心を必死に抑え込んでいた。冷静に話そうと努力しているのだが、真剣な声音が、滑稽に見えるほどぎこちない。
「え……? 里美が……」
隆は次の言葉を言えずに硬直していた。
「里美ちゃん!!」
智子は外へと飛び出した。
川辺には警察の捜索隊や消防士などの多くの人達が集まっていた。
真っ青な顔で心配そうに、ひそひそと話す人々の間に、隆と智子が青い顔をして掌を合わせて神に祈っていた……。
「仕事を辞める?!」
「ああ……」
「それじゃあ、どうやって暮らすのよ?!」
「悪い。力が出ないんだ……」
その夜。二人は口論をしていた。
智子はまだ泣いてもいない。隆もだ。
まだ、里美が帰って来るのではと、二人とも信じていた。
「里美が数日後に戻ってきたら、どうするの。生活のことを考えないと……。家のローンや里美の学費や……お願い働いて」
隆は首を振り。
「お前は仕事が出来るのなら……。お前は仕事をしながら里美を待ってやれ。俺は家に籠って待つから。きっと、すぐに里美が歩いてくるさ……」
二人ともこのような悲劇が自分たちに降りかかることはまだ考えてもいない。出来れば里美が救助され。元気に戻って来ることを願っていた。そして……一週間が過ぎた。
隆は家にこもっていることに、慣れつつある。
前はトラックで町や都市を走り回っていた。あの日に戻りたい……。家に帰ると里美の寝息を襖越しに聞き、妻の智子も安堵の溜息を付いてから寝室へと行く。
学校の運動会には二人で駆け付け。
時間が少しでも空けば智子と一緒にお弁当を作ってやる。
珍しい休日の日には、三人で公園へと遊びに行った。
「もう昼か……」
習慣の一週間分の洗濯物をコインランドリーへと入れに行くと、いつの間にか昼になっていた。
警察や消防士と近所の消防団からは、まだ連絡が来ない。
新聞をあの日から取るようになった。
新聞の記事には娘の消息を懸念するような記事が目に入るようになった。そんな時だけ隆は酒を煽った。
これほど一周間というものが長い時だと感じたのは今までになかった。
昼飯を食うためにわりと広いキッチンで、簡単な食事を作る。
妻の智子は今頃は同じく昼飯の時間だろう。
茶碗に賞味期限切れのパックの白米をよそい、副食の小魚を焼いて、飯の支度をしている時に、新聞の小さな欄が目に入った。
{あなたの苦悩を取り除きます。最近、雨の日に不幸なことが多くなっていますね。そんな時には、占い師 花田 正志へ。些細なことでもご相談に乗ります}
隆はその新聞の欄を切抜き、飯を早めに食べ終わると、足早に外へと出た。
自宅から取手駅の方へと、岡尾橋と町を歩いて30分のところに、花田 正志の家はあった。会社から借りていたトラックは今は無いのだ。
平日のためか人がまばらの大通りを、皺だらけの赤いポロシャツと青のジーンズと、底がすり減った靴で早足で歩いていると薄暗い空から小雨が降って来た。
簡素な住宅街の真ん中にそれはあった。二階建てで真っ白いペンキの木造建築の家に看板があり、
{事業相談や悩みや雨の日の不幸に関係していることなどのご相談を承ります。 占い師 花田 正志}と書かれていた。
隆は眉唾ものだがと、インターホンを鳴らすと予約を取っていないことを思い出した。
ドアが開き背の高く、上がワイシャツとネクタイの背広姿の若い男性がでてきた。長い髪は後ろに全部梳いてあり、ポニーテールのようだ。
均整の取れた顔をしていて、30代の浅黒いモテ男といったところだ。
「初めまして……。どうぞ。完全予約制というわけではないので。お入りください」
暇と遊びという両極端を持て余しているような気配が少しする男であった。その男は家の中へと隆を気軽に招く。
「すいません。どうにも……相談したいことがあります」
隆は応接用のソフャが二つ向かい合って、小さなテーブルの部屋へと案内された。部屋は華奢な造りで、バラの香りがしてきた。奥さんだろうか。花田の隣に立っていた花田とは対照的な色白で、白のブラウスとラベンダー色のスカート。目を自然に見開いてしまうかのような、そんな女性がキッチンへと行きコーヒーを渡してくれる。
隆はそそくさとソフャに座り、居住まいを正していると、
「いや。堅苦しいのは苦手なのです。こうやって、気楽にご相談に乗りたい。何があって
ご相談に来たんですか?」
花田は背広のネクタイを緩ませ、片手で持ったコーヒーカップをこちらに向け、ニッコリと笑った。
その笑顔に気が緩み。
「はあ。私は玉江 隆という名です……。実は娘が雨の日にいなくなってしまいました……。近くの川に落ちてしまったのです……。今現在は警察の人や消防の人たちや、近所の消防団の人たちなど多くの人たちが捜索をしてくれていますが。……もう……一週間も経っています……お願いです。私の娘を探してくださいませんか? あ、占いで探して下さるんですよね。見つかりますか? 私の娘は生きていますか?」
隆は沈痛な面持ちを粉砕してしまうほど取り乱した言動をした。
「玉江さん。どうか落ち着いてください。……お気の毒で恐縮ですが。お亡くなりになられたとは、お思いなのではないのですね……」
「ええ」
花田の妻は隣の部屋へと行った。
「ほう……。一週間ですか……」
花田はそういうと俯いて、落ち着いた言葉を慎重に選んだようだ。
「実は私は過去10年で、雨の日に不幸を体験した人々が急激に増えているというのを知っています。調べているんですよ。何故、そうなったのかはまだ解りませんが……」
タイミング良く花田の座るソフャへと、花田の妻が薄い本を奥の間から持ってきていた。
その本を隆に差し出す。
「これは……?」
「私の調査結果を本にしたものです。例えばここ取手市の西の方。つくばみらい市では、雨の日に飛び降り自殺をした人が僅か2年間で16人もいます。東の方、竜ケ崎市では車に撥ねられ死亡した人が3年で23人もいます」
花田はそこで熱いコーヒーを一気に飲み干してやや熱を持って話しだした。
「瑠璃もう一杯だ……。更に、ここ取手市では10年前から首つり自殺をした男性が85人。焼身自殺をした女性が68人。人身事故に巻き込まれた人は……なんと103人もいるんですよ」
隆は青ざめた。
花田の言っていることは、一体……。私の娘はどうしたというのだろう。雨の日には何か不幸を招く何かがあるのだろうか?
「私の娘はどうしたのでしょうか?」
一度も口にしていないコーヒーカップを花田の妻に返して懇願した。
「それを、今から調べるのです」